第二章

旦那様からのお誘い その⑤


「ところでセドリックとは誰だ? 求婚されたんだろう?」

 言ってから、しまった、と思った。

 もっと親しくなってから聞こうと思っていたのに、一番のねんこう故にうっかり口から出てしまった。できればリリアーナから見た私の顔は「ゆうのある大人の男」の顔であってくれといのった。

 だが、私の焦りとは裏腹にリリアーナはきょとんとして私を見上げる。

「セドリックは、私の異母弟おとうとです」

「……え?」

「旦那様は覚えていなくても無理はありません。会ったこともないはずですし……セドリックは、私の七つ下の弟です。もしかしてエルサに聞いたのですか? とても優しい子で私を慕ってくれて、あの子が五歳の時にプロポーズをしてくれたのです」

「そ、そうか! 弟か、うん、弟なら問題ないな、うん、だって弟だものな!」

 私は自分の頰が勝手に緩むのを感じた。リリアーナが手を伸ばし、まくらの下から白い布でできたふくろを取り出した。

 リリアーナが中から取り出したのは、十通ほどの手紙の束だった。

「月に一度、こうして手紙をわしております。ただ……私たちの結婚は、その、急なことで結婚式も当日に知らされたものですからあの子とは別れのあいさつもできないままで……」

「待ってくれ。当日、とはどういうことだい?」

 確かにフレデリックたちに聞いた結婚式の日取りは、いつぱん的な貴族のこんいんからすると婚約期間を含め異例の短期間だった。結婚式も至って簡素だったとも聞いているが、主役であるはなよめが当日に知るなんてことがあるだろうか。

 先ほど、リリアーナが倒れた時のことが頭をよぎる。家族と円満な関係を築いていたとしたら、あんな風に恐怖に震えながら父親にゆるしを乞うなんてことがあるだろうか。

 フレデリックとアーサーが教えてくれた彼女の家族については、父親のライモスは実父だが母親のサンドラは継母で姉弟きようだいがいるということだけだ。彼女と両親の関係が良好かいなかくらいは予備知識としてほしかったかもしれない。

 彼女は、両親の言いつけで外に出たことはないと言った。私は、病弱な娘を想うが故の両親の愛情だと思っていたが、もしかしたらそれはとんだかんちがいだったのかもしれないと冷や汗が頬を伝う。

「それは……先ほど、君が廊下で取り乱したことと関係があるのか?」

 私に寄り掛かる細い背がびくりと揺れた。その手が震えていることに気付いて、私は自分が間違ったことだけは分かって慌ててその手を包み込んだ。

「すまない、失言だった。忘れて、く、れ……リリアーナ?」

 彼女の手にえた私の手が弱い力で握り返され、目をみはる。

 リリアーナが私の手に縋るようにそっと力を込めた。

「……父と継母のサンドラ様は、もともとこいびと同士でしたが家格がわず、先代のエイトン伯爵、私の祖父が絶対に結婚を許してくれなかったそうです。祖父は、古くから付き合いのあるエヴァレットしやくえんだん調ととのえて、私の実の母と結婚させました。ですが、私が産まれる前に祖父母が相次いでくなり、母でさえも私を産んでわずか半年で亡くなってしまいました。……父は、母と結婚した後もサンドラ様と関係を持っていて、も明けない内にサンドラ様とさいこんしたのです」

 リリアーナが淡々と告げる。

「サンドラ様と父の間には、私より数カ月年上のマーガレット姉様がいて、父は何より姉様、そしてサンドラ様を愛していました。理由はどうあれ愛する人を奪った女の娘である私は、サンドラ様に嫌われているのです。……あ、あれは月に一度くらいのことでした」

 不意に途切れた言葉は、次に震える声で恐怖をともない紡がれる。

「お継母様が私をリビングに呼ぶのです。幼い弟のセドリックがそこに呼ばれることがないことだけが不幸中の幸いでした。あの子は、唯一私を慕ってくれていて、両親と姉の目をぬすんで私に会いに来てくれる優しい子なのです」

