第三章

踏み出す一歩 その②


 まず旦那様を案内したのは、私が最もおとずれる回数の多い図書室です。

 ルーサーフォード家の図書室はとても立派で星の数ほどたくさんの本があります。私の実家にも書庫はありましたが蔵書の数も種類もけたちがいです。図書室に司書さんがいるのでどんどん蔵書の数は増えているそうです。

 司書のモニカさんは、二十三歳とお若いですが、かのじよに聞けばどんな本でも見つけてきてくれる有能な司書さんです。

「それにしてもすごい本の数だな」

 背の高いほんだなを見上げながら旦那様が感心したように言いました。

「ルーサーフォード家では、我々使用人も貴重な本以外は、自由にえつらんできるのです。貸し出しもして下さっているのですよ」

 フレデリックさんの言葉に旦那様は、へぇ、とあいづちを打ちました。

 まずは私がいつも利用しているお裁縫関係の本が並ぶたなへと案内します。

「いつもここで色々な本を借りて、いんのバザーの品や子どもたちへの寄付品のデザインのアイディアを頂いたり、参考にしたりしているんです」

 私は旦那様の腕から手を離して、あるシリーズの中で一番参考にしている植物のしゆうのモチーフ集を手に取ります。植物編、動物編、日常編、がくよう編と様々なテーマごとに一冊ずつ色々なモチーフが集められているのです。

「私は特にこの本にお世話になっているんです」

 本を差し出すと旦那様は受け取り、ページをパラパラとめくります。たくさんの絵がモノクロでっていて、糸の色も事細かに指定され、し始めや仕上げる部位の順番などもていねいに書かれていますのでその通りにすれば綺麗に仕上がります。

「すごく細かいな……記憶喪失関係なくきっと私は、裁縫はしなかっただろうな」

「ふふっ、そうですね。あまり想像できません」

 そうだろうと旦那様はおどけたように肩をすくめました。

「リリアーナはすごいなぁ。この本の説明を読んであの刺繍を仕上げるんだろう? この間の向日葵ひまわりもとても見事な出来だったものな」

「ありがとうございます」

 刺繍だけは自信がありますので、められてとても嬉しいです。

「リリアーナは、特にどのモチーフが好きなんだ?」

 私が本を覗き込めるように位置を下げた旦那様に質問されました。私は旦那様の手の中にある本のページをめくり、お目当てのページを探します。

「……か?」

 絵を見た旦那様が出した答えに、私は正解の意味を込めて頷きました。

「私は薔薇が一番好きなので、よく薔薇の刺繡を刺します。たくさんの花びらがドレスみたいですし、色もあざやかでとても綺麗なので一番、好きな花なのです」

「薔薇か。薔薇なら私も知っているぞ。あまり花にはくわしくはないが、薔薇や向日葵、くらいなら分かる」

「でしたら旦那様、かんなどいかがですか? 絵図つきのらしい図鑑がここにはたくさんあるのですよ。お部屋に飾られたお花の名前を調べたりすれば心も安らぐと思います」

 私は旦那様の手からモチーフ集をお預かりして、図鑑が並ぶ棚へと足を向けようとしましたが「それよりも」と旦那様に引き留められます。

「それよりも君は、他に何を好んで読むんだ?」

「他ですか? ……他は、そうですね詩集も読みますし、お勉強のいつかんで歴史の本を読んだりもしますが……と、特に好きなのは、その、れ、恋愛、小説です」

 なんとなく子どもっぽい好みですので旦那様に言うのは恥ずかしいです。私はもう成人しているのですが、少女向けの恋愛小説にはまってしまったのです。

 この図書室にはそういった小説は数が少なかったのですが司書のモニカさんが「奥様が読むのなら」とたくさん仕入れてくれました。もともと若いメイドさんたちから要望はあったのですが、アーサーさんから許可が下りず仕入れられなかったのでモニカさんは良い口実ができたと喜んでいました。エルサや他のメイドさんのおすすめを読んで感想を言い合うのも楽しみの一つです。

「どういった本だ? 私も読んでみたい」

「だ、旦那様がですか?」

 思わず私は驚いて目を丸くします。旦那様の向こうにいたフレデリックさんとエルサも驚きの眼差しを向けていました。

 ですが、旦那様の青い瞳は、どこまでも真っ直ぐでこうしんにきらきらしているように見えます。とはいえ、恋愛小説は恋愛小説。とてもではありませんが旦那様向きの本とは言えません。フレデリックさんの表情からもそれは明らかです。

「確かどこかの棚にひようほうですとかけんじゆつの指南書があったはずですが、そちらのほうが」

「私はリリアーナの好きなものが知りたいんだ、教えてほしい」

 旦那様があまりにも真剣に私にうので、とつに頷いてしまいました。すると旦那様は、また嬉しそうに破顔して私の手を取りました。

「小説の棚はどっちだ」

「あちらでございます」

 フレデリックさんが手で示した方へと旦那様は私の手を引くようにして歩き出しました。骨ばった大きな手は私の手をすっぽりと包んでしまいます。

 あっという間に辿たどいた小説の棚の前で、旦那様が「どれだ?」と首を傾げます。私は本当に良いのでしょうかと少々の不安をかかえながらも、最近読んでおもしろかった一冊を棚から見つけ出します。

