第二章『後輩のいる日常』 その1
「ほら、遅刻しちゃいますよ、
──それがひと晩でどうしてこうなる? 僕はさっぱりわからない。
六月二十五日、火曜日。
朝から後輩の襲撃を受けた僕は、重い気持ちでのろのろと通学路を歩いていた。
その背中をぐいぐいと押してくる
「……本当にこのまま学校までついて来るつもりなのか?」
だからって放置もできないのだから、こんなふうに問いを投げてみる。
どうしたって受動的だ。あんなことがあって、なぜこうなるというのだろう。
本気でわからない。
「そりゃ、同じ学校なんですから。別れるほうが変でしょう?」
「そうだけどな……悪いことは言わんから、離れて歩いたほうがいいぞ」
僕は言う。
けれどそんな僕の態度に、灯火はますます絶好調だ。
「おー、なんですかなんですか、伊織くんせんぱい? ははーん、さてはわたしとペアで登校するのが恥ずかしいわけですね? 意外と
灯火は《小悪魔系後輩》ムーヴを再開していた。諦めが悪い。
どうだろう。この振る舞いより、素でいるほうがかわいかったと思うのだが。何ごともなかったかのように演技を再開した灯火に、言える言葉はなかった。
昨日の
「まあ、確かに恥ずかしいっちゃ恥ずかしいな」
だからと言って反撃しないとは言っていない僕だ。
ついでだ。通学がてら、灯火の小悪魔ヅラを
「お、おぉ……伊織くんせんぱいが急に素直に。え? 本当に照れてくれてます?」
「アホ面の後輩に引っつかれてるとこ見られるなんて、なかなか心に来る」
「言うにコト欠いてアホ面ですとぉっ!?」
憤慨する灯火だった。いや、するに決まっているのだが。
にしたって、一発で素に戻っちゃっている。演技、下手だなあ、こいつ……。
「そこは『かわいい後輩といっしょにいるなんてクラスの友達に見られたらからかわれて困るぜー』的なことを思うところなのではっ!?」
「それを自分で言う
「……
「丁寧語で話せばいいってものでもないでしょ。
「そう言われると弱いですが……いや、じゃなくてですね? もっと優しくしてくれてもいいんじゃないか、ってことをわたしは主張したいわけですっ!」
「約束もなく早朝六時半から家に押しかけてきた
「それはありがとうございました! けどそういうことじゃなくってですっ!」
なんかもう普通に面倒臭い彼女みたいなこと言ってんな、こいつ。
いや、さてはそういう狙いで話を展開しているのかもしれない。
「お、おかしいな。お姉ちゃんはモテたんだけどな……いったいわたしには何が足りないというのか」
「いろいろとそれ以前の問題だよ。まずなんだ、小悪魔系後輩って」
「う、うそ。そんなはずは……わたしはちゃんと、学校のせんぱいにアタックする方法をネットで調べてやっているというのにっ!!」
それをネットで調べているという点がもう間違っている気がする。
「何を見たんだよ、いったい」
「何って、《後輩彼女にされて
「見たのか」
「見ました」
「それで?」
「最近は《ウザかわ》が
「化けの皮が
「しまった誘導尋問! ち、違いますよ……? わたしは、素で、小悪魔なのです。もう生まれつき、そう……神に作られた小悪魔です。あれ、神様と悪魔って敵かなあ……」
ガバガバかよ。
せめてもうちょっと練ってこいよ。面白いからいいけど。
「そのランキングの是非を別にしても、知らない人がいきなり来たら普通に怖いわ。てかなんで家知ってんのマジで? さっきも
「知らない人ってことはないじゃないですか。家知ってるのだって、小学生の頃、普通に来たことあるからですよ。え……てか、それすら覚えてないんですか?」
「……あー……」
言われてみれば、そういえば何度かは来たことがあったか。
基本的には、姉である
「そっか、それで覚えてたのか。ならいいや。解決」
「それはそれであっさりしたものですね……」
実際、その程度なのだ。少なくとも僕にとっては。
「感情に熱量を持たせたくないんだよ。怒ったり憎んだり、面倒だろ、そういうの」
