プロローグ『自称・小悪魔系後輩少女と、他称・氷点下男』
「おはようございます、
六月二十五日、火曜日。早朝。
玄関先を揺らしたその声で、僕は完全に閉口した。
「どうですか。
制服を着た少女──の形をした幻覚妄想(であってほしい)が、明るすぎる笑顔を僕に見せる。朝も早くからこの勢いでは、思わず健康を損ねかねない。主に精神の。
「……なぜ、ここにいる?」
そんな問いが、気づけば口から
何も哲学や禅問答の類いではない。インターフォンの音で
どちら様ですかと
『あ、伊織くん……、せんぱい、ですか? わたしのこと、わかります?』
「は? ……
一瞬で目が覚めた。直後、ほっとしたような吐息の音がして、それから。
『おはようございます、伊織くんせんぱい。かわいい後輩がお迎えに上がりましたよ!』
機械越しに聞こえた華やぐ声と、カメラを
慌てて僕が玄関に出ると、そこで待ち構えていた少女は、同じ
おはようなんとか。かわいい後輩が
用意してきました感の
「えー、嫌ですねえ、わかってるくせにー! それともー、わたしの口から聞かないと、安心できないってことですか?
あざといにも限度がある。いずれ法規制されるべきあざとさだった。
「まぁまぁでもぉー、そうやって言葉にして確かめたいって気持ちは大切ですよねー!」
後輩の少女──
小柄で
制服姿。見慣れているのは同じ高校に通っているのが理由で、ただ灯火の場合、上着の下にも何か着込んでいるのだろう、薄い灰色のフードが見えた。そこがまたあざとい。
見た目だけなら実に愛らしいというのに、なぜかイラっとくるのはそれが理由か。
「それって伊織くんせんぱいも、大事な気持ちはきちんと言葉にしてくれるタイプだってことですもんね! そこは好感度高いですよっ。愛の
「……なんなんだお前は? 何が目的でここに来た?」
ひとつ目の疑問には答えがなく、絞り出したふたつ目の問いがそれだった。
さすがに、この問いには早朝の
一瞬。問いから間があって、それから。
「なぁんですかそれー! 昨日会ったばっかりじゃないですかー! あなたのかわいい小悪魔系美少女後輩、双原灯火ちゃんですよっ! まさかお忘れではないでしょう?」
もはや頭が痛い。小悪魔などと自称する人間にロクなのがいないのは世界の真理だ。
「そんなことはわかってる。僕が訊きたいのはそういうことじゃない」
「へえ……わかってるんですかー。ふーん……」
「昨日会ったばっかりの
ようやくまともに舌が回り出す。
けれどその回転数は、灯火にまったく追いつけていない。
「それもさっきから言ってますよぉ。伊織くんせんぱいをお迎えに来たんです。学校までいっしょに行きましょうっていうムーヴですよ! どうですか、かわいくないですか?」
「────」
「あ、でもでも、手を
「……この世の終わりかよ」
僕は顔を覆った。朝からこんな予想外の展開は、どうにもカロリーが高すぎる。
「いくらなんでも反応が
不服そうに
だが、それは昨日がほとんど初対面みたいなものという意味である。ここまで親しげにされる理由など、普通に考えれば存在しない。
いや。厳密に言えば確かにもともと知り合いではあった。
双原灯火は、僕が小学生の頃に親しかった幼馴染みの妹なのだ。
つまり、家まで迎えにきてくれる年下の彼女などではないということだ。
こうして顔を合わせるのも、五年振りかそれ以上である。
問一。では彼女は昨日、僕にひと
答えは
灯火にはなんらかの思惑があり、だから僕に接近してきた。そう考えるのが自然だった。
「……それは、昨日の意趣返しのつもりか?」
だから僕はそう
昨夜、久々に再会した僕と灯火は、あまり面白くない話をした。好かれるどころか逆に嫌われているくらいが当然で、彼女の思惑もその辺りにあると僕は見ている。
「うーん……そうですね。昨日の
問いに、灯火は
やはり昨日の再会が、お気に召したわけではなさそうだ。
「あんなに運命的な再会だったのに。伊織くんせんぱいってば
「運命的じゃないし逃げてもないし酷くもねえよ」突っ込みは三つ出た。「夜中に出歩く不良娘がいたから、ごく良心的な一市民として忠告してやっただけの話だろ、昨日は」
「そんなことはどうでもいいんですよ、伊織くんせんぱいっ!」
日本語が。あるいは常識が通じていない。
「そんなことって……てか、その変な呼び方なんだよ? 呼ぶなら普通に呼んでくれ」
「そんなこともどうでもいいんです!」
「お前もういっそすげえよな。どうでもいいで全部流す気か?」
「とにかくわたし、
こんな正々堂々としたストーカー宣言、聞いたことがない。
「あなた、自分が何を言ってるかわかってるの?」
もはや僕の言葉遣いまで変わってしまう始末である。
「訂正、ちょっと間違えました。伊織くんせんぱいと付き合うことにしました、です!」
「だとしてもおかしいから。ほぼ訂正になってない。いっそ悪化してる」
後輩が異様にグイグイ来る。しかも話を聞いてくれない。
わかんねえな。世間じゃ最近、こういうのが
「まあ、いきなりの後輩お宅訪問にドキドキしてしまうお気持ちはわかりますが」
「いきなりの自宅特定にドキドキしてんだよ僕は。なんで僕の家の場所を知ってんだ?」
「ですがご安心くださいっ!」
