第三章

踏み出す一歩 その①


 がえりを打とうとしたのですが、どういうわけか全く身動きが取れません。

 それになんだかとてもかたいおとんに包まれています。硬いのですがやさしいぬくもりを感じ、とてもここが良いです。すりすりとり寄るとますますぎゅうとお布団に包まれました。さわやかなコロンの良いにおいまでします。

 もう一度、深いねむりに落ちそうになりましたが、そこでふと「お布団は自分からき着いてこないのでは?」という疑問をいだき、一気に意識がかくせいしました。

 ぱっと目を開けた先にあったのは、男らしいむなもとでした。

 おそるおそる顔を上げて、あやうく上げそうになった悲鳴をどうにかみ込みました。

 だん様のれいな寝顔が目と鼻の先にあり、うすく開いたくちびるすきから、すーすーとおだやかな寝息がこぼれています。

 け出そうにもがっしりと抱きめられていてびくともしません。

 そもそもどうしてこんなことになったのでしょうかといつしようけんめいおくさかのぼりました。

 昨夜は旦那様にディナーにさそって頂きましたので、エルサに手伝ってもらってたくを調えて部屋を出て、そうです、向かっているちゆうで実家にいたころのことを思い出してしまったのです。そのあたりはよく覚えていないのですが、次に目が覚めた時にはそばに旦那様がいて下さったのです。

 折角誘って頂いたのにディナーを台無しにしてしまった私を旦那様はおこることもせず、逆にとても心配して下さいました。

 その上、私が零した過去の話を受け止めてくれたばかりか、旦那様は私と本当のふうになりたいのだと言ってくれました。それだけではなく、なみだまんしないでくれと抱き締めてくれて、私は旦那様の胸を借りて泣いてしまったところまでは覚えているのですが、そこからの記憶がさっぱりとありません。

「ど、どうしましょう……っ」

 申し訳なさがあふれてきてとりあえず、どうにかこうにか抜け出そうとするのですが、やっぱり旦那様のうではびくともしませんでした。

 すると、旦那様が、ふぁっと欠伸あくびを零してゆっくりと目を覚ましました。寝ぼけてりんかくがふわふわしていた青いひとみと目が合って、私はまたも石のように固まってしまいました。

「おはよう、リリアーナ」

 とろけそうなあまさをはらんだがおと声に今度は別の意味で固まりました。ほおがじわじわと熱を帯びて赤く染まっていくのを感じました。それでなくとも密着しているのにさらにぎゅうと抱き寄せられます。

「だ、だんなさまっ」

 私のかみに鼻先をうずめる旦那様をかろうじて呼びます。

「んー? ああ、そうだ、気分はどうだ?」

 大きな手が私の頰をつつみ込むようにしてでてくれます。

「あ、あのっ、昨夜ゆうべ、私……っ」

「何もかもだいじようだ。君があやまるようなこともこわがるようなことも何もない」

 そう言って、旦那様は優しく笑って下さいました。私は安心して泣きそうになるのをこらえながら、「ありがとうございます」とせいいつぱい、お礼を言いました。旦那様は、うん、と一つうなずくとおもむろまくらもとに手をばして金色のかいちゆうけいを手に取りました。私のものではないので旦那様のものでしょう。

「そろそろ朝食の時間だが……」

「で、でしたらもう起きませんと……っ」

 このままでは私の心臓がもちません。旦那様は、私の心をかしたように目を細めるとくすくすとしそうに笑って、ようやく私を解放してくれました。体を起こすと、心臓がばくばくとれつしそうなほどいですし、頰はまだ熱を持っています。旦那様もぐーっと伸びをしながら起き上がりました。

「なぁ、リリアーナ」

「は、はい」

 旦那様は、なんだかとても優しいまなしで私を見つめていました。

「まず、私と食事するのに慣れよう」

「え?」

「私は君が怖がる外の世界からやって来た人間だ。その上、君を傷付けた人間だ。初めて会った時、君は私におびえていただろう?」

「え、えっと、あの、それは……っ」

「ああ、すまない。怒っているわけじゃないよ。君の話を聞いた今、むしろ、よくげ出さないでいてくれたと感謝しているのだから」

 大きな手がうつむきそうになった私の頰を包み込みます。

「ゆっくりでいいんだ、リリアーナ。だから、まずは私に慣れることから始めてほしい。そうして君の心に勇気がまったら、いつしよに出かけよう。それは一カ月先でも、半年先でもいつでもいいんだ」

「……はいっ」

 その優しさがうれしくて胸がいっぱいになって一生懸命頷きました。旦那様がくすぐるように頰を撫でてくれます。

「さて、では……ふむ。君はいつも自分の部屋で食事をしているんだったな」

 急な話題のてんかんに話がつかめず頷くほかありません。

 旦那様は、少し考え込むようにあごを撫でた後、名案を思い付いたかのように得意げに頷きました。

「なら私も今日から君の部屋で昼と夜、食事をしよう」

「えっ?」

かたくるしいコース料理はなしだ。私もそういうものはしように合わないからな。食事をしながら色々な話をしよう。私は君のことが知りたい。私の空っぽの記憶にリリアーナのことを刻み込みたいんだ」