僕はそうして生きている──氷点下男などと
感情に、火を入れたくなかった。熱を作りたくない。
誰に対しても同様に、差別も区別もなく《
「はあ……なるほど。ちょっと前に
「それ草食系のこと言ってる?」
「惜しいっ!」
「惜しくねえよ。食物連鎖のピラミッド一段落ちちゃってんだろ下位に……」
第一、僕が植物ならこいつは火種だろう。そこが厄介だった。
近づかれるのは、踏み込まれるのは苦手なのだ。情が移ってしまうから。
「──
だから先んじて言っておく。
現状、灯火の行動は意味不明だ。目的の予想はつくが、それでも違和感が残る。確証がない。だから、どう転んでもいいように
灯火に対してというよりも、どちらかといえば、むしろ自分の心臓に。
「本当にこのまま学校に向かっていいんだな?」
「……何かあるんですか?」
僕が真剣な雰囲気になったと察してか、灯火が少し静かになる。
「何か、っていうかな。一年生つっても六月も終わる頃だ。僕が学校でどう呼ばれてるかくらいは、さすがに聞いたことあるだろ?」
「……えーと?」
「聞いたことないか? ……これあんま自分で言いたくないんだけど。二年の先輩に
「ああ、それなら聞いたことありますよ!」
灯火はぽん、と手を
「なんか、女子を言葉攻めして泣かせるのが趣味だとか、命の恩人を見殺しにしたとか、むしろ人殺しだとか……生徒ひとり自殺に追い込んだとか、いじめでクラスを支配してるとか。もう眉唾を通り越して話大きすぎるし、特に気にしてませんでしたけど……」
「いや。よく知ってらっしゃるよ」
なんなら僕ですら知らない話も混じっていた。
クラスを支配してたのか、僕……。にしては肩身が狭いんだけど。
「え? まさか、それが
まるっきり信じていないという表情の
いや。さすがの僕も、それが真実だと
「僕がそう思われてること自体は事実だよ。そんな
善意からの忠告である。けれど灯火は、真に受けた様子もなく半笑いだった。
「ははん? なるほど、嫌われ者の僕に近づくな、ってヤツですね! かぁっこいーっ!」
「ああ……お前が僕をバカにしてんのはよくわかったよ」
「いえいえいえ! まあ確かにやっすい表現ですけど、実際ホントに言われてみると結構悪くない気分です。伊織くんせんぱい、一ポイント! 大切にされてる感、素敵っ!!」
「……まあ、お前がいいならいい。忠告はした」
気を遣ってやるのがアホらしくなってくる態度だ。
「いえ、
目を細める僕に、灯火はつけ加える形で。
言った。
「伊織くんせんぱい、なんだかんだ優しいですよね。思えば昨日も心配してくれてたわけですし。植物系ではなく実はツンドラ系だったわけですか」
「草木も生えなくなってんぞ、おい。一周回って逆に合ってる感あるけども」
「ツンデレ! でしたね。伊織くんせんぱい、ツンデレ説です」
「馬鹿言うな。だいたい優しくなさで評判だって話、聞いてるって言ってたろ今」
「いやでも、だから、それただの噂なんですよね?」
「…………」
僕は悟った。
少なくとも自分を下げて突き放す形では、灯火から逃れられそうにない。
「わたしはちゃんと、自分の目で見て言ってますし。少なくとも昔、ひとつ下のわたしといっしょに遊んでくれたのは覚えてますから。あのとき、すごく嬉しかったんですよ?」
「…………」
「わたし、いっつもお姉ちゃんの後ろにいたっていうか。あんまり明るい子じゃなかったですけどね。それでもせんぱい、わたしによくしてくれてたじゃないですか。そういうの知ってて、変な噂なんか気にしませんよ。普通に。……え、なんかおかしいですか?」
ごくごく当たり前のように灯火は言った。そこに、僕は打算の影を見なかった。
さきほどまでのように、僕をからかっているわけではない態度。ただ本心からの言葉。
──ああ。そういうところは本当に、
明け透けに向けられる好意には心がざわついた。どうにも居心地が悪くなってしまう。