「……『ハーブ園で口づけを』?」

 旦那様が本のタイトルを読み上げます。

「どんな本なんだ?」

「オーランシュ王国というくうの王国をたいにした小説です。王国の辺境に住むじよの女の子と訳ありのぼうけんしやの青年が恋に落ちるお話なのです。魔女の女の子は左足と左目が不自由なのですが使いくろねこと一緒に村の人たちのためにハーブや薬草を育てて薬を作るのをお仕事にしているんです。とても明るくて元気でほがらかなてきな女の子なのですよ。……この物語の始まりはあらしの夜なのです」

 旦那様に本の内容を聞かれて私は一生懸命答えます。大好きな本なので旦那様にもそのりよくをお伝えしたいのです。

「嵐の夜、女の子のところに見知らぬ青年がやって来るんです。それが冒険者の青年なのですけれど、青年はひどい怪我をしていて女の子は傷の手当てをしてあげたんです。でも青年はその怪我が元で数日寝込んでしまうのですが……熱が下がったら自分がだれだか分からないって言うんです」

「困ったやつだな、私と同じだ」

 旦那様が眉を寄せます。私は、ふふっと笑って首を横に振りました。

かれうそをついたんです」

「嘘を?」

「はい。青年は王都でこうしやくの三男として生まれたんです。あとぎではないので冒険者になってがらを立てて旦那様と同じ王国のえいゆうになったんです。でも、有名になってしまったがゆえこうけいしや争いに巻き込まれて命をうばわれそうになって王都からだつしゆつして、追手をかけられて嵐の夜、足をすべらせて川に落ちてしまったんです。そしてどうにかこうにか女の子のところに辿り着いたんです」

「それでじようを知られたくなくて記憶喪失だと嘘を言ったのか」

「そうです。女の子も青年と過ごす日々の中でそれが嘘だと気付くのですが、嘘を暴いたら青年がどこかに行ってしまうと思って知らないふりをし続けるんです。二人はだんだんとかれ合うようになるのですが、その嘘や女の子のかくされた過去や色々なことが重なって、なかなか結ばれないんです。他にも魅力的な登場人物がたくさん出てきて、分類は恋愛小説なのですが、色んな人のおもいや願いやおもわく、それにからむ悪意も善意も何もかもがまっていて、とても面白いお話でした」

「面白そうだな、私も読んでみたい」

 パラパラとページをめくりながら旦那様が興味深そうに言いました。ぼうとう部分を少し読み込むと、本を閉じてフレデリックさんを振り返ります。

「よし、今夜からこれを読もう。フレデリック、私のしんしつに」

「かしこまりました」

 フレデリックさんが本を受け取り、大切そうにわきに抱えました。

「リリアーナも何か読むか?」

「いえ、私は部屋に二冊ほど読みかけの本がありますので」

「そうか。では次に行こうか」

 そう言って旦那様が腕を差し出しました。今度はすんなりとその腕に自分の手を添えることに成功しました。旦那様は優しいので、私のはばに合わせてゆったりと歩いてくれます。カウンターにいたモニカさんにしやくをして、私たちは図書室を後にしました。


「リリアーナ、そう緊張しなくていい。料理長には、気取らない料理を頼んであるんだ。あまりマナーなど気にせずに食べるといい」

「は、はい」

 旦那様のづかいにかろうじて返事をしましたが緊張でカチコチです。

 屋敷の案内をしている途中で昼食の時間になり、私の部屋へと戻って参りました。他のメイドさんが昼食の仕度をしてくれていたので、料理が来るのを待っています。

「昼食をお持ちいたしました」

 そんな声が聞こえて、フレデリックさんがドアを開けてむかえ入れます。

 昼食を載せたワゴンを押しながらメイドのメリッサさんが入ってきました。

 メリッサさんが銀色のカバーを外して、フレデリックさんとエルサがそれぞれ私と旦那様の前に料理の載ったお皿を運んで来てくれます。一枚の大きなお皿の上にメインのキッシュと付け合わせのサラダが盛り付けてありました。

「キッシュか」

「はい。奥様の好きなチーズとズッキーニとトマトのキッシュでございます。旦那様にはチキンのソテーをはさんだバゲットもございます」

 メリッサさんが流れるように説明して、フレデリックさんが旦那様の前に私の顔くらいはありそうな大きなバゲットのサンドウィッチを置きました。その大きさにびっくりです。その上、旦那様のキッシュは私のキッシュの三倍はあります。

「リリアーナ、たったそれだけで足りるのか?」

 旦那様が心底、心配そうに首を傾げました。

「は、はい、いつもこれくらいでじゆうぶん、おなかいっぱいになります」

「そうなのか? えんりよしなくていいんだぞ?」

「いえ、本当です」

「まあ、リリアーナは女性だし、がらだからな」

 旦那様はどうにかなつとくして下さったようです。冷めない内に食べよう、と旦那様が言って両手をいのるように組みました。私もあわてて同じように手を組みます。

「豊かなめぐみから分け与えられたかてに感謝します」

「感謝します」

 さつそく、旦那様はバゲットサンドを手に取り、大きくかぶりつきました。とってもごうかいですが口の周りをよごすことも、パンの中身がボロボロ零れることもありませんでした。

