踏み出す一歩 その②
まず旦那様を案内したのは、私が最も
ルーサーフォード家の図書室はとても立派で星の数ほどたくさんの本があります。私の実家にも書庫はありましたが蔵書の数も種類も
司書のモニカさんは、二十三歳とお若いですが、
「それにしてもすごい本の数だな」
背の高い
「ルーサーフォード家では、我々使用人も貴重な本以外は、自由に
フレデリックさんの言葉に旦那様は、へぇ、と
まずは私がいつも利用しているお裁縫関係の本が並ぶ
「いつもここで色々な本を借りて、
私は旦那様の腕から手を離して、あるシリーズの中で一番参考にしている植物の
「私は特にこの本にお世話になっているんです」
本を差し出すと旦那様は受け取り、ページをパラパラとめくります。たくさんの絵がモノクロで
「すごく細かいな……記憶喪失関係なくきっと私は、裁縫はしなかっただろうな」
「ふふっ、そうですね。あまり想像できません」
そうだろうと旦那様はおどけたように肩を
「リリアーナはすごいなぁ。この本の説明を読んであの刺繍を仕上げるんだろう? この間の
「ありがとうございます」
刺繍だけは自信がありますので、
「リリアーナは、特にどのモチーフが好きなんだ?」
私が本を覗き込めるように位置を下げた旦那様に質問されました。私は旦那様の手の中にある本のページをめくり、お目当てのページを探します。
「……
絵を見た旦那様が出した答えに、私は正解の意味を込めて頷きました。
「私は薔薇が一番好きなので、よく薔薇の刺繡を刺します。たくさんの花びらがドレスみたいですし、色も
「薔薇か。薔薇なら私も知っているぞ。あまり花には
「でしたら旦那様、
私は旦那様の手からモチーフ集をお預かりして、図鑑が並ぶ棚へと足を向けようとしましたが「それよりも」と旦那様に引き留められます。
「それよりも君は、他に何を好んで読むんだ?」
「他ですか? ……他は、そうですね詩集も読みますし、お勉強の
なんとなく子どもっぽい好みですので旦那様に言うのは恥ずかしいです。私はもう成人しているのですが、少女向けの恋愛小説にはまってしまったのです。
この図書室にはそういった小説は数が少なかったのですが司書のモニカさんが「奥様が読むのなら」とたくさん仕入れてくれました。もともと若いメイドさんたちから要望はあったのですが、アーサーさんから許可が下りず仕入れられなかったのでモニカさんは良い口実ができたと喜んでいました。エルサや他のメイドさんのおすすめを読んで感想を言い合うのも楽しみの一つです。
「どういった本だ? 私も読んでみたい」
「だ、旦那様がですか?」
思わず私は驚いて目を丸くします。旦那様の向こうにいたフレデリックさんとエルサも驚きの眼差しを向けていました。
ですが、旦那様の青い瞳は、どこまでも真っ直ぐで
「確かどこかの棚に
「私はリリアーナの好きなものが知りたいんだ、教えてほしい」
旦那様があまりにも真剣に私に
「小説の棚はどっちだ」
「あちらでございます」
フレデリックさんが手で示した方へと旦那様は私の手を引くようにして歩き出しました。骨ばった大きな手は私の手をすっぽりと包んでしまいます。
あっという間に
「……『ハーブ園で口づけを』?」
旦那様が本のタイトルを読み上げます。
「どんな本なんだ?」
「オーランシュ王国という
旦那様に本の内容を聞かれて私は一生懸命答えます。大好きな本なので旦那様にもその
「嵐の夜、女の子のところに見知らぬ青年がやって来るんです。それが冒険者の青年なのですけれど、青年は
「困ったやつだな、私と同じだ」
旦那様が眉を寄せます。私は、ふふっと笑って首を横に振りました。
「
「嘘を?」
「はい。青年は王都で
「それで
「そうです。女の子も青年と過ごす日々の中でそれが嘘だと気付くのですが、嘘を暴いたら青年がどこかに行ってしまうと思って知らないふりをし続けるんです。二人はだんだんと
「面白そうだな、私も読んでみたい」
パラパラとページを
「よし、今夜からこれを読もう。フレデリック、私の
「かしこまりました」
フレデリックさんが本を受け取り、大切そうに
「リリアーナも何か読むか?」
「いえ、私は部屋に二冊ほど読みかけの本がありますので」
「そうか。では次に行こうか」
そう言って旦那様が腕を差し出しました。今度はすんなりとその腕に自分の手を添えることに成功しました。旦那様は優しいので、私の
