三、芹沢明希星 その1
1
喉ががら空きだった。
職員室で先生の話を聞きながら、芹沢明希星はぼんやりとそう思った。
身体は鍛えてある。丸まった耳。レスリングか柔道かサンボか。襟を掴むための腕の筋肉、指のタコ。柔道かな。けれど、まったく警戒していない。この距離から指を突き入れたら気管は簡単に貫けそうだ。
殺せるかな。殺せるな。やらないけど。
「で、どうするんだ?」
「……え?」
先生(名前は……ちょっと憶えてない)はため息をつくと説教を続けた。
「来年は受験なんだぞ。卒業したらどうするつもりなんだお前は」
「実家の手伝いするから大丈夫っす」
組織からはそう答えるように言われていた。実際、どうなるかは知らないけど。
「……とにかく、もう少ししっかりしろ」
「……ハイ」
「……わかってんのか?」
「……ハイ」
話の内容はほとんど憶えていないけど、明希星はそう答えた。
誰かを殺すために生まれてきた。
誰かを殺すために訓練を受けてきた。
〈先生〉の言った「そのとき」のために。
そのはずだった。
でも、「そのとき」はいつまでたってもやってこなかった。この街にやってきてから一年。それ以前の潜伏期間を含めたら四年間。ずっと、何も起こらなかった。
もしかしたら、全部、夢だったのかもしれない。そう思うことがあった。
本当は組織なんか存在しないのかもしれない。〈先生〉のことも、あの学校のことも、訓練のことも。全部、夢の中の出来事。
明希星は欠伸を噛み殺しながら、夕方の街を歩く。
このところ、ずっと眠かった。今日の朝から、昨日の朝から、その前から、起きてからずっと。今もひどい眠気に包まれ、夢の中を歩いているような気持ちだった。
微睡みのような毎日。
もしかしたら、こっちが夢なのかもしれない。
いまは訓練の最中で、私は気絶していて、普通の学校の夢を見ている。気がつけば、あの学校にいて、〈先生〉がいて、また訓練をする毎日が待っている。
……それはないか。
ぼんやり歩いているうちにマンションに辿り着いていた。
三階。誰もいない部屋。
組織の指示で双輪市に引っ越して以来、明希星は一人暮らしをしている。中学時代の三年間、偽装のために一緒に暮らしていた人間とも切り離され、本当の単独行となった。
それ以来、連絡は封書で届くようになり、ドアの郵便受けを開くと、いつものように一通の封筒が入っていた。
組織からの指令だ。予備校の案内、スポーツジムの案内、クレジットカードの案内。さまざまなダイレクトメールに偽装した指令書。
これが明希星と組織を繋ぐ、唯一の物証だった。
明希星は封を破いた。
中身はパンフレット、そしてテンプレートの挨拶文と二次元コードが印刷された紙片。
明希星は紙片を手に机に着いた。引き出しからガラケーと英和辞典を取り出す。画面を見るとバッテリーが怪しかった。そういえば先週使ってから充電していない。
充電ケーブルを繋いで専用アプリを立ち上げ、二次元コードを読み込んだ。
どこかのサイトに繋がることはない。軽やかなメロディとともに、画面表示がおかしくなるだけだ。
意味不明な英数字の羅列。明希星は先生から教わった規則に従って数字を書き取った。それから、英和辞典を開き、ページ数、行数、単語数に応じた言葉を見つけ出していく。
「クラシックなやり方」と先生は言っていた。クラシックなやり方が一番なのだと。
ただこの頃になると、開文しなくても何が書かれているのか、ある程度見当がつくようになっていた。情報量からいって、いつもの短い文章。一応、辞書の対応する単語を拾い上げてみる。
『指示があるまで待機』
いつもの命令文。明希星は紙を破り捨て、大きく伸びをした。
〈先生〉はどういうつもりで私を送り込んだのだろう。組織は私に何をさせたいのだろう。何も知らされないまま過ごす、微睡みの日々。
考えても仕方ない。明希星は制服を着替えるために席を離れた。
「…………?」
違和感を覚え、明希星はネコ科の動物のように頭を上げた。
最初はわからなかった違和感の正体。やがてそれが足音だとわかった。聞き慣れない足音が廊下を近づいてくる。それはこの部屋の前で止まって……。
直後、郵便受けが音を立てた。
怪訝に思いながら明希星は玄関に行き、郵便受けを確認した。
封筒があった。
状況が飲み込めず、やがて、動悸が起こった。
