第三章『取り返しのつかない過去』 その6
「いいものが手に入りましたっ」
灯火は、心から楽しそうに笑っている。さきほど撮った写真を見ながら。
そういうふうに、僕には見えた。きっと偽物ではないと思う。
その証拠に、灯火の足取りは実に軽やかだ。今にもスキップし出すのではないかと思うほど、街を行く少女はしあわせそうだ。後ろを行く僕は、その様子をただ見ていた。
「それで、これからどうしますか?」
ふとこちらに振り返った灯火が、首を
果たして自分がどうするべきなのか。灯火はそんなことを
結局、僕は何をやっているのだろう?
何をしたかったのだろう。
何をするべきなのだろう。
──僕には、何ができるのだろう?
そんな単純な問いの答えを僕は持っていない。
ただ同じ場所をぐるぐると歩き続ける、たとえるなら触覚の片方を折られた
──やるべきことなら決まりきっていた。
僕はもうわかっている。双原灯火が星の涙を使っていると。
あの丘で渡したイミテーションではない。
そんなことは、そうだ、わかっている。
けれど、それでも僕には──これからどうするべきなのかが定められず。
絶対に会いたくなかった人間に出会ってしまったのは、そのせいかもしれない。
「──
決して大きくないその声が、繁華街の
思わず、息が詰まった。強い語調ではなかったのに、どうしてだろう、呼吸をすることすら
目の前にはクラスメイトが立っていた。ちょうど通りかかったファストフード店から、冗談みたいに最低のタイミングで出てきたところらしい。
僕を見つめる目。
それが隣で僕を見上げる灯火に移り、それから僕に戻る頃には、
「……なんで、こんなとこで……こんなときに」
強い怒りを示すものへと変わっていた。
舌打ち交じりの声。この状況の何もかもが気に
「ちょっとこっち来て。ここにいてほしくない」
──わかるでしょ、と目が告げている。
「わかった」
と、答える以外にはなかった。おそらく店の中に陽星がいるのだろう。
すぐ横では、灯火が
「え? あの……せんぱ、」
「悪いけどコイツにちょっと話あるから」
僕が何を言うより先に、与那城が灯火に言った。
「え、いや、……あのっ」
有無を言わせる気はないらしい。
そのまま与那城は、手首を引っ掴んだまま歩き始めてしまう。逆らえなかった。
──この場所にいたくないのは僕も同感だ。
ただ灯火を、このまま置いていくことだけを申し訳なく感じながら、怒る与那城に手を引かれるまま歩いた。
駅の二階から続く通路。真下にあるロータリーへ降りる階段の近くまで向かった。ここなら立ち止まっても通行人の邪魔にならない。
「なんでこんなとこにいるわけ?」
「……さすがに、それを責められる
「チッ」
あからさまな舌打ち。それは、正論だと認めたということだ。
与那城は静かに首を振った。自分が冷静ではないと、彼女も自覚したらしい。
だから、話題を変えるように言った。
「……あの子。最近、ずっと引き連れてる後輩の子だよね。朝もいっしょに来てる」
「いや……いや、そうだ」
一瞬、引き連れてるわけじゃない、と反論しかけたが。
意味ないと気づき、やめた。
「どういうつもり?」
与那城は問う。いや、僕を責めている。
「別に
「弁解する必要があるか?」
その言葉が与那城に火をつけてしまった。
「ふざけんなっ!」
「──っ」
「ねえ、いい加減にしてよ! あんた、まだ陽星にあんなことさせておくつもりなの? 陽星だって、きっと……っ」
「──あいつは、陽星は……何も思わねえよ。だから、お前が気にすることでもない」
「……っ、だったら、どうして──っ!」
わかっている。悪いのは僕で、与那城には僕を責める資格がある。
あのとき──今だって、与那城
だから、僕はこうして責められ続ける。
僕はまっすぐに与那城を見ていた。
与那城のほうが、逆に僕から視線を
「なんで……なんで陽星のこと、諦められちゃうの……? 本当にその程度だったの?」
どう答えるべきかなんて決まっていた。
それを口にしようとしたところで、けれど。
「待ってくださいっ!」
と、声があった。
あとを追ってきた
「……何?」
鋭く、
表情を持ち直し、灯火をまっすぐに見つめて。
そのきつい眼光は灯火には厳しいだろう。彼女は
「い……いや、何? じゃないです! 先輩のほうこそ──」
「ああ、ごめんね急に邪魔して。でも、こんなのといっしょにいないほうがいいよ」
「──っ」
「てかこっちはこっちで話あんの。悪いけど、ちょっと黙っててもらえる?」
不良、なんて言い回しは似合わないだろうが、髪を派手に染めていて背の高い与那城は威圧感がある。後輩の灯火にしてみれば怖い相手だろう。
──けれど灯火は引かなかった。
「それならわたしもいっしょに聞きますっ!」
「……、は?」
与那城が目を見開いで驚くという、
だが僕は指摘もできない。灯火の言葉に驚いていたのは、僕もいっしょだったから。
「ちょ……な、なんの権利があってそんなこと!」
灯火は叫んだ。
「決まってます! それは……、えっと?」
「…………」
「そ、それは……それは、……あー」
「…………」
「まあ特にありませんが知ったことでもありませんっ!」
いや、思えば灯火はいつも無茶苦茶ではあったが。
「今はわたしが
しかもデートと言い切るのが恥ずかしかったのだろう、
見切り発車にも程がある。こいつは基本的に、動いてから考えるタイプなのだろう。
「え、あの……ごめん、よくわかんない……」
与那城は見事に狼狽えていた。というか純粋に言葉が通じていなかった。
まあ、与那城は威圧感があるだけで、他人を脅すような
少しだけ、空気が軽くなった。さすがは
ここで僕も口を開いた。
「
「……何それ?
