第一章『七月六日(現実)』その1
「ごめんごめん、すっかり待たせちゃったよね」
と。店にやってきた小織は、そう言って僕たち三人に片手を上げた。
──コトの発端は小一時間ほど前、まなつから聞いた言葉にある。
いつも駅前で会う少女と、病室で眠り続ける友人。
その名前が、どちらも《
「話は少し待ってほしいな。お店の始末があるからね。私は後片付けをしてから行くよ。それまでは、ちょっと喫茶店とかで時間を潰しておいてくれれば助かるかな」
彼女は自分からそう言った。話が早い、というか想定していた事態だったのか。僕から何を言うまでもなく、事情は全て説明するから待っていてくれと告げられたわけだ。
断る理由はなかったし、僕としても都合はいい。言われた通りにした。
彼女を、小織と呼んでもいいのなら、だが。
……小織を待っていた間、三人での会話は特にない。灯火とまなつは、ふたりで雑談をして過ごしていたが、珍しくこちらには話を振ってこなかった。
偶然では、まあ、ないだろう。気を遣われたのだと思うが、考えは纏まっていない。
僕自身、まさかこうも立て続けに星の涙が関わる事件に行き当たるとは、さすがに想像していなかった。これまでの二年、何もなかったことのほうが嘘に思える頻度だ。
いや。今回の件の場合は、単に発覚したのが今だったというだけなのだろう。星の涙が発動したのは遥かに前──《病院の生原小織》が眠りに就いた瞬間で、それを生原小織だと今日まで僕が同定できなかったに過ぎない。そう見做すのが、たぶん妥当だった。
とはいえ、わかったことといえば、それくらいのこと。それ以外は何もわかっていないし、つまり実質、何もわかっていないも同然だ。
小織から──《駅前の生原小織》から事情を聞かない限り、話は始まらないだろう。
本当はまなつからも話を聞くつもりだった──訊かなければならないことがある──のだが、もうそれどころではなくなってしまっている。
「──横、失礼するよ」
小織が、まなつに向けて言った。四人掛けのテーブル席で、僕は窓側のシートに座っており、右隣に灯火がいる。その対面の椅子にまなつ。
そしてその隣、つまり僕の正面に、小織が腰を下ろして。
「悪かったね。飲み物代は私が払うよ」彼女はいつも通りの様子で言う。「ふふ、前払いしてもらったバイト代があるから、今は懐が潤ってるんだよ。労働も悪くないよね」
言葉の通り、小織は楽しげな表情だ。
ここに集まった理由を考えなくていいのなら、僕も気楽に答えられただろうか。
「いいよ、別に」
首を振って断った。小織は、少しだけ残念そうな表情を見せる。
「そう?
「……なら、そっちのふたりの分だけ払ってやってくれ。後輩にたかる気はないよ」
一瞬、視線をふたりのほうに向けてから僕は言った。
言葉は何も返ってこない。ただなんとなく物言いたげな視線をふたつ感じるだけ。この状況でも特に会話へ入ってこない辺り、一周回って不可解な気もするが……まあ、やはり気を遣われているということなのだろう。
「おや」
そこで小織が、なぜか驚いたように目を瞬いた。
怪訝に思う僕だったが、何を言うよりも早く小織は目を見開いて。
「そのふたりの分も、伊織先輩が払ったんじゃ?」
「なんでだよ」僕は突っ込む。「奢らなきゃいけない理由がない。勝手に残ったのはそのふたりだ。その上、なんで気を遣ってやる必要がある?」
「……、そっか」
変わったことを言ったつもりは、僕にはなかった。
それでも小織は、一度静かに目を伏せて。
「ふたりには、伊織先輩はそれを許せるんだね」
「……なんだって?」
「なんでもないよ。ただの露骨に意味深なだけの独り言、とでも思ってもらえれば」
そう言われるほうが気になるのだが、僕は掘り下げなかった。どうせ口では勝てない。
小織は軽く吐息を零す。落ち着きとは無縁の店内だが、今は喧騒も気にならない。
それはこの店にいるほかの客も同じなはずで、ここで僕らが何を話そうと、きっと誰も聞いてはいないだろう。だから、僕らはここで何を話したっていい。そのはずだった。
でもいったい、どこから──何から話したものだろう。
僕は彼女に、何を訊けばいいのだろう。
何か目の前に問題があるわけではなかった。いや、それは正確ではなく、問題は確かにずっと存在してはいた。僕だってそれを認識していたし、現実として《病室で眠り続ける生原小織》は確かにあの場所にいるのだ。それは、問題と呼んでいいものだろう。
だが僕は、これまでそれを目の前の少女に結びつけることは一度もなかった。
まなつが教えてくれなければ、今も僕は両者の名前が同一であると気づけなかったはずで、あるいはそのまま一生、認識できないままだったかもしれない。