今まで、こんなことはなかった。組織からの定期連絡は週に一度だった。それも通常の郵便で、自分が学校へ行っている間に投函されているのがいつものことだった。
同じ日に二通。本物の郵便なのか。それとも『組織からの本物の郵便』なのか。
その封筒は見た目から違っていた。A4サイズの封筒。
『重要なお知らせですのですぐにご確認ください』
表には赤字でそう印刷されていた。
爆発物を扱うかのように、明希星は封筒を机に置き、今度は慎重に封を開ける。中身は二次元コードが印刷された紙片。それから意味不明なことが書かれた印刷物数枚。
同じようにケータイで読み込む。
軽やかなメロディと同時に、ケータイが壊れたかのように画面一杯に無秩序な文字列が表示されていた。明らかに通常の文章量ではない。
そのときが来た。
印刷物に目を留める。ざらざらとした奇妙な手触り。たぶん任務のための資料だ。確か……漂白剤に漬けて表面の文字を消してから何かを使って隠れた文字を浮かび上がらせるんだったか……?
動悸が速まる。血流が鼓膜を打つ。
とにかく最初は開文だ。明希星は埃のかぶった記憶を懸命に呼び起こしながら作業を始めた。
全ての開文を終えた。明希星はもう一度、文面を確認する。
『目標に接触し、友好的な関係を構築すること。その後、質問リストに基づき、情報を引き出すこと。警戒されないこと。こちらの素性に気付かれてはならない』
そう、指令文は始まっていた。あとに続くのは細かな指示。作戦目標のこと・質問リストのこと。
キッチンに掛けられていた洗濯ハンガーを確認する。濡れた印刷物から滴った変な色の液体が、シンクに染みを作っていた。耐水性の用紙は漂白剤によって印刷が消えている。ドライヤーをかけると、ぼんやり、だんだんはっきりと紫色の文字、図面、地図が浮かび上がってくる。
作業を終えたとき、外はすっかり暗くなっていた。汗で濡れたシャツが冷たく感じる。自分が制服のままだったことに気付いて、とりあえず着替えることにした。
ベッドの上に制服を放り、バスルームに入る。
シャワーを浴びながら、明希星はまだ混乱する頭で情報を整理しようとした。
『質問リストに基づき、情報を引き出すこと』
暗殺の指令ではなかった。先生が言っていた任務ではなかった。自分は誰かを殺すために、今まで潜伏していたのではなかったのか?
『素性を隠すこと』
それは分かる。あくまで普通の高校生として目標に近づけということだ。
『友好的な関係を構築すること』
これらの情報を総合すると、つまり作戦目標の友人になって情報を引き出せということになる。
明希星は洗面台の前に立った。
そして、鏡の中の濡れたままの自分に向かって、問いかけた。
「友達って……」
……友達ってどうやってつくればいいんだっけ?
2
部屋着に着替え、いつものように床でストレッチをしながら、明希星は考えていた。
ついに訪れたその時。
でもそれは暗殺指令ではなかった。
私は〈先生〉の代わりに、誰かを暗殺するために送り込まれたのではなかったのか。そのために四年間、潜伏し、普通の生活を送ってきたのではなかったのか。
大きく足を開いて、上半身をぺったり床につけると、目の前に広げたままの命令文がくる。
『友好的な関係を構築し、情報を引き出すこと』
友達の作り方。
〈先生〉からは習ってない。たぶん、習ってないはず。
銃器の扱い方。ナイフの扱い方。自分の身体の扱い方。そういったことは教えてくれたけど、『友達の作り方』なんて授業はなかった。組織の他の人間との接触はほとんどなかったし、もちろん、その人たちからも教わってない。
組織は何をさせるつもりなんだろう。私が出来ること、出来ないこと、〈先生〉から聞いてないのだろうか。
掌を床に突き、体を持ち上げる。そのまま倒立の姿勢になったところで、指令書の内容は変わらない。隣に広げてある資料に視線を移すと、接触対象の情報が見えた。
凡田純一。
同じ学校の生徒。顔は……よく覚えてない。見たことがあるような、ないような。
同学年、隣のクラス。私はこいつに近づくために双輪高校に送り込まれたのだろうか。でも、なんで二年生になってからなんだろう? まあ、組織には考えがあるんだろう。よくわかんないけど。
ぐっと腕を曲げて、写真を覗き込む。
地味な外見。分厚いフレームの眼鏡。他に……特徴らしい特徴がない。人の顔と名前はよく忘れちゃうから、よく見ておかないと。
凡田君、何やらかしたんだろう?