「別に。いてもいなくても同じなだけだ。違うかよ?」
その言葉でさらに
僕の言っていることが一面の事実であることは、与那城にだってわかっている。
「……諦めたのかって、お前、
だから僕はまっすぐに答えた。
与那城の視線以上に、今は灯火の視線が怖い。
彼女もこちらをまっすぐに見つめて、僕の言葉を待っている。
──それでも、言った。
「そうだよ。僕はもう諦めた。それに──そもそも、あいつに僕は必要ないよ」
「そんなことない!」与那城は叫ぶ。「だって陽星は、いつも──」
「あるよ。与那城、お前はあいつ本人に確認したことがあるのか? あるだろ。ないわけじゃないはずだ。だったらわかるだろ。あいつが、僕のことを少しでも話したのか?」
「ふざけるなっ!」
ちょうど階段を昇ってきた男性が、ぎょっとしたようにこちらを見た。
痴話
けれど。
僕にだって、こうする以外の方法がない。
──冷たい氷点下の人間だと思われ続けるのが、お互いにとっていちばんよかった。
「陽星は……陽星は、ずっと、ずっと言ってたんだよ……?」
与那城の顔が
それは義憤であり、僕への憎悪であると同時に、自分自身に対する
「……
頭痛が、強く鋭く僕を
それを僕は隠し通す。
「なのに……なんで冬月がいなくなるの?」
「……いつの話だよ。いいか与那城、僕は──」
「おーい、
横合いからかけられた声に、僕も与那城も、灯火でさえ硬直した。
「もう、こんなところにいたー。なんでお店の前からいなくなっちゃうかなー……あれ?」
かつて小中学時代、僕の友人であった少女は。
「あ、あれ。同じ高校の人かな。
僕のことなどまるで知らないという態度で。
完全に、僕を記憶から消し去ったように。
──もう何度目になったかわからない『初めまして』を、
「ひ……、ひせ」
ほとんど泣きそうな表情で
僕には何も言えない。
僕だって──何度言われても慣れないのだから。
「久高陽星です! っていうか……なーんか、これ、もしかしてお邪魔だった感じ……?」
あははー、と乾いた
僕は、だから、それに乗る。
「どうも、初めまして」
言った瞬間、与那城が
けれど僕は構わない。優しい与那城が、この振る舞いにどれほど心を痛めているのか。それを知っていて何もしない。嫌われて当然だと思う。
「与那城を連れ出して悪かった、久高さん。話は済んだから連れて帰ってくれ」
必要なのは氷点下の心。
何を思ってもいい。自分の心は自分ですら操れない。けれど。
それを表に出しさえしなければ──僕は冷たい人間でいられるのだから。
「もしかして、
首を
「いいや。というか、僕も別に連れがいるんだ」
「あ、えと」
置いていかれていた
──それを見た陽星が、ぱっと目を見開いて言った。
「あれ? ああ、やっぱり! 流希ちゃんだ!」
僕の動きが止まった。
そして灯火は、
「なんか久し振りな気がするね! あれ、なんでだろ。学校同じなのにねっ!」
そう、なのか。
陽星にも、灯火は──
「……ひ、
混乱したのは
「
「陽星、あの……何言って」
「そうだ! よかったら、久し振りにいっしょに──……あれ?」
そこで、陽星は。
「……あれ、どちら様ですか?」
さきほど自己紹介を交わしたことなど、何も覚えていないという表情でそう言った。
「あ、あれ。挨拶して、ない……ですよね? え、いつからいました!? わわ、ごめんなさい! わたし、なんか失礼なコトを──」
「いえ。大丈夫です」僕は言う。
陽星は一度、灯火を──流希と呼ぶ灯火を──見つけた時点で、僕から意識を切った。
──その時点で久高陽星の中から、冬月伊織の記憶は再び消滅している。
彼女は僕を忘れた。そして僕という存在を記憶できなくなった。
僕と
「すみません、急ぐんで。──行くぞ
「せ、せんぱ……っ!?」
有無を言わせない。僕は灯火の手を取って強引に歩き出す。陽星も、そして
「
怒っているような、あるいは泣きそうな表情を見せる与那城。そうさせてしまうことが申し訳なかった。だけど、僕は
だから、すれ違いざまの小さな声は、聞こえなかった振りをして。
僕はその場を後にした。
そのまま灯火を引っ張るように、しばらくどこへともなく歩く。
「……せんぱい」
小さく、灯火の声がした。
それで我に返り、僕は灯火の手を放した。
「すまん。急に引っ張って悪かった」
「いえ、それは……わたしはいいんですけど」
「悪かったな、いきなり巻き込んで。エスコートの失敗は認めるよ」
「……
両手を胸の前で握り締めている灯火が、小さく言う。
──どうせだ。