逆を言えば、その問題がただまなつの口から聞かされるだけで判明するとは、まったく想定外ではあったけれど。確かに、僕が名前を認識できなくても、それが《同じである》ということなら伝えられる。なんというか、それはそれで、頓智めいた話ではあるが。
まなつを病院へ連れて行ったことが、こんな偶然を引き起こすとは。
「…………」
問題は。──これを問題と呼ぶのであれば。
この問題における解決とは、果たしてなんなのかということ。
もちろんこの場は、それを訊くための場ではある。少なくともこの件に星の涙の影響があるのは明白で、ならば僕が見て見ぬ振りをすることなどあり得ない。
いわんや灯火とまなつのいる場で、だ。僕はこのふたりに、揃って願いを捨てさせたのだから。それでいて、小織の件だけ例外だなんて、口が裂けても言えるはずはない。
……にもかかわらず、僕の口は重かった。
なぜだろう。自分でも、その理由が判然としない。
少なくとも面白い話ではないだろうから、気が進まなくて当然かもしれないけれど。
「さて。まずは、これまで黙っていて申し訳なかった、伊織先輩。それを謝っておくよ」
「……いや」
僕は首を横に振った。
確かに、もっと早く教えてほしかったとは思う。だがそれは僕の都合だ。
隠していたことを責められた義理はない。謝ってもらうことではないはずだった。
「それにしても、なんだか妙な組み合わせになったよね」
自分で購入してきたコーヒーを啜って、それから小織はわずかに微笑む。
「……妙って?」
訊ねた僕に、小織は当然という態度で。
「もちろん、この
「まあ、……それはそうか」
なんだか引っかかる言い回しだが、質問はあとに回した。
小織は続けて、
「あくまで中心にいるのは伊織先輩ってわけだ。女の子を、それもこんな美少女を三人も侍らせる気分ってのは、いったいどんなものなのかな。参考がてら教えてくれる?」
「いや、どう贔屓目に見ても侍ってはないだろ、こいつらは……」
畏まっている様子が欠片もない。
思わず眉根を寄せる僕。それを見て、ここで灯火が口を開いた。
「……いやいや、何を仰いますか。わたしとかこれでも超侍ってますからね。侍りまくりと言ってもいいです。今もまさにはべりんぐなう。つまり進行形ですね!」
「バカじゃねえの」
「罵倒がついに剛速球! もうちょっと愛のある感じがいいですっ!」
「知らねえよ。そういうとこだよ。言っとくけどお前、自分で思ってるより態度めっちゃデカいから。本当に」
「それ伊織くんせんぱいにだけは言われたくなさすぎる!」
「いや。僕、一応は灯火の先輩だからね。知らないかもしれないけど。ていうか知らないみたいだけど。先輩が後輩にへりくだる必要もないだろ」
「ちゃんとせんぱいとして扱ってますが! 今まさにせんぱいって呼びましたよね!?」
「だから呼んでるだけでしょうが。別に笠に着るつもりはないけどさ、少しくらい敬ってくれたっていいんですよ、《伊織くんせんぱい》のことを」
「なぁんですか、それ! 失礼しちゃいますっ! わたしとかめっちゃ敬ってるじゃないですか! わたしほどのハベリストは界隈でもなかなか見られないと評判ですよ!?」
「どの辺が?」
「それはもう、毎日のように朝からご自宅へ侍り散らすレベル!」
「君、明日からもう来なくていいよ」
「リストラされましたっ!?」
そもそも初めから雇用していない。
思わず僕は目を伏せた。相変わらず滅茶苦茶なことばかり言う奴だが、近頃はむしろ、灯火のアホな発言を聞くとなんだか安心してしまう気がする。……それ嫌だな……。
「ぷんすかっ!」
僕の態度が気に喰わなかった灯火は、頬を膨らませて不平を表明する。
口で「ぷんすか」とか言う人類、結構レアケースですよね。そうであってほしい。
僕は息をつき、それからテーブルに肘を突く。
実際、まあ気は楽になった。ふとまなつを見てみれば、彼女は少しばかり驚いた視線を灯火に向けている。……その気持ちは、僕にもよくわかった。
考えて喋っているようで、そうではなくて、でもやっぱり考えていて。少なくとも今、灯火は僕を冷静にするために口を開いて、見事にそれを達成した。……たぶん、だが。
感覚派の姉と異なり、これで灯火は結構な理論派というか、クレバーな奴であることがわかっている。ともするとアホにしか見えないし、それも間違ってはいないのだが。
「……仲がいいね。妬けちゃうよ、まったく」
くつくつと、笑みを噛み殺すように小織は言った。
なんだか釈然としない気分だ。それでも、向き合うべきに向き合う気概なら、できた。