「リリアーナ、そう緊張しなくていい。料理長には、気取らない料理を頼んであるんだ。あまりマナーなど気にせずに食べるといい」
「は、はい」
旦那様の
屋敷の案内をしている途中で昼食の時間になり、私の部屋へと戻って参りました。他のメイドさんが昼食の仕度をしてくれていたので、料理が来るのを待っています。
「昼食をお持ちいたしました」
そんな声が聞こえて、フレデリックさんがドアを開けて
昼食を載せたワゴンを押しながらメイドのメリッサさんが入ってきました。
メリッサさんが銀色のカバーを外して、フレデリックさんとエルサがそれぞれ私と旦那様の前に料理の載ったお皿を運んで来てくれます。一枚の大きなお皿の上にメインのキッシュと付け合わせのサラダが盛り付けてありました。
「キッシュか」
「はい。奥様の好きなチーズとズッキーニとトマトのキッシュでございます。旦那様にはチキンのソテーを
メリッサさんが流れるように説明して、フレデリックさんが旦那様の前に私の顔くらいはありそうな大きなバゲットのサンドウィッチを置きました。その大きさにびっくりです。その上、旦那様のキッシュは私のキッシュの三倍はあります。
「リリアーナ、たったそれだけで足りるのか?」
旦那様が心底、心配そうに首を傾げました。
「は、はい、いつもこれくらいで
「そうなのか?
「いえ、本当です」
「まあ、リリアーナは女性だし、
旦那様はどうにか
「豊かな
「感謝します」
私も気合を入れて、ナイフとフォークを手に取りました。旦那様がバゲットサンドに夢中になっているのを
口の中が空っぽになってから、お水を飲もうと顔を上げると鮮やかな青い瞳と目が合いました。ナイフとフォークを落としそうになりましたが、どうにかこらえて握り締めます。
「君は、このキッシュが好きなんだな」
そう言って旦那様もキッシュを切り分けて口へと運びました。もぐもぐと
「ズッキーニの
「それは、良かったです」
自分でもよく分からない返事をして、私はまたキッシュを切り分けて口へ運びました。今度は旦那様が見ていても上手に食べられたような気がします。
「君は、とても丁寧に綺麗に食べるのだな」
ふっと穏やかに
「エルサや……アーサーさんが丁寧に教えてくれたのです。フィーユ料理長さんも私が食べやすいように
震えそうになる声で答えると旦那様は、そうか、と頷きました。
「でも、リリアーナがたくさん努力を重ねたから上達したんだな」
旦那様の穏やかな微笑みに私は、不安に
エルサやアーサーさんも褒めて下さいましたし、同じような言葉を
「ありがとう、ございます、旦那様」
旦那様は、どういたしまして、と言って食事を再開しました。
なんだか泣きそうになるのをぐっとこらえて、サラダのプチトマトを口に入れました。
「リリアーナは他に何が好きなんだ?」
「他には……甘いものが好きです」
「そうか。じゃあ、
「嫌いというかセロリが苦手です。お薬みたいな味がして」
「本当か? 私も苦手みたいなんだ。でも
旦那様が嫌そうに顔を
「フィーユ料理長が『旦那様は記憶喪失だから今なら野菜嫌いも治せる』と張り切っていましたからね」
フレデリックさんがにっこりと笑って言いました。
「記憶喪失は関係ないだろう? 私の
「ごちゃごちゃ言わずに食べたほうがいいですよ、フィーユは食べなかったら、倍にして返してくる男ですので」
エルサがしれっといった言葉に心当たりがあるのか旦那様は顔を顰めたままセロリを口に放り込み、あんまり|噛むか》まずに飲み込むという
私は少し頭を
「大丈夫ですよ、奥様のサラダにセロリは入れないように言ってありますから。奥様は他の野菜は好んで食べて下さいますし、少食ですので、折角なら美味しいものや好きなものをたくさん食べてほしいとフィーユも言っておりましたから」
エルサが教えてくれたフィーユ料理長の気遣いに胸がいっぱいになります。
「私にもその気遣いが欲しい」
「我が儘を言わないで下さい。旦那様は立派な大人でしょう」
そのやり取りがなんだか可笑しくて、私はつい笑ってしまいました。すると、振り向いた旦那様と目が合って、
それからは緊張もどこかへ行き旦那様と雑談を
「リリアーナ、また夜もこうして一緒に食事をしよう」
「はい」
旦那様のお誘いに私は、
そんな私に旦那様は嬉しそうに笑って下さり、旦那様との初めてのランチを無事に終えることができたのでした。