 思ってもみなかった言葉に私は、返事に困ってしまいました。

 すると旦那様は、ひざの上にあった私の両手を大きな手で包み込みました。

「私のままを聞いてくれないか、私の可愛かわいいリリアーナ」

 またあの甘い笑顔をかべて旦那様が下から私の顔をのぞき込んできます。私はどうしてかこの笑顔にとても弱いのです。

「ぜ、絶対に、怒らないでいて下さるなら……」

 まるでためすような失礼な言葉を口にしたというのに旦那様は、それはそれは嬉しそうににっこりと笑ってくれました。そのことにおどろいて目をまばたかせます。

「私が君に怒られることはあっても、私が君を怒ることなんて絶対にありえない」

 青い瞳はどこまでもんでいて、ぐで優しい光を宿していました。

『ゆっくりでいいのですよ。おくさまの心が思うようにすればいいのです』

 さとすように優しいモーガン先生の言葉がのうをよぎりました。

 私は、どうしたいのでしょう。旦那様を知りたいのでしょうか、私を知ってほしいのでしょうか。知るということも知られるということもなんだか少しだけ怖いような気がするのは、真実というものが決して美しいことばかりではないからでしょうか。

 でも、旦那様は昨夜、取り乱した私の事情を知ってもこうして優しく私を受け入れて下さいました。それだけで、あれほど感じていたきようずいぶんやわらいでいるのです。だとすればそれが答えなのでしょう。

「……私も旦那様とお話が、してみたい、です」

 情けなくもふるえてしまった声だったのに、旦那様はくしゃりと子どもみたいに心底嬉しそうに笑って下さいました。

「ありがとう、リリアーナ!」

「きゃっ、だ、旦那さまっ!」

 はしゃぐ旦那様にまたぎゅうと抱き締められました。けれど、旦那様はなんだかとても喜んで下さって、朝の仕度をたずさえてエルサがやって来るまで放してはくれませんでした。

 けれどその腕の中の心地よさにんでしまっていることに、この時の私はまだ気付いていませんでした。



「エルサ、私、変なところはないですか? 大丈夫かしら?」

 オロオロと部屋の中を行ったり来たりする私に、エルサは小さく笑いながら頷きました。

 旦那様もすでに自室にもどられておのおの朝食を済ませ、今は旦那様が来るのを待っています。

 エルサが用意してくれたのはあわい水色のドレスです。髪もエルサが綺麗にってくれました。両サイドは編み込みになっていてとても可愛いです。エルサの手はいつもほうのように私の髪を綺麗に結ってくれるのです。

「今日の奥様も大変、お可愛らしいですよ。それに旦那様ごときにそんなきんちようしなくても大丈夫ですよ」

「だ、旦那様だから緊張するんですもの」

 両手で胸をさえて、ふうと息をき出しました。

 朝食を終えた後は、いつもならおさいほうをしたり、読書をしたり、日によってはマナーレッスンやお勉強があるのですが、なんと早速旦那様にしきの中を案内してほしいとたのまれてしまったのです。

「ねえ、エルサ」

 私は足を止めて、どうしましたと首をかしげるエルサをかえります。

「……私、旦那様はもっと怖い方だと思っていたのですけれど、今の旦那様はあんまり怖くないのです。記憶をくしたことは……関係あるのでしょうか?」

 エルサは私の言葉に少し考えるような仕草を見せた後、ふっと表情をゆるめました。

「ご安心下さいませ。旦那様は、本来はああいった性格でございます。奥様の前ではげんでむっつりだまったままの最低野ろ……失礼、無礼なしんだったかもしれませんが、本来はあいらくのはっきりした非常に分かりやすい性格をしておいでです。もちろん、貴族という立場のある方ですので外では相手に相応ふさわしい仮面をかぶっておいでですが、身内の前だといつもあんな感じです」

「そうなのですか?」

「はい。図体ずうたいの大きな子どもだと思って接した方が気が楽になるやもしれませんよ」

「まあ、エルサったら。ふふっ、本当にじようだんが上手ね」

 エルサがあまりにもしんけんな顔で言うのでつい笑ってしまいました。あんなに大きくて立派な方なので子どものようには見えません。それに旦那様は私よりも十さいも年上です。

「でも、ありがとうございます。なんだか緊張がほぐれたような気がします」

「それは何よりでございます……あら、いらっしゃったみたいですよ」

 コンコンとノックの音が聞こえてドアの方を振り返ります。エルサが応対に向かう背を見ながら、去ったはずの緊張がまたも私の心臓をしようあくしようとしてきます。

 中に入って来た旦那様はあいいろを基調とした服に身を包んでいました。シンプルなデザインで派手なそうしよくのないだん用の服であっても旦那様ははくりよくがあります。

 旦那様は、ぱっと顔をかがやかせて、早速私のところにやってきました。

「うん、とても可愛らしい。まるで愛らしい水のようせいのようだ」

 するりと手を取られて手のこうに口づけが落とされました。一気に色んなことが起こりすぎて処理できずに心と頭が破裂しそうです。かぁっと熱を持った私の頬はいちごのように赤くなっていることでしょう。

「十五点ですね。一応言っておきますと百点満点中の十五点です」

 横から聞こえてきた声に顔を上げれば、冷めた表情を浮かべるエルサがいました。

「花束の一つも持ってきたらいかがですか?」

 エルサは旦那様とその後ろにひかえるフレデリックさんを見てまゆを寄せました。旦那様が私の手を放して、そっとそっぽを向いてしまいました。エルサは一体どうしたのでしょう、とオロオロしているとフレデリックさんがふふっと笑って口を開きました。

「庭師のジャマルにれんせいな花束がしいと頼みに行かれたのですが、ジャマルは最近、物忘れも激しいですし耳も遠いので『旦那様みたいな不義理な男にわたす花はねえ!』ともんぜんばらいをくらいまして……」

「日頃の行いのせいですね」

 エルサは、なんだかとってもかいそうに言いました。

 ジャマルおじいさんは、こうしやくに仕える庭師さんです。年を取って体力も衰え耳も遠くなったので、今はほとんどの仕事をむすさんとお孫さんに任せています。ですが大事な部屋にかざる花を育てるだんと温室は今もジャマルおじいさんが世話をしています。

「ジャマルは奥様をそれはそれは可愛がっていますからね」

「そういった理由で旦那様は花を用意するのに失敗したのでございます」

「旦那様、お花が欲しかったのですか?」

 旦那様はか申し訳なそうに私に顔を戻して、ああ、とのない声で頷きました。

 きっと記憶そうしつで不安にさいなまれる旦那様の心はいやしを求めているのでしょう。お花というのは見ているだけでもその可憐さや美しさで心を穏やかにしてくれますからね。

「旦那様、私があとでジャマルおじいさんに旦那様のお部屋に飾るお花をお願いしてみますね。ジャマルおじいさんは私のお部屋にもいつも綺麗なお花をつくろってくれるのです」

「え、あ、ああ、うん。ありがとう、リリアーナ……」

 旦那様は驚いたような顔をした後、どこか遠くを見つめながらお礼を言って下さいました。りちで優しい旦那様です。

 口元を手でおおってそっぽを向くエルサと俯いているフレデリックさんのかたが震えていますが、旦那様がせきばらいをすると二人の肩の震えは止まりました。何だったのでしょうと首を傾げますが、具合が悪いわけではなさそうなので気にしないことにしました。

「リリアーナ、ない夫だが屋敷を案内してくれるか?」

 そう言って旦那様が私に向かって、何故か腕を差し出しました。

 一体、どうしたのでしょう。腕に何かあるのかもしれないと思い、顔を近づけますが、ほつれたり破れたりもしていません。もしやでもと首を傾げます。

 するとエルサが私の耳元に口を寄せました。

「奥様、旦那様は腕を怪我したわけでもひじに穴が開いたわけでもありません。これはエスコートしようとして下さっているのです」

 まさか、と思いましたがエルサは優しいみを浮かべていますし、何よりも旦那様は腕を出したまま私の顔色をうかがっています。

 大丈夫ですよ、とエルサが背中をそっと押してくれたので、一歩前に出ておそるおそる旦那様の腕に手をえました。服の上からでもけんにぎる旦那様の腕はがっしりとしていました。すると旦那様は、とても嬉しそうに笑ってくれて私の頰も自然とあんに緩みます。

「良かった。私ではいやかと思った」

 旦那様の言葉に、とんでもありません、と首を横に振りました。

 きよが近いので旦那様のコロンのかおりが鼻先を撫でて、ますますドキドキします。

「こ、こういったことをして頂くのは、初めてなので……ふふっ、なんだかおひめ様にでもなったような特別でぜいたくな気持ちです」

 侯爵家にとついでから、ずかしながられんあい小説というものを読むようになりました。ヒロインはお姫様であったり、町むすめであったり、私と同じ貴族れいじようであったりと様々でしたが、結構なひんでこうしてこいびとにエスコートをしてもらうシーンがあったのです。

 ダンスのレッスンの時に相手役をしてくれたエルサとこうしたことはありますが、男性、それも旦那様にエスコートして頂くのは特別な心地です。これまで読んだ小説の中のヒロインたちも私と同じようにきっとドキドキふわふわしていたにちがいありません。

 浮かれていた私はこの時、旦那様が真っ赤になった顔を片手で覆っててんじようあおぎ、エルサが「今日も私の奥様が可愛い」と頰を緩め、フレデリックさんがそんなエルサを温かく見守っていたことには気付きませんでした。

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