寝返りを打とうとしたのですが、どういうわけか全く身動きが取れません。
それになんだかとても硬いお布団に包まれています。硬いのですが優しい温もりを感じ、とても心地が良いです。すりすりと擦り寄るとますますぎゅうとお布団に包まれました。爽やかなコロンの良い匂いまでします。
もう一度、深い眠りに落ちそうになりましたが、そこでふと「お布団は自分から抱き着いてこないのでは?」という疑問を抱き、一気に意識が覚醒しました。
ぱっと目を開けた先にあったのは、男らしい胸元でした。
おそるおそる顔を上げて、あやうく上げそうになった悲鳴をどうにか呑み込みました。
旦那様の綺麗な寝顔が目と鼻の先にあり、薄く開いた唇の隙間から、すーすーと穏やかな寝息が零れています。
抜け出そうにもがっしりと抱き締められていてびくともしません。
そもそもどうしてこんなことになったのでしょうかと一生懸命、記憶を遡りました。
昨夜は旦那様にディナーに誘って頂きましたので、エルサに手伝ってもらって仕度を調えて部屋を出て、そうです、向かっている途中で実家にいた頃のことを思い出してしまったのです。そのあたりはよく覚えていないのですが、次に目が覚めた時には傍に旦那様がいて下さったのです。
折角誘って頂いたのにディナーを台無しにしてしまった私を旦那様は怒ることもせず、逆にとても心配して下さいました。
その上、私が零した過去の話を受け止めてくれたばかりか、旦那様は私と本当の夫婦になりたいのだと言ってくれました。それだけではなく、涙を我慢しないでくれと抱き締めてくれて、私は旦那様の胸を借りて泣いてしまったところまでは覚えているのですが、そこからの記憶がさっぱりとありません。
「ど、どうしましょう……っ」
申し訳なさが溢れてきてとりあえず、どうにかこうにか抜け出そうとするのですが、やっぱり旦那様の腕はびくともしませんでした。
すると、旦那様が、ふぁっと欠伸を零してゆっくりと目を覚ましました。寝ぼけて輪郭がふわふわしていた青い瞳と目が合って、私はまたも石のように固まってしまいました。
「おはよう、リリアーナ」
蕩けそうな甘さを孕んだ笑顔と声に今度は別の意味で固まりました。頰がじわじわと熱を帯びて赤く染まっていくのを感じました。それでなくとも密着しているのに更にぎゅうと抱き寄せられます。
「だ、だんなさまっ」
私の髪に鼻先を埋める旦那様をかろうじて呼びます。
「んー? ああ、そうだ、気分はどうだ?」
大きな手が私の頰を包み込むようにして撫でてくれます。
「あ、あのっ、昨夜、私……っ」
「何もかも大丈夫だ。君が謝るようなことも怖がるようなことも何もない」
そう言って、旦那様は優しく笑って下さいました。私は安心して泣きそうになるのをこらえながら、「ありがとうございます」と精一杯、お礼を言いました。旦那様は、うん、と一つ頷くと徐に枕元に手を伸ばして金色の懐中時計を手に取りました。私のものではないので旦那様のものでしょう。
「そろそろ朝食の時間だが……」
「で、でしたらもう起きませんと……っ」
このままでは私の心臓がもちません。旦那様は、私の心を見透かしたように目を細めるとくすくすと可笑しそうに笑って、漸く私を解放してくれました。体を起こすと、心臓がばくばくと破裂しそうなほど五月蝿いですし、頰はまだ熱を持っています。旦那様もぐーっと伸びをしながら起き上がりました。
「なぁ、リリアーナ」
「は、はい」
旦那様は、なんだかとても優しい眼差しで私を見つめていました。
「まず、私と食事するのに慣れよう」
「え?」
「私は君が怖がる外の世界からやって来た人間だ。その上、君を傷付けた人間だ。初めて会った時、君は私に怯えていただろう?」
「え、えっと、あの、それは……っ」
「ああ、すまない。怒っているわけじゃないよ。君の話を聞いた今、寧ろ、よく逃げ出さないでいてくれたと感謝しているのだから」
大きな手が俯きそうになった私の頰を包み込みます。
「ゆっくりでいいんだ、リリアーナ。だから、まずは私に慣れることから始めてほしい。そうして君の心に勇気が溜まったら、一緒に出かけよう。それは一カ月先でも、半年先でもいつでもいいんだ」
「……はいっ」
その優しさが嬉しくて胸がいっぱいになって一生懸命頷きました。旦那様がくすぐるように頰を撫でてくれます。
「さて、では……ふむ。君はいつも自分の部屋で食事をしているんだったな」
急な話題の転換に話が掴めず頷くほかありません。
旦那様は、少し考え込むように顎を撫でた後、名案を思い付いたかのように得意げに頷きました。
「なら私も今日から君の部屋で昼と夜、食事をしよう」
「えっ?」