だから少しだけ、歩くスピードを速めた。
「ちょ、なんですかー、置いてかないでくださいよーっ!」
「早く行こうって言ったのはお前のほうだろ」
もともと、僕の家からなら学校まで三十分もかからない。
余裕のあるペースなのだ。辺りには同じ制服を着た人影も目立ち始めている。
「
追いついてきた
「もう校門に着く。ひと気のある場所でする話でもないから、それは後日でいい」
「そうですか……あっ! てことは
「デレてない」
「またまた照れちゃっ、あっ、速い、速いですが足っ!?」
ポジティブシンキング、というか自分に都合のいい解釈ばかりする
単に僕は、この状況を知り合いに見られたくないから速度を上げただけなのだが──、
「あ、やっぱり止まってくれるんですね、伊織くんせんぱいっ! もうもうっ、そういうとこズルいですよねー。でもでも、あまりチョロいと思われるわけには──せんぱい?」
どうやら遅かったらしい。
正面に、さきほどの灯火とは比較にならないほどウザいニヤケ面を見つけてしまった。
最悪なことに、それは人の流れに逆らってまでこちらへ近づいてくる。
「よーう、
「……お前こそ。珍しくお早い登校だな、
「いやいや。俺は健康優良優等生として通ってるからな。かの冬月先生が、朝からこんなお熱いシーン見せてくれるほどレアじゃねえ。いつものマイナスっぷりは捨てたのか?」
灯火といっしょに通学、なんてシーンを見られたくなかった相手の、第二位くらいにはランクインする男がそこにいた。
「その様子じゃ、まさか朝帰りか? 眠たそうだぜ」
「ひゃわっ」
ふざけた軽口に、灯火が顔を真っ赤にした。それを見て遠野は苦笑だ。
そういう誤解されそうな態度を取るな、と言いたい。
「ふざけろ。僕はただ普通に登校してきただけだ。適当なことばっか言うなよ」
「もちろんわかってるけどな?」
いや。わかっていて言ったのなら、より厄介なだけなのだが。
「それでも、かの
「朝、会ったってだけだ。道が同じなんだから仕方ないだろ」
そして、そもそも
「で? どこでこんなかわいい彼女をひっ捕まえてきたんだ? 紹介してくれよ」
「……もう頭が
こめかみを押さえて僕は言う。友人は少ないのに、その少ない友人に見つかるとは。
と、そこでようやく再起動したのだろう、
「えっと……?」
「ああ。俺は遠野
一瞬で爽やかな笑みに変わるのが、最もタチ悪いところだと思う。
何がって、僕に対する態度もきちんと灯火には見せているところがだ。その上で女子に対しては、あえて別の対応をする。行動そのものが遊び人アピールみたいな
「あ、わたっ、えとっ……んんっ!」
ざまあみろ。そうそう誰もがお前に
「えーと、その……わたしは、……ええと」
灯火はかなりか細い声で言った。徐々に徐々に、なんでかじりじり後ずさっていく。
なんだろう。僕に対する態度とは、違うなんてレベルじゃない違和感だ。
「
そう名乗る頃には、すっかり僕の後ろに隠れる形になっていた。
僕の背中側に回った灯火は、腰の辺りを
僕相手には何も思わないのに、遠野には緊張するというのなら……釈然としない。
「──ああ、そうか。なるほどな。そうだな」
いったい何を納得したというのだろう、遠野が言った。
そのまま遠野は僕の肩を組むような形で掴むと、ニヤニヤ笑みを浮かべる。
「ま、よかったんじゃねえの。なあ、冬月先生? おめでとう、と言っておこうか」
「……だから、そういうんじゃねえって」
「こんなふうに歩いてきてよく言うよ。……ま、どう転ぶかは知らねえが」
「あ? 何がだよ」
「……お前を見てる奴は、ほかにもいるだろって話さ」
ちらり、と目配せをするように、遠野は視線をわずかに校門の内側へ流した。それからいつものように乾いた笑みを浮かべつつ、僕を解放して言った。
「そんじゃ邪魔者はこの辺で。
「え? あ、はい。もちろんで──もちろんっ!」
普通に
「本当にお前の言うことじゃねえだろ」
小さく息をついて、僕は灯火に向き直る。