組織に目をつけられるようなことをしたんだろうか。そういうことは私の考えることじゃないか。
ゆっくりとブリッジの姿勢に移る。首で体を支え、腕を組んだ。
どうやって友達になればいいんだろう。結局、その答えは浮かんでこない。
しばらく考えたところでお腹が鳴った。そういえば夕食も食べてない。
凡田君と友達になる。
組織の命令だから、やらないわけにはいかない。
いきなり押しかけていって「友達になりたいんだけど」っていうのはいくら何でもおかしいか。警戒されないように、って書いてあるし。
……そういえば、学校の人たちはどうやって友達つくってるんだろう。みんな、休み時間にグループで話したりしている。最初はみんな知らない人間のはずだから、どこかで友達になったはずだ。……ああ、中学は一緒だったかもしれない。でも、それだってはじめて会う瞬間があるはずだ。私の知らないうちに私の知らない方法で友達になってるのだろうか。こんなことなら気をつけて見ておけばよかった。
買い出しに行きそびれたので、非常用の栄養食を囓りながら自分用のスマホを操作する。
ヘッドホンで音楽の配信を聴きながらネットの漫画を眺めるのが明希星の趣味だった。今日はいつも読んでる漫画の更新日だったのだが、とりあえず後回しにして、漫画の主人公たちがどんなふうに友達を作っているのか調べることにした。そんなふうに漫画を読んだことはなかったけれど、今回は注意して読んでみる。
『おはよー。ほら、さっさと起きなさいよ』
『んだよ……毎朝、毎朝、うるせーなー』
『何よ! せっかく起こしに来てあげてるのに』
主人公と幼なじみ。
これは駄目だ。あたしと凡田くん幼なじみじゃないし。
『チクショウ! こんなところで負けてたまるか!』
『ユウくん、頑張って……!』
部活で知り合う。
私、部活やってない。そうだ、凡田君は? ……やってないな。これも駄目だな。
『……私、二十歳になるまで生きてないかもしれないの』
『そんな……』
小さい頃、同じ病院に入院してた。
そういえば入院ってしたことないな。怪我はいっぱいしたけど。
『遅刻、遅刻ー!』
『いってえ! どこ見て歩いてんだよ!』
『何よ! そっちこそ気をつけなさいよ!』
登校中、パンをくわえながら走ってたら曲がり角でぶつかる。
いや、おかしいって。いくらなんだって。息、苦しくない?
『な、何なんですか! 変なことするとケーサツ呼びますよ!』
『キミ、面白いね。オレと付き合わない?』
『……は?』
何だか知らないけどいきなり口説かれる。
そうしてくれたら楽なんだけどな。たぶん、無理じゃないかな。
調査は芳しくない。使えそうなのは何一つない。
非常食で口がぱさぱさになってきた。明希星は水のペットボトルを開けた。
……待てよ。ペットボトルに視線を落とす。
パンは無理だけど、飲み物なら大丈夫じゃないか?
登校中、ペットボトル持ってる生徒もいるし。
スマホを見ながら歩く。曲がり角でぶつかる。それで、うっかり水を掛けてしまう。
「ごめん! 大丈夫だった!?」
それから相手の教室に謝りにいく。声を掛けるようになる。
俄然、やれそうな気がしてきた。
そうだ。水なら「洗って返すから!」って次の繋がりが出来るじゃないか。それから相手の教室にいって話して、一緒にお昼食べたりして……。
うん、いけるいける!
あたし、結構頭いい!