「だったら安心できる要素を
「今日から伊織くんせんぱいは、か、かわいい小悪魔系後輩と合法的にイチャつけるってわけですよ! よかったですねえ、おめでとうございます。これは特別ですよっ!」
……客観的に見て。
この現状は、恵まれているものなのだろうか。明け透けに放たれる
僕は、それを決して表に出さないけれど。
「……まあいいや」
がしがしと頭を
僕にだって一応、起き抜けの様を後輩に見られることへの羞恥心くらいはある。
「とりあえず上がれよ。玄関先で話し続けるのも、ご近所さんに迷惑だろ。悪いけど僕はまだ何も準備できてないから、終わるまでは──」
「あがっ!?」
「……え、何その奇声? 急に……?」
当たり前の提案をしたつもりだったが、灯火からは妙なリアクション。
僕は思わず目を細める。
灯火は僕を見て、それからまるで救いを求めるみたいに、あちこち視線を
「へぁ……あの、えと……い、いいんですか、入って?」
てっきりノリノリで乗り込んでくるものと思っていた僕にとって、これはかなり予想を外れたリアクションだった。
「いや、さすがに表で待たせとくわけいかんだろ。僕、まだ起きたばっかだし」
「あ、で、ですか……。えと、そ、それじゃあ、お邪魔しますね……?」
「ん……?」
妙に
「……ま、いいか。適当にその辺で待ってろ。悪いが構ってはやれんからな」
僕は首を
だが後ろの灯火はなぜか靴を脱ごうとせず、何やらもじもじ
「おい、どうした? 急に静かになられても逆に怖い」
「あ、や……ええと。あはは……」
そのまま見つめていると、その視線に気づいた灯火がはっと顔を上げ。
「な、なんですか。入りましたけど、ちゃんと!?」
確かに扉の内側には入っている。
が、そこで止まられてもだ。リビングとかで座って待っていてほしかった。
「……おい」
「わんっ!?」
声をかけようとすれば、驚いたように体をビクッとさせて、灯火は変なポーズを取る。両手を顔の横まで上げた姿で硬直しているのだ。開いた両手がこちらに見えていた。
……いや、意味がわからないが……。
まっすぐ
「……えと。ち、ちがうんです、よ……?」
「何が? ……何してんの?」
「これは……これはそう、そうです。言うなれば野生のくまさんのポーズ」
「野生のくまさんのポーズ」
「……が、がおー。……とか言ってみたりしてー……」
「────」
「うわあ何コイツ的な視線が容赦なく突き
確かに、野生のクマが威嚇するときのそれに似ているかもしれないが。
そうじゃない。そこじゃない。それが何かではなく、なぜポーズを取ったのかだ。
「違うんです」
僕が再び何かを
僕は一度
「そ、そのですね? あのほら、よくあるじゃないですか。玄関に。クマの
「よくある、というほどはないと思うが……」
「お金持ちの家とかには」
「……まあ、イメージだけを言うなら」
「あるいは木彫りのクマとか」
「ウチにはないけどな」
「そういうことです」
「どういうことです?」
「玄関と言えばすなわちクマさんだということです」
「過程を飛ばして結論までワープするなよ……」
なおこの間も、灯火は荒ぶるクマのポーズを続けている。
アクマからクマにジョブチェンジしたいなら好きにしてくれていいけど……いや。
まさか。
「これはですね、そう。こうしてお邪魔になる以上、なんでしょう。
「灯火」
「あ、はい」
「まさかとは思うけど。もしかして、僕の家に入るのに緊張してるのか?」
灯火は。その問いには何も答えることがなかった。
ただゆっくりと、開いたクマの手が、灯火の表情を隠すように顔の正面まで移動する。
なお耳が赤くなっているところはバッチリ見えていた。
「……マジか、お前」
「し、仕方ないじゃないですかあっ!!」
思わず僕がそう
「しますよ! いや、普通しますよ! 緊張して当然じゃないですか!? むしろどうしてせんぱいは、そんな当たり前みたいに上げようとしてんですか! 意外に遊び人系!?」
そこまで言われるほどのことだろうか。
「お前、自称《小悪魔系》とやらじゃなかったっけ? いきなり
「じじじ自称じゃないんですけどー! いや自称もしましたけど事実なんですけどー!」
小悪魔どころか小熊にすら見えない。
なんなら
「べ、別に
ついにバレバレの余裕を演じ始めやがった。
それ小悪魔キャラじゃなくない? 灯火は本当にそれでいいの? いいならいいけど。
「……顔洗ってくる」
僕は
「うえ!? ちょ、ちょっと待ってくださ……っ、ええっ、わたしはどうすれば!? あの、やっぱりご両親にご挨拶とか……あの、ねえ、ほ、ほんとに行っちゃうんですかあ!?」
だいたいわかった。灯火は単に小悪魔ぶっているだけで、かなり無理をしているのだと。
だから、考えるべきはその理由である。
僕に接触した目的は何か。それも実のところ、おおよそ想像はついているのだ。
──灯火はきっと、奇跡の力で自分の願いを叶えようとしている。
ならば、それを阻止するのが僕の役割である。
僕と、灯火は、敵同士。奇跡などこの世に存在しないと、僕は言い張るべきだった。
どうすれば彼女の思惑を止められるのか。
僕が考えるべきことはその一点。
そのためにもまずは昨日、灯火と再会したときのことから思い返してみよう──。