 リリアーナはけんめいに言葉を紡ぐ。

「部屋に入ると……私はじゆうたんかれていないゆかの上に座るように言われます。そこに座ると床にスープが置かれて、ティースプーンを渡されるのです。『今夜こそ、上手に食べるのよ? スープを一滴でも零したら鞭打ちの上、当分、食事を抜きにしますからね』……あかい口紅を乗せた唇でたのしそうに弧を描いて毎回、同じ言葉を……お、お継母様が言うのです。それはとても難しいことでした。お皿を持ってはいけませんし、体をかがめてもいけません。ティースプーンはとても小さくて……それに何より、恐怖で手が震えてしまい、毎回、どうしてもスープを一滴、零してしまうのです。継母と姉は私がスープを零すのを待っていて、下手くそだとかきたないだとか言いながらくすくすと笑っていました」

 私の手を握る細い手に力が込められて、リリアーナが何かに耐えるようにゆっくりと息を吐き出した。

「リリアーナ、無理して話さなくてもいい」

 リリアーナはかたくなに首を横に振る。私は痛くないようにと気を配りながらも細い手を強く握り返した。

「そして、その時が訪れたらお継母様は鞭を取り出して、最初の約束通り私の手や肩、背中を打ちます。お継母様の気が済んだら姉様の番でした。二人の気が済んだら部屋に帰ることを許されて、私は『ご指導、ありがとうございました』とお礼を言って部屋に戻るのです。そして、最低、三日は食事を抜かれました……それ以外にも時折、思い付いたように私の部屋に来て、鞭で打つことがありました」

 私は言葉も出なかった。

「……旦那様が折角誘って下さったのに……私は怖かったのです。私にとって、部屋の外に出ることは、怖いことで、いつも私の一挙一動に誰かのべつちようしようがまとわりついていて……っ、分かっているのです……子どもたちが私に鞭を向けるわけがないことも、優しい旦那様がそんなことをするはずないことも……でも、こわくてっ」

 しつけいつかんで鞭を、それも娘に向かって使うなどありえないことだった。それにリリアーナに向けられたそれはどう考えても躾ではない。言葉は悪いが、らしだ。彼女はずっと、他ならない両親によって閉じ込められていたのだと気付いた。

 閉じ込められていた部屋の中が彼女の世界の全てで、そのとびらの向こうは恐怖と痛みしかなかったのだ。頭でいくら違うと分かっていても、彼女の十五年間という人生において作られた常識をくつがえすことは容易ではない。嫁いできたこの侯爵家でも、安全地帯が広がっただけに過ぎないのだ。

「鞭で打たれて寝込む私の枕元であの子はいつも声を押し殺して泣いていました。痛みで動けない私を想い、私の手を強く握り締め泣いてくれる優しい優しい弟なのです……。でも、私が鞭を受けることであの子が守れるなら、それで良かったのです……っ」

 私は思わずリリアーナを後ろから包み込むように抱き締めた。リリアーナの手が私の腕に添えられる。この強く抱き締めれば折れそうなほど細く華奢な体で、リリアーナはどれだけの哀しみや恐怖や痛みに耐えてきたのだろうか。だが、それでもなお、彼女は弟のことを想っているのだ。なんと強く、優しい女性だろう。

 リリアーナは、自分の左手を右手で包み込み唇を寄せた。そこに幼い弟の温もりを探しているかのようだった。

 泣いているのだろうか、とその顔を覗き込んで息をむ。

 リリアーナは、唇をめて涙を耐えていた。今にも零れそうなそれを必死におさえ込む姿は痛々しくて、彼女を抱き締めた。

「……泣いてもいい」

「……だ、旦那様は、泣く女は見たくないとおっしゃいました……これ以上、不愉快な思いをさせるわけにはいきません……っ」

 たった三度しか顔を合わせていないというのに以前の私はそんなことを言ったのか、と自分自身を酷くけんした。


 私とリリアーナがまともに言葉を交わしたのは、私が彼女を置き去りにした初夜だけだとアーサーは言っていた。だとすれば私は、夫婦が初めて共にする夜に彼女にその言葉を投げ付けたのだろう。

 リリアーナは、私の腕から抜け出そうと身をよじる。けれど、大人げない私はそれを許してやることはできなかった。ひょいと彼女の体の向きを変えて、その顔を私の胸に押し付ける。

「こうすれば私には君の泣き顔は見えないから、大丈夫だ。信じられないかもしれないが……私は君を嫌いになどならないとちかうよ」

 柔らかな淡い金の髪に鼻先をうずめる。リリアーナの体が強張ったのに私は放してやれない。顔を上げたリリアーナの小さな頬を片手で包み込む。

「泣いてくれ、リリアーナ」

 銀色の綺麗な瞳を覗き込み、私は彼女のてのひらに唇を押し付けた。リリアーナ、と今の私が込められるだけの想いを込めて、こんがんするようにその名を呼んだ。

「私は、不誠実で酷い夫だった。だから、これはとても自分勝手で身勝手な願いだと分かっている。記憶を失い、君を妻だとも認識できなかった夫だ。それでも……私は、君と本当の夫婦になりたい」

 リリアーナは、ぼうぜんと私を見つめている。握っていた手を離し、彼女の頰を包み込む。

「で、も……旦那様が記憶を取り戻したら、きっとまた私のことなど……嫌いになってしまうのでしょう?」

 私の手の中でリリアーナがった。

 その瞬間、胸がきしむほどの痛みと切なさが私を支配した。

 期待することも望むことも全てを諦めてしまっている儚い微笑みは、とても綺麗で、とても──哀しかった。

「そんなことはない」

 即座に否定したのにリリアーナは、信じてはくれなかった。哀しい微笑みをたたえたまま、そっと私の胸を押して体を離し、また淡く微笑んだ。

「……私、充分、幸せでした」

「だったら、もっと幸せそうに笑ってくれ、リリアーナっ」

 彼女が作ろうとした二人の間の空白を押しつぶすように抱き締めた。

「君がこわれてしまう前に、どうか……泣いてくれ。君は私の大事な妻だ。もう二度と君を忘れないと誓うから、どうかどうか……私を信じてくれ、リリアーナ」

 みっともなく縋るように耳元で囁いた。

「……ほんとうに、きらいになりませんか……?」

 弱々しい声が一縷の望みでもたくすかのように問いかけてきて、私は一も二もなく頷いて、リリアーナを抱き締める腕に力を込めた。

「ならない。絶対にならない、神とけんと君に誓うよ、リリアーナ」

「わたしの、秘密を知っても……?」

 腕の中でまたリリアーナが自分の鳩尾を押さえたのが分かった。

 鞭で打たれ続けた体にはそのあとが残ってしまっているのかもしれない。女性であればそれは誰にも見られたくはないだろう。

「君にどんな秘密があろうともだ」

「……ほんとうに?」

「本当に。外出だって、無理だったらそれでいいんだ。君の心の準備ができるまで、私の傍なら安心だと信じてくれるまで、いつまでだって待ち続けるよ」

 リリアーナが押し黙り、私は自分の心臓がはやがねを打っているのにいまさら気付いた。私の心臓は彼女に拒絶されることを恐れているのだ。

 しかし、リリアーナの手が私のシャツのむなもとを躊躇いがちに掴んだことに気付いて息を吞む。リリアーナが私の胸に顔を押し付けて、細い肩を震わせた。

「ふっ……うっ……」

 聞こえてきたのは、押し殺されたえつ欠片かけらだった。

 声の上げかたを知らないのだろうリリアーナは声を押し殺して、私の胸で泣いた。縋ることも知らない細い手は、私のシャツをただただ強く握り締めている。

 結局、リリアーナが声を上げて泣くことはなかったが、泣きつかれて眠ってしまうまで彼女は私の胸を涙でらした。そんな彼女を抱き締めて横になり、私はとある決意を固めた。

 リリアーナに、心からの笑みを浮かべてほしい、そのためなら何でもしようと私は決意したのだった。

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