ここまで見られてしまったのなら、もう全て話したほうがいいだろう。
というか。そうだ。
なんなら初めからこうしていればよかったのかもしれない。
「見てたならわかるだろ。──星の涙なんてもんに頼った
「じゃあ、やっぱり……せんぱいは」
灯火はそこで言葉を止めたが、続く文句はわかっている。
普段なら答えない。でも、今回に限って、灯火に限っては言ったほうがいいだろう。
「そうだよ。僕は中学生のときに、星の涙に願いをかけたことがある」
──そして、大切だったはずのものを失った。
自分の力ではなく、安易な奇跡に
「今のお前と同じようにな」
それでも。
僕は自分の失敗を棚に上げ、エゴを押しつけるように灯火へ告げる。
「お前も使ったんだろ。姉の──
「……やっぱり。それも、お気づきでしたか」
あはは、と乾いた笑いを
気づかないはずもなかった。こいつが僕に近づいてきた理由など、ほかにはない。
……
ずっと探していたのに。僕と同じように、
「なあ、灯火。……ひとつだけ聞かせてくれ」
「……なんですか?」
「前にしたのと同じ質問だ。お前の姉は──双原流希は元気にしているか?」
あの日。あの丘で
けれど灯火は──あの日とは正反対の答えを返す。
「
「…………」
「ええ、そうです。──お姉ちゃんは中学生の頃に、交通事故で亡くなりました。わたしを
だとするなら、僕は。
──
なるほどそいつはクズ野郎だ。学校で言われている程度の罵倒じゃ足りやしないほど。
「なら、灯火。お前が星の涙にかける願いは」
それでも。
それでも自分すら棚に上げ、僕には言うべきことがある。
「──自分の姉を、生き返らせることか」
「その通りです」
と、灯火は言った。
笑顔だった。
「せんぱいも
灯火は、まるで何か縋るものを求めるような顔で、僕に言う。
それでも僕は、あの丘のときと態度を変えない。変えるわけにはいかなかった。
「やめろ」
僕は言った。
灯火が、その笑顔を曇らせた。
「……全部知っても。まだ、そういうんですか」
「星の涙なんてものに
冬月伊織という、その全ての元凶である男を。
──
「やめろ、そんなことに意味はないんだ。都合のいい奇跡に、頼ろうとするな」
「……伊織くんせんぱいは、それを使ったんでしょう?」
「ああ、そうだ。僕は使った。使ったから今、こうして後悔してる」
「それはせんぱいの問題じゃないですか。ただのエゴです」
「その通りだ。別に、同じ間違いをしてほしくない、なんて殊勝なことは言わない。でもそれは無駄なんだ……間違ってるんだよ」
「なぜですか? なぜ、せんぱいにそんなことが言えるんですか」
「──星の涙には、亡くなった人を生き返らせるような力はないからだ!」
僕は、そのことを知っている。
そして問題なのは、そう。
──果たして灯火が、叶わぬ願いの代償に何を支払っているかという点である。
前兆は、もうとっくに目の前に現れていた。
「いいえ」
にもかかわらず、灯火は言う。
灯火。灯火、なのか? 目の前にいるのは──本当に──……
「ぐ────っ、ず……あ、ぎぃ……っ!?」
突如、信じられないほどの頭痛が僕を襲った。
頭が痛い。割れんばかりに。
まるで僕の中の何かが、何かに逆らって戦っているみたいな。そんな痛み。
思わず僕はよろめいてしまう。灯火が驚いた表情で僕を──そうだ。
灯火だ。
流希じゃない。
「……っ、
僕は言う。それ以外にできることはない。
そんな僕を見て、──ふっと、双原灯火は、はにかむような笑みを見せた。
「伊織くんせんぱいだけは、ずっとわたしを《灯火》だと思ってくれてるんですね」
「……、灯火。お前、は……」
「生き返りますよ、お姉ちゃんは。必ず。わたしがそうするからです」
断定するような口調で、
痛みが、やまない。
そのせいか徐々に意識のほうが薄くなっていく。
「だって、
「……灯火……」
「今日なんか笑いましたよ。朝起きたら、お父さんとお母さんが、呼んだんですよ」
「……っ」
「わたしのことを──
僕は動けなかった。
頭痛が
けれど今の僕にはもう──この痛み以外に
「だから、ありがとうございました、伊織くんせんぱい」
灯火が言う。
灯火。そうだ、僕だけはそれを理解している。
絶対に忘れてはならないことだ──。
「もう伊織くんせんぱいから、星の涙の使い方を
「灯、火……待て、」
「それでは、さようならです──伊織くんせんぱい」
灯火は言った。
別れの言葉を告げると同時に。
「──次はせんぱいも、きっとお姉ちゃんに会わせてあげますから」
そのまま去っていく灯火を、追いかける余力が僕にはなかった。