 私も気合を入れて、ナイフとフォークを手に取りました。旦那様がバゲットサンドに夢中になっているのをかくにんして、いつもより小さめに切り分けたキッシュを口へと運びました。無事に落とすことなく運べたことにほっとします。緊張で味が分からないのが残念ですが、今はまず食べることに専念しなければともう一切れ、口に運びました。

 口の中が空っぽになってから、お水を飲もうと顔を上げると鮮やかな青い瞳と目が合いました。ナイフとフォークを落としそうになりましたが、どうにかこらえて握り締めます。

「君は、このキッシュが好きなんだな」

 そう言って旦那様もキッシュを切り分けて口へと運びました。もぐもぐとしやくして飲み込むと、確かにいなと顔をほころばせます。

「ズッキーニのみずみずしい食感が楽しいし、トマトのうまと酸味をチーズのコクが上手に引き立てている。私も好きだな」

「それは、良かったです」

 自分でもよく分からない返事をして、私はまたキッシュを切り分けて口へ運びました。今度は旦那様が見ていても上手に食べられたような気がします。

「君は、とても丁寧に綺麗に食べるのだな」

 ふっと穏やかに微笑ほほえんだ旦那様の言葉を理解するのに数秒ほどかかりました。漸く整理できた頭で褒められたのだと気付いて目をみはります。

「エルサや……アーサーさんが丁寧に教えてくれたのです。フィーユ料理長さんも私が食べやすいようにふうして下さって……」

 震えそうになる声で答えると旦那様は、そうか、と頷きました。

「でも、リリアーナがたくさん努力を重ねたから上達したんだな」

 旦那様の穏やかな微笑みに私は、不安にはやっていた心臓がだんだんと落ち着きを取り戻して、心にわだかまっていたものがけていくのを感じました。

 エルサやアーサーさんも褒めて下さいましたし、同じような言葉をけてもらったこともあります。ですが、旦那様が私の努力を認めて下さったことがほうもなく嬉しいことに思えたのです。

「ありがとう、ございます、旦那様」

 旦那様は、どういたしまして、と言って食事を再開しました。

 なんだか泣きそうになるのをぐっとこらえて、サラダのプチトマトを口に入れました。あまっぱいトマトが心を落ち着けてくれます。それと同時に味がしていることに気付いて、キッシュももう一口食べてみたら今度はちゃんといつものしさがありました。

「リリアーナは他に何が好きなんだ?」

「他には……甘いものが好きです」

「そうか。じゃあ、きらいなものは?」

「嫌いというかセロリが苦手です。お薬みたいな味がして」

「本当か? 私も苦手みたいなんだ。でも一昨日おとといの夜に残したらそれから毎食、セロリが出てくるんだ」

 旦那様が嫌そうに顔をしかめて、サラダをフォークでつついてセロリを引っ張り出しました。大き目にざっくり切られたセロリは苦そうです。

「フィーユ料理長が『旦那様は記憶喪失だから今なら野菜嫌いも治せる』と張り切っていましたからね」

 フレデリックさんがにっこりと笑って言いました。

「記憶喪失は関係ないだろう? 私のこうはそんなに変わっていないはずだ」

「ごちゃごちゃ言わずに食べたほうがいいですよ、フィーユは食べなかったら、倍にして返してくる男ですので」

 エルサがしれっといった言葉に心当たりがあるのか旦那様は顔を顰めたままセロリを口に放り込み、あんまり|噛むか》まずに飲み込むというきようこう手段に出ました。

 私は少し頭をかたむけてサラダを覗き込みますがセロリの姿はなさそうです。

「大丈夫ですよ、奥様のサラダにセロリは入れないように言ってありますから。奥様は他の野菜は好んで食べて下さいますし、少食ですので、折角なら美味しいものや好きなものをたくさん食べてほしいとフィーユも言っておりましたから」

 エルサが教えてくれたフィーユ料理長の気遣いに胸がいっぱいになります。

「私にもその気遣いが欲しい」

「我が儘を言わないで下さい。旦那様は立派な大人でしょう」

 くされた旦那様にフレデリックさんが笑顔のままきっぱりと言い返しました。

 そのやり取りがなんだか可笑しくて、私はつい笑ってしまいました。すると、振り向いた旦那様と目が合って、いつしゆん笑いが止まったのですが、旦那様もふっと笑いを零すと可笑しそうに笑い出したので、つられるように私も笑みを零しました。

 それからは緊張もどこかへ行き旦那様と雑談をわしながら料理を食べ進めて、無事にデザートまで完食しました。

「リリアーナ、また夜もこうして一緒に食事をしよう」

「はい」

 旦那様のお誘いに私は、躊躇ためらうことなく頷きました。

 そんな私に旦那様は嬉しそうに笑って下さり、旦那様との初めてのランチを無事に終えることができたのでした。

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