第二章

旦那様からのお誘い その④

 待ちきれずに迎えに行った妻の部屋の前で聞こえてきた会話に、私はノックしようと上げた手を止めた。

 そこに出てきたのは明らかに男だと思われる「セドリック」という人物の名前。その人物とのおもを語るリリアーナの声ははずんでいて、求婚までされている上に王子様とまで言っていた。

 しかし、私の燃え上がったしつしんは、きようだいでもあるという私の専属しつの言葉によって一瞬でちんする。

「たとえ花で作ったはかないものでも、不要だと指輪の一つも作らなかった旦那様よりは間違いなく奥様にとっては王子様でしょうねぇ」

 ぐうの音も出ないとは正にこのことだった。

 私は、むっつりと顔をしかめてノックを止め、ダイニングへときびすを返した。フレデリックはすずしい顔で後ろをついてくる。

「……セドリックとは誰だ」

「……さあ、奥様に直接たずねてはいかがですか?」

 乳兄弟はい返事を寄越した。

 ベッドの上にいた昨日までの一週間、アーサーとフレデリックに私が忘れてしまったありとあらゆる人々とその関係を姿絵つきで教えてもらった。自分の家族のことはもちろんだが、騎士団のこと、おさなじみのこと、貴族関係のこと、その中にはもちろん、リリアーナの話もあった。しかし、彼女の実家については伯爵夫妻の名前と家族構成くらいしか教えてくれなかった。くわしいことは奥様とお話をするきっかけにとっておきましょうと言われてしまっては、根り葉掘り聞くわけにもいかない。家族の話題は、確かにお互いを知るための会話のきっかけには相応ふさわしい。

 リリアーナが屋敷の使用人たち皆に愛されて大事にされているのはこの一週間でひしひしと感じた。何故なら世話をしにくる使用人たちが一様に冷たいのだ。特にけんちよなのがリリアーナのじよのエルサだった。私がリリアーナに害をなすと思っている節のある彼女はすきあらば子をまもる母のようにリリアーナから私を遠ざけようとする。

 そして皆、口を開けば「優しい奥様」「しとやかな奥様」「控えめで気遣いのできる奥様」と彼女を褒めるのだ。私に対しては「あれもこれも綺麗さっぱりお忘れになってさぞご気分もよろしいでしょう」と丁寧ながらしんらつな苦言しかないというのに。エルサに至っては主人を平然とヘタレ呼ばわりする。

 ダイニングで私は行ったり来たりしながらリリアーナを待つ。

 アーサーにもこっそりとセドリックが誰か尋ねたのだが、にっこり笑った執事は「奥様に直接お聞きになったらよろしいかと」とフレデリックと同じことを言った。

 私より十歳も年下のリリアーナにそういう相手がいたとしても責められるものではない。私とは私の都合だけの政略結婚だったというし、結婚した時彼女はまだ十五歳だ。それに何より今の私も記憶をくす前の私も、彼女の王子様になるには身勝手すぎるというのも重々承知している。

「……フレデリック」

 ドアの前でうろうろする私を半目で見ていたフレデリックが首を傾げる。

「その……以前の私は、リリアーナに本当に何も贈らなかったのだろうか」

「そうですね、旦那様が自らというのは一つもございません。ドレスも旦那様が当家贔屓の仕立て屋にせいひんたのんだので、エルサたちが全て奥様のサイズに仕立て直しましたしね。旦那様がいちの望みをいていらっしゃるかもしれない裁縫箱と刺繡糸も、旦那様は買う許可とお金を出しただけで、選んだのは私とエルサです」

「……花の一つも?」

「花の一つも、ぼうの一つも、菓子の一つも、こいぶみの一つも、結婚指輪でさえも、旦那様は奥様に贈っておりませんし、奥様の好み一つご存じありませんでした。ふむ、こうして言葉にするとなかなかに最低ですね」

 フレデリックは、ははっと爽やかに笑った。

 だが、その目はじんも笑っていない。この乳兄弟もまた私よりリリアーナを大事にしているのだろうか。

「……それでも私が大事に思うのは、私の主である旦那様です」

 どうやらあの侍女同様、主の心を読む技能も持ち合わせているようだ。

「旦那様と奥様ががけからぶら下がっていたら、私は誰がなんと言おうとまずは旦那様を助けます。それで誰にうらまれようがにくまれようがかまいません。ですが、この一年の貴方あなたは……人として、しんとして、騎士として、最低だった。……だからぼくは君におこっているんだ、ウィリアム」

 フレデリックの緑の瞳がさびしそうに細められた。

 自分のものだとしっくりこない名前は、かれに呼ばれるとしっくりきたのを感じた。私の失われた記憶の中に確かに彼がいるしようだった。

 次の言葉を探してとりあえず口を開けた時だった。不意にドアの向こうから悲鳴にも似た声が聞こえて顔を見合わせる。

「確認して参ります」

 そう言ってフレデリックがすぐさまろうへと出る。しかし、ドアを開けたしゆんかん、エルサが焦ったように「奥様」と何度も呼ぶ声が聞こえ、私はフレデリックを押しのけるようにして慌てて廊下へと出た。

 目と鼻の先にリリアーナと彼女の肩を掴むエルサの姿があった。リリアーナは、何故か耳を両手で塞いで首を横に振っている。

「リリアーナ!」

 リリアーナの体がぐらりとれて、私は慌ててけ出してその細い腕を掴んできやしやな体を受け止めた。ずるずると座り込むリリアーナにつられるように私も膝をつく。私の腕の中で彼女は耳を塞いで、ガタガタと震え、まるで逃げ出そうとするかのようにく。

「リリアーナ、私だ、しっかりしろ」

 色を失った唇が震えて、彼女は泣きそうに顔を歪めた。さわぎを聞きつけた他の使用人たちