四、不毛なる心理戦線 その1

    1


 何だったんだ、あれは……!

 ホームルームが始まるまでの間、凡田はいつものように俯き加減で自分の席に縮こまり、周囲環境の変化に注視していた。

 あの女子生徒の出現は何かの前触れなのか。それとも単なる偶然だったのか。

 今のところ変化らしい変化はない。前の席のやまかわさん(ソフトボール部)が「何か甘い匂いしない?」と、言い出したときには心拍数を元に戻すのに苦労したが。制服は拭いてはみたものの、桃の甘い匂いとべたつきは残ったままだ。

 ホームルームから一時限目にかけ、凡田は警戒を続けながら脳内のデータベースを操作し、あの女子生徒を特定した。

 芹沢明希星。

 自分と同じ二年生。昨年四月の時点で一年A組に所属していた。部活には入っていない。その他、特記事項なし。

 あのときすぐに思い出せなかったのは、二学期最初の段階で彼女を『観察不要』カテゴリーに入れたからだった。現在、どのクラスにいるのか、まだ把握はしていない。新入生や新しく赴任してきた職員の調査を優先していたためである。

 奴は何者なのだ?

 あの身体能力。明らかに素人のものではない。

 全く避けられなかった。平常時から、死角には注意を払っているつもりだった。あのときも角からは距離を取り、目視を欠かさなかったはずだ。

 それなのに接触の直前まで、気づくことさえできなかった。襲撃に気付いた直後には、すでに自分は攻撃を受け地面を転がっていたのだ。

 命が目的ではないはずだ。相手に殺す意思があったのなら、あのとき三回は死んでいたはずだ。

 警告? お前の命などいつでも取れるという意思表示なのか? しかし何のために? どうしてあんな目立つ方法で?

 あるいは別の目的なのか?

 財布はある。キーホルダーも無事。荷物を確かめたが、盗難もすり替えも痕跡がない。バッグの底に仕込んである逃走用具に気付かれたか? 緊急時用の携帯電話、釣り糸、工具、折りたたみのバッグなど。しかし、これらは日常品で構成されていて、バッグの中にある限りはそれとは気付かれないはずだ。

 どうして彼女はここにいる?

 自分と同じく去年の四月に入学している。俺がこの学校を選んだことを知っていて、彼女も同じ学校を選んだというのか? あるいはどこかの組織が毎年、あらゆる学校に工作員を仕込んでいるというのか? そんな可能性は限りなく低い。

 奴の背後には誰がいるのか?

 俺を監視していたのは奴なのか? 一年間、全く気付かれないまま? では、どうして今頃になってから接触してきた? どうしてわざわざ正体を明かした?

 ずきずき、頭が痛んできた。神経が焼け付く。偏執症が頭をもたげる。無数のありもしない幻影が浮かんでは消えていく。

 落ち着け、落ち着け。ただの偶然の可能性も捨てきれない。自分の能力の衰えを過小評価しているだけかもしれない。自分にはもう、高校生のタックルを避けきれないだけの話かもしれない。

 逃げるか、留まるか。また、その選択肢が頭を過る。

 今は動いてはいけない。

 芹沢明希星の目的がこちらに対するプレッシャーだとすれば、こちらも普通の高校生として応じるしかない。凡田純一の偽装に隙を見せてはならない。

 午前中の時間を使い、ようやく覚悟が決まった。そのときだった。

 昼休みのチャイムが鳴ってすぐ、教室の前部ドアから、長身の女子生徒が顔を出した。

 芹沢明希星……!

 明るい色のセミロングの髪、上だけジャージに着替えた明希星が顔をのぞかせていた。

 嫌な予感が背中を駆け上った。検問所の軍人が、自動小銃を持った民兵が、こそこそと話しあう警官が、こちらに視線をやったときのあの感覚。

 俺ではありませんように。凡田は顔を伏せ、こういうときいつもするように、何かに祈った。

「あ、いた!」

 その希望を打ち砕くかのように教室中に大声が響き渡った。凡田は何とかリアクションを取らずに済んだが、ドアの近くの山川さん(ソフトボール部)の肩が、びくん! と震えるのが見えた。

 いつものように嫌な予感は的中し、祈りは誰にも届かなかった。

「そこのキミ! ねえ!」

 恐る恐る顔を上げると、芹沢明希星は微笑みながら、前の席の山川さん越しに手を振ってきた。

「隣のクラスだったんだ! よかった早く見つかって」

 芹沢明希星は教室にずかずか入りこみ、凡田の机の傍らに立った。

「朝はごめんね。急いでたから、前見てなくて。制服大丈夫だった? 怪我してない?」

「だ、大丈夫です……」

「そう、よかった」

 そう言って芹沢明希星は笑い、凡田は愛想笑いを浮かべた。

 表面上は無難なやりとりをしながら、凡田は生きた心地がしなかった。芹沢明希星はやけに大きな声だった。周辺視野で、教室の視線が集まるのを感じる。山川さん(ソフト部)といえば、頭越しに行われるやりとりに落ち着かない様子で、こちらと芹沢明希星を交互に見た。山川さん(ソフト部)、きょろきょろしなくていい。きょろきょろすると目を引く……!

 逃げの体勢に入り、中腰になっていた山川さん(ソフト部)に芹沢明希星がたずねた。

「あ、椅子借りていい?」

「え!? あ、どうぞ……!」

 山川さん(ソフト部)が少し怯えの入った驚きの表情と多大な好奇心を浮かべ、そそくさとその場を立ち去っていく。荒天の夜の海岸、ピックアップのボートがこちらを見つけそこない、遠ざかっていくのを呆然と眺めていたときの記憶が蘇る。

 明希星は椅子に横座りになった。居座るつもりだ。

 目的は何だ? 相手の意図を探り出せ。

「あ、そうだ」

 明希星は突然、思いついたように口を開いた。

「自己紹介、まだだったよね。あたし、芹沢明希星」

「……凡田です」

「よろしく」

 何だか知らないが、握手を求めてくる。人目があるなか、無駄に抵抗するのはまずい。凡田が大人しく手を握り返すと、明希星はぶんぶん、上下に振ってから尋ねてきた。

「で、制服なんだけど、いつ預かればいい? 今でも大丈夫?」

「……え?」

「だから、洗濯しないといけないでしょ?」

 明希星は朝の続きを蒸し返してきた。

 やけに制服に執着する。制服に何かあるのか?

 そして、はっ、となった。

 DNAサンプル。

 シャツに残された皮膚組織からDNAを採取しようというのか。

 かつての作戦中、凡田はデコイとして偽のサンプルを投棄していた。いくつかの機関のデータベースに干渉し、遺伝子情報を書き替えることもあった。たとえ、DNAサンプルを渡したとしても、かつての活動や協力者へと結びつくことはないはずだ。

 ……いや、DNA自体は重要ではないのか? 凡田純一のサンプルを収集するのであれば、こんな回りくどいやり方でなくてもいい。こちらに気づかれない方法がいくらでもあったはずだ。

 だとすれば、こちらの反応を見ているのか? 遺伝子情報を渡すことに対する抵抗感から、こちらの素性を探ろうというのか?

 とにかく、この場合は渡すべきではない。戦略的な理由からも、偽装上の理由からも、凡田純一が提供を断るのは自然なことだ。

「いや、本当に大丈夫ですから。さっき拭いたので」

「拭いたって……」

 明希星は眉間に皺を寄せ凡田の胸元に顔を寄せた。

「ちょっと甘い匂いするよ? 凡田君。洗濯したほうがいいって」

「それにもうすぐ衣替えもありますし、そのときにクリーニングに出しますから」

「ええ……?」

 凡田が繰り返し固辞すると、明希星は露骨に困った顔を見せ、じっと顔を覗き込んできた。

「……もしかして、怒ってる?」

 今度は揺さぶりを掛けてきた。凡田は慌てた様子で言いつくろった。

「いえ、そういうことじゃなくて……! もう、気にしないでください。僕もぼうっとしてたので」

 やはり、裏に何かある。凡田は一分の隙も打ち消すよう、心理戦防御態勢を取った。


    2


 ……なんか、うまくいかないな。

 じりじりとした空気の中、明希星は思案していた。

 明希星の計画はこうだ。

 制服を預かる。そうすれば今度は返さなくてはならない。連絡先を聞いてもおかしくない。そうこうしているうちに親しくなって、友達になる。

 作戦自体はいい感じのような気がしたのに、凡田君は断固として制服を渡してくれない。

 ……もしかして見た目ではわからないがすごく怒ってるのだろうか? 明希星はたずねてみた。

「もしかして……怒ってる?」

「いえ、そういうことじゃなくて……! もう気にしないでください、僕もぼうっとしてたので」

 凡田君、優しいな。明らかに私がぶつかっていったのにな。

 でも、この場合はちょっと困るのだ。

 このままだと次に来る理由がなくなってしまう。だから、今のうちに友達になるきっかけを作らないといけない。

 明希星はバッグに手を入れつつ、たずねた。

「そうだ。凡田君、お昼食べないの?」

「あ、話が終わってからで大丈夫なので……」

「……そう」

 明希星はパンを出すタイミングを失った。

 ……そうじゃないんだけどなあ。流れで一緒に食べようか、ってやりたかったのに。

 何かないだろうか? 不自然に思われないような、何か、ちゃんとした理由。

 いっそのこと「一緒に食べない?」って聞いてみようか。不自然かな? 「友達になりたいんだけど」っていうのとあんまり変わらないような気がする。

 凡田君、いつも一人でお昼食べてるんだっけ? 友達がいないって資料に書いてあったな、本当かどうか知らないけど。向こうから「一緒に食べよう」って誘ってくれたら楽なんだけどな。他の人とおしゃべりしながらとか、そういうのしたくないのかな。まあ私も一人だけど、そういうの別に興味ないから……。

 そこで、はっ、となった。

 理由あった! 何で気付かなかったんだろう!

 よく考えたら私も『ぼっち』だったんだ!


    3


 じりじりとした時間が流れていた。

 芹沢明希星はバッグに手を突っ込みながら、何か思案している。

 妙な間。わずか数十秒だが、数分にも数時間にも感じる。

 芹沢明希星はこの場を去ろうとしない。昼食を一緒に食べようと水を向けてきたのを、やんわりと拒絶したのにそれでも帰らない。何か目的があるに違いない。

「あのさ!」

 急に明希星が目を輝かせながら言った。

「凡田君っていつもは誰とお昼食べてるの?」

「いえ誰とも……」

 凡田が答えるや否や、

「じゃあ、一緒に食べようか」

 と、明希星はバッグからコンビニパンの袋を取り出した。

 まずい。こいつは強引にでも居座るつもりだ。

 どうする? 凡田の偽装からして、断る理由がない。偽装上、凡田はむっつりなのだ。女子には全く関心のない様子でありながら密かに女子と仲良くなりたいと思っているのが凡田純一なのだ。

 こうなればアレをやるしかない。凡田は意を決して答えた。

「えっ、何?」

「だから、一緒にお昼食べようって言ったんだけど」

 聞こえないふり作戦はやはり駄目だったか……。

 芹沢明希星はもくもく、パンをかじりはじめた。凡田が怪訝そうな表情を浮かべていると、明希星が言い訳するように笑みを浮かべた。

「ほら、あたしもぼっち? だからちょうどいいかなって」

 お前のようなぼっちがいるか……!

 凡田は心中で絶叫した。

 ぼっちはぼっちを見かけたところでコミュニケーションなど取ろうと思わないからぼっちなんだ!

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