「……なんか今、変じゃなかったか?」
「どっちかっていうと、変なのは
ナチュラルに失礼なことを言われて閉口する。
さっきまでの態度はどこへやら。灯火は何ごともなかったように続けて、
「ははー。しかし、イケメンって感じのイケメンでしたねー。なんか、あんまり伊織くんせんぱいの知り合いってタイプのオーラじゃないというか」
「何その適当な感想……ただのクラスメイトだよ。タイプも何もないっての」
「……おやん? そのリアクション、まさか伊織くんせんぱい、ヤキモチですかあー?」
一瞬で
次は対応を変えてみるか。僕は少し考えて、今回は話に乗ってみることにした。
「うん。まあ、そうだな」
「ふふーん! そうでしょうそうでしょ──おおっとぉっ!?」
得意げなはにかみ顔から一転、またしても変なポーズを取る灯火。
「……今度はなんのポーズなんだ?」
「……えと。カマキリのポーズですかね……?」
「ああ、なるほど。その手でカマを表現してるわけなんだな。多彩じゃないか」
「いやせんぱいがいきなりデレるからでしょーが!?」
聞いたことないタイプの逆ギレを
いきなりデレるて。
「デレるときはデレるって言ってからデレてください! びっくりしちゃうでしょっ!」
そんなこと言われても。
面白い。僕は神妙な顔を作ってみた。
「いや、さっきまで冷たく当たって悪かったな、と思って。遠野と話してる灯火を見て、なんとなく胸にチクッときたというか……これが嫉妬なのかな」
「い、いやっ、も、そういうのいいですからっ! そんな手には引っかかりませんよ!」
「確かに灯火の言う通りだね。かわいい後輩が迎えにきてくれるなんて、その時点で
「うひっ!? あ、あのっ、もうそういうの恥ずかしいので、ちょっと……っ!」
「いやさっきまで済まなかった。これを機に僕も心を入れ替えるよ」
「うひゃあっ。……な、なんなんですかあっ! あ、あのっ、もしかして本当に──」
「──
首を振って僕は歩き出した。
背後から、「な、な──なあ……っ!!」と声が聞こえてくるが、無視である。
ただ少なくとも
「どどっ、どういうことですか、なんですか今のっ! ちょっと待ってくださいよぉ!」
叫びながら後ろをついて来る灯火。
小悪魔できない、からかい下手の後輩だった。
「
「その
「ひどっ! 冷たすぎるんですけどっ!!」
「さっきそう説明しただろうが。それでいいっつったのもお前だぞ」
「わたしが冷たくされたいとは言ってませ──ん!!」
「はいはい……」
灯火の言葉を適当に流しながら僕は歩く。
何歩か進んだところで、ちらと首だけで背後を振り返る。校門の外側に、こちらを
「伊織くんせんぱい? どこ見てるんですか?」
「別に。……てか一年の
「なんですか、それー! もう少し名残惜しむ態度を要求しますっ!」
「わあお別れだ残念だなあ」
「雑!」
「じゃあ、また明日」
「しかも今日はもう会わない気ですか!? 放課後デートは!?」
「いや知らねえよ。なんだそれ。聞いたこともない予定を当然のように
「そんなあ。伊織くんせんぱいの
「お前、意外と厚かましいよな……しれっと何言ってんだ」
「朝、家に押しかけた時点で何を今さらですよ」
「そうだけど。お前が言う?」
「えへへ。そう言いつつ、なんだかんだで優しいのが伊織くんせんぱいでしょう?」
その言葉には僕は答えなかった。
好意を向けられているのか、それとも調子に乗られているのか。どちらがマシなのか。
誰も彼も、好意を全力で
それが理解できない、なんてことは言わない。僕にだって感情はあるのだ。
感情が心を燃やして得られる熱量ならば、それはいつだって誰かを焼く可能性を持つ。喜怒哀楽のいずれにかかわらず、他者へ感情を向けるとはそういうことだ。
──それほど恐ろしいことがこの世にあるだろうか。
だから僕は、それを隠す。感情があることは否定できなくても、それを態度として外に出さずにいることなら、きっとできるはずだから。