「堅苦しいコース料理はなしだ。私もそういうものは性に合わないからな。食事をしながら色々な話をしよう。私は君のことが知りたい。私の空っぽの記憶にリリアーナのことを刻み込みたいんだ」
思ってもみなかった言葉に私は、返事に困ってしまいました。
すると旦那様は、膝の上にあった私の両手を大きな手で包み込みました。
「私の我が儘を聞いてくれないか、私の可愛いリリアーナ」
またあの甘い笑顔を浮かべて旦那様が下から私の顔を覗き込んできます。私はどうしてかこの笑顔にとても弱いのです。
「ぜ、絶対に、怒らないでいて下さるなら……」
まるで試すような失礼な言葉を口にしたというのに旦那様は、それはそれは嬉しそうににっこりと笑ってくれました。そのことに驚いて目を瞬かせます。
「私が君に怒られることはあっても、私が君を怒ることなんて絶対にありえない」
青い瞳はどこまでも澄んでいて、真っ直ぐで優しい光を宿していました。
『ゆっくりでいいのですよ。奥様の心が思うようにすればいいのです』
諭すように優しいモーガン先生の言葉が脳裏をよぎりました。
私は、どうしたいのでしょう。旦那様を知りたいのでしょうか、私を知ってほしいのでしょうか。知るということも知られるということもなんだか少しだけ怖いような気がするのは、真実というものが決して美しいことばかりではないからでしょうか。
でも、旦那様は昨夜、取り乱した私の事情を知ってもこうして優しく私を受け入れて下さいました。それだけで、あれほど感じていた恐怖が随分と和らいでいるのです。だとすればそれが答えなのでしょう。
「……私も旦那様とお話が、してみたい、です」
情けなくも震えてしまった声だったのに、旦那様はくしゃりと子どもみたいに心底嬉しそうに笑って下さいました。
「ありがとう、リリアーナ!」
「きゃっ、だ、旦那さまっ!」
はしゃぐ旦那様にまたぎゅうと抱き締められました。けれど、旦那様はなんだかとても喜んで下さって、朝の仕度を携えてエルサがやって来るまで放してはくれませんでした。
けれどその腕の中の心地よさに馴染んでしまっていることに、この時の私はまだ気付いていませんでした。
「エルサ、私、変なところはないですか? 大丈夫かしら?」
オロオロと部屋の中を行ったり来たりする私に、エルサは小さく笑いながら頷きました。
旦那様も既に自室に戻られて各々朝食を済ませ、今は旦那様が来るのを待っています。
エルサが用意してくれたのは淡い水色のドレスです。髪もエルサが綺麗に結ってくれました。両サイドは編み込みになっていてとても可愛いです。エルサの手はいつも魔法のように私の髪を綺麗に結ってくれるのです。
「今日の奥様も大変、お可愛らしいですよ。それに旦那様如きにそんな緊張しなくても大丈夫ですよ」
「だ、旦那様だから緊張するんですもの」
両手で胸を押さえて、ふうと息を吐き出しました。
朝食を終えた後は、いつもならお裁縫をしたり、読書をしたり、日によってはマナーレッスンやお勉強があるのですが、なんと早速旦那様に屋敷の中を案内してほしいと頼まれてしまったのです。
「ねえ、エルサ」
私は足を止めて、どうしましたと首を傾げるエルサを振り返ります。
「……私、旦那様はもっと怖い方だと思っていたのですけれど、今の旦那様はあんまり怖くないのです。記憶を失くしたことは……関係あるのでしょうか?」
エルサは私の言葉に少し考えるような仕草を見せた後、ふっと表情を緩めました。
「ご安心下さいませ。旦那様は、本来はああいった性格でございます。奥様の前では不機嫌でむっつり黙ったままの最低野ろ……失礼、無礼な紳士だったかもしれませんが、本来は喜怒哀楽のはっきりした非常に分かりやすい性格をしておいでです。もちろん、貴族という立場のある方ですので外では相手に相応しい仮面を被っておいでですが、身内の前だといつもあんな感じです」
「そうなのですか?」
「はい。図体の大きな子どもだと思って接した方が気が楽になるやもしれませんよ」
「まあ、エルサったら。ふふっ、本当に冗談が上手ね」
エルサがあまりにも真剣な顔で言うのでつい笑ってしまいました。あんなに大きくて立派な方なので子どものようには見えません。それに旦那様は私よりも十歳も年上です。
「でも、ありがとうございます。なんだか緊張がほぐれたような気がします」
「それは何よりでございます……あら、いらっしゃったみたいですよ」
コンコンとノックの音が聞こえてドアの方を振り返ります。エルサが応対に向かう背を見ながら、去ったはずの緊張がまたも私の心臓を掌握しようとしてきます。
中に入って来た旦那様は藍色を基調とした服に身を包んでいました。シンプルなデザインで派手な装飾のない普段用の服であっても旦那様は迫力があります。