まなつの視線が、そこで僕へと向く。それから一度、まなつは視線を隣に向けて、再び僕に戻すと、口火を切るかのように小さな声で。
「──で? そろそろ、本題に入ったほうがいいんじゃないの」
「そうだな。……そうしよう」
僕は視線を、正面の小織に戻した。
浮かぶのはわずかな笑み。これまでとは違い、どこか力のない表情に見える気がした。
ともすれば小織は、話が始まるのを引き延ばそうとしていたのかもしれない。弱々しくささやかな、抵抗であったのかもしれない。
それでも僕は流されてしまい、黙っていた灯火とまなつが口を開いたのは、軌道を戻すためだったのではないか。なんとなくだが、そんな気がしていた。
「小織。……って、そう呼んでいいんだよな?」
であれば、それに甘えてもいられない。
少しだけ考えてから、僕は初めにそう訊ねた。
生原小織──僕の知っている彼女は、本当にそう呼ばれるべき存在なのかと。
「そうだね。……それで構わない。少なくとも私には、それ以外に呼んでもらえる名前はないよ。だけど、そうだね。伊織先輩が想像している通り、完全に正しくも、ない」
果たして彼女は──小織は、ひと息にそう答えた。
含みのある言い回しだ。小織と呼ばれる以外に名前はないが、正しくもない──。
僕は目を細める。どう捉えるべきか迷う僕に、小織は小さく首を振って。
「いや、何も誤魔化そうとして遠回しに言っているわけじゃないんだ。ただ、なんて説明すればいいのか……うん。ええと、つまり私は──ある意味、偽物の生原小織というか」
「……偽物……」
穏やかではない表現だった。
思わず繰り返した僕に、小織は小さく肩を揺らしながら。
「と言うのも自虐的すぎる気はするんだけど。ええと、つまりまず、この世には生原家の長女として生を享けた、小織ちゃんという美少女がいるわけなんだけど」
「…………」
「それが伊織先輩の知っている、病院で眠っている《生原小織》だ。彼女が、間違いなく本物の生原小織。きちんと戸籍もあるし、両親もいる。まあ二年分の入院費を負担させているわけだからね。あまりいい娘とは言えない気もするけれど……それはいいか」
よくはない、だろう。
僕も生原家のご両親とは、何度か会ったことがある。顔は合わせづらかったし、苗字が《生原》であることはまるで認識できなかったが。
それでも、僕が面会することを許可してくれた人たちだ。ありがとう、と礼を言われたこともあった。眠り続ける我が子を、ずっと気遣っていることだって知っていたのだ。
「まあ、基本的にはご想像の通りだと思う。彼女は──生原小織は星の涙を使った」
淡々と小織は語る。
それは、そうだろう。彼女の眠りがただの昏睡ではないことを、僕は知っていた。
「あの小織を、病院に運んだのは僕だ。運んだというか、単に救急車を呼んだだけだが、少なくとも最後に小織と会話した人間は、間違いなく僕だった」
「そうなんですか?」
と、これは灯火に訊ねられた。僕は首肯を返す。
「ああ。ただ本当に、ふと気づいたときには目の前で知らない人間が倒れてた、って感じなんだが。ほんのひと言だけ話して、それで意識を失った女の子がいたから、慌てて救急車を呼んだ。それだけだ。ただ──」
最後に話したとき、その誰かは明らかに僕のことを知っている口振りだった。
僕は悟ったのだ。きっと彼女は僕の友人で、その記憶を、ただ失ってしまったのだと。
「時期としてはちょうど、伊織先輩が
その言葉に僕は驚かなかった。
「じゃあ……やっぱり、知ってるのか。僕のことも、陽星の──久高のことも」
「もちろん。伊織先輩の記憶からは消えてるだろうけど、私は、もとい本物の生原小織は伊織先輩と同じ小中に通っていたからね。当然、久高陽星や
その名前が出たことで、隣にいる灯火の肩が跳ねた。
灯火に視線を向ける。灯火も僕を見ると、にわかに表情を和らげて首を振った。そして何も言わないまま、小織へと向き直る。
今は話を聞こうと、その態度が告げていた。気を遣わなくていいと。
「だから、ついでに言えば君たちのことも知ってはいたよ。双原灯火に、
「……私は──、いや」
怪訝に眉を顰めて、まなつが呟く。
何かを言いかけたようだが、そちらに向き直った小織が先んじて自嘲するように。
「まあ、生原小織はこれといって目立つタイプの生徒ではなかったからね。知らなかったとしても無理はない。天ヶ瀬さんがモデルをやっているから、それで一方的に知っていただけだよ──ひとつ上の学年でも、それくらいの情報は入ってくるものだ」
言葉に、まなつは片目を見開いた。
今度は僕も驚く。だって、それはつまり。
「ひとつ上って。お前、じゃあ……」
「伊織先輩だって、後輩ヒロインばかりじゃバリエーションに欠ける時期だろう? その点、やっぱり同級生がスタンダードにして王道だよね。メインヒロインの風格だとも」
「いや、お前……そんな冗談みたいに……」
まさか後輩ですらなかったとは、僕も予想していなかった。
けれどそういうこと。まなつのひとつ上だというなら、それは僕と同い年。僕と小織は同級生で、順当に進んでいれば現在、彼女は高校二年になるはずだったということだ。
「いや、別に嘘をついていたわけじゃないよ?」だが小織はそんなふうに言う。「先輩を先輩と呼んでも、別に間違いじゃない。ある意味ではそのほうが正しいとすら言える」
「それは……」
「なにせ高校には進学してないわけだから、そういう意味ではここにいる三人とも先輩と言えるかもしれないけどね。そうじゃなくて、あくまで私から見て、って話で」
なんとなく、僕にも小織の言葉の意味がわかり始めていた。
だから。これはきっと、僕の口から訊かなければならないことだから。
僕は、こう訊ねる。
「聞かせてくれ、小織。お前は……いや、僕は。僕はいったい、何をしたんだ……?」
「出てくる質問がそれって辺り、伊織先輩も大概だよね、まったく」
だが、少なくとも《生原小織》が星の涙を使った理由には、僕が関わっているはずだ。
訊きづらかったのは、それが理由かもしれない、と今さらに思う。いったい中学時代の僕という奴は、どれほどの失敗を重ねていたというのか。
どれほどのものを、忘れているというのか。
「……申し訳なさそうなところ悪いけど、安心していいよ」
しかし、小織はそう答えた。
僕の顔をまっすぐに見て。
「伊織先輩は、何も悪いことはしていない。生原小織が星の涙を使ったのは、あくまでも自分の都合だからね。先輩はたまたま目をつけられて、巻き込まれたって感じかな。まあ言ってみれば、そうだね……我がことながら恐縮だけど、逆恨みみたいなものなのかな」
「……じゃあ、小織は」
「彼女は今、夢を見ている」
──夢を見ている。
小織は言った。
「幸せな夢だ。作られた幸せの夢。まさにファンタジーだよね。それがいつまでも続く、そういう類いの悪夢に生原小織は浸っている。代償として現実の世界を捨て去り、夢想の世界で、胸焼けするような甘さに微睡み続けている負け犬──それが、生原小織なんだ」
嫌悪するように、唾棄するように。
愚かさを断罪するかのように、小織は淡々と吐き捨てる。
「同時に、彼女は私という存在を生み出した」
「……小織を」
「ただひとつ残された現実への接続経路。あるいは彼女にとって不要であると断じられた認識。──生原小織が必要ないと捨て去った、生原小織。それが、私だ」
ゆえに偽物。
自分自身に切り捨てられた、自分。
「現実を捨て、夢の世界で暮らすことを願った彼女が、現実において見ている夢。そんな矛盾した、架空の人物が私っていう存在だ。だから正確なことを言えば、私なんて人間はこの世界に存在していない。なにせ本物はこの現実を捨てて、今も眠っているんだから」
「──……」
絶句、だった。
何か意味のある言葉を吐き出せる気が、僕にはまるでしなかった。
その言葉が正しいのなら。
小織が──生原小織が現実を捨ててしまったというのなら。
「生原小織は、自分の環境に絶望していた。つらく苦しいこの現実から、逃げ出したいと願っていた。だから星の涙の力を用いて、しあわせな夢の世界に逃げ込んだんだ。醒めることのない眠りに微睡み、どこまでも都合のいい夢に縋るためにね……」
──ありがとう。
かつて、僕にそう言い残して、手の中から滑り落ちた少女が存在した。
その名が生原小織であると、今になってようやく僕は知った。
「そして、そのときに生まれたのが、この私という生原小織ってわけ。ほら、つまり私は生まれてからまだ二年くらいってコトなんだ。先輩って、呼ぶべきだとは思わない?」
だとすれば、僕は。
僕という存在は──どこまでも。
「いい頃合いだと思うんだ」
小織は言う。
いつもと変わらぬ様子で。気楽に、気負いもなく。
「私も充分に楽しんだ。そろそろ夢から醒める時間だよ。正直、こんな状況にした《生原小織》には、言いたいことが結構あるけどね。それも含めて、伊織先輩には是非とも協力してもらいたいと思うんだ」
「……協力、って」
「言うまでもないでしょ。もっと言えば、本当は頼むまでもないはずだよ。伊織先輩ならやってくれると確信しているからね。そうでしょ? 先輩は単に、やると決めていることを、今回もやってくれればいいだけなんだから」
僕がやるべきこと。やると決めていることとは、すなわち。
「私の──生原小織の願いを否定して、夢を終わらせてほしいんだ」