旦那様は、ぱっと顔を輝かせて、早速私のところにやってきました。
「うん、とても可愛らしい。まるで愛らしい水の妖精のようだ」
するりと手を取られて手の甲に口づけが落とされました。一気に色んなことが起こりすぎて処理できずに心と頭が破裂しそうです。かぁっと熱を持った私の頬は苺のように赤くなっていることでしょう。
「十五点ですね。一応言っておきますと百点満点中の十五点です」
横から聞こえてきた声に顔を上げれば、冷めた表情を浮かべるエルサがいました。
「花束の一つも持ってきたらいかがですか?」
エルサは旦那様とその後ろに控えるフレデリックさんを見て眉を寄せました。旦那様が私の手を放して、そっとそっぽを向いてしまいました。エルサは一体どうしたのでしょう、とオロオロしているとフレデリックさんがふふっと笑って口を開きました。
「庭師のジャマルに可憐で清楚な花束が欲しいと頼みに行かれたのですが、ジャマルは最近、物忘れも激しいですし耳も遠いので『旦那様みたいな不義理な男に渡す花はねえ!』と門前払いをくらいまして……」
「日頃の行いのせいですね」
エルサは、なんだかとっても愉快そうに言いました。
ジャマルおじいさんは、侯爵家に仕える庭師さんです。年を取って体力も衰え耳も遠くなったので、今はほとんどの仕事を息子さんとお孫さんに任せています。ですが大事な部屋に飾る花を育てる花壇と温室は今もジャマルおじいさんが世話をしています。
「ジャマルは奥様をそれはそれは可愛がっていますからね」
「そういった理由で旦那様は花を用意するのに失敗したのでございます」
「旦那様、お花が欲しかったのですか?」
旦那様は何故か申し訳なそうに私に顔を戻して、ああ、と覇気のない声で頷きました。
きっと記憶喪失で不安に苛まれる旦那様の心は癒しを求めているのでしょう。お花というのは見ているだけでもその可憐さや美しさで心を穏やかにしてくれますからね。
「旦那様、私があとでジャマルおじいさんに旦那様のお部屋に飾るお花をお願いしてみますね。ジャマルおじいさんは私のお部屋にもいつも綺麗なお花を見繕ってくれるのです」
「え、あ、ああ、うん。ありがとう、リリアーナ……」
旦那様は驚いたような顔をした後、どこか遠くを見つめながらお礼を言って下さいました。律儀で優しい旦那様です。
口元を手で覆ってそっぽを向くエルサと俯いているフレデリックさんの肩が震えていますが、旦那様が咳払いをすると二人の肩の震えは止まりました。何だったのでしょうと首を傾げますが、具合が悪いわけではなさそうなので気にしないことにしました。
「リリアーナ、不甲斐ない夫だが屋敷を案内してくれるか?」
そう言って旦那様が私に向かって、何故か腕を差し出しました。
一体、どうしたのでしょう。腕に何かあるのかもしれないと思い、顔を近づけますが、ほつれたり破れたりもしていません。もしや怪我でもと首を傾げます。
するとエルサが私の耳元に口を寄せました。
「奥様、旦那様は腕を怪我したわけでも肘に穴が開いたわけでもありません。これはエスコートしようとして下さっているのです」
まさか、と思いましたがエルサは優しい笑みを浮かべていますし、何よりも旦那様は腕を出したまま私の顔色を窺っています。
大丈夫ですよ、とエルサが背中をそっと押してくれたので、一歩前に出ておそるおそる旦那様の腕に手を添えました。服の上からでも剣を握る旦那様の腕はがっしりとしていました。すると旦那様は、とても嬉しそうに笑ってくれて私の頰も自然と安堵に緩みます。
「良かった。私では嫌かと思った」
旦那様の言葉に、とんでもありません、と首を横に振りました。
距離が近いので旦那様のコロンの香りが鼻先を撫でて、ますますドキドキします。
「こ、こういったことをして頂くのは、初めてなので……ふふっ、なんだかお姫様にでもなったような特別で贅沢な気持ちです」
侯爵家に嫁いでから、恥ずかしながら恋愛小説というものを読むようになりました。ヒロインはお姫様であったり、町娘であったり、私と同じ貴族令嬢であったりと様々でしたが、結構な頻度でこうして恋人にエスコートをしてもらうシーンがあったのです。
ダンスのレッスンの時に相手役をしてくれたエルサとこうしたことはありますが、男性、それも旦那様にエスコートして頂くのは特別な心地です。これまで読んだ小説の中のヒロインたちも私と同じようにきっとドキドキふわふわしていたに違いありません。
浮かれていた私はこの時、旦那様が真っ赤になった顔を片手で覆って天井を仰ぎ、エルサが「今日も私の奥様が可愛い」と頰を緩め、フレデリックさんがそんなエルサを温かく見守っていたことには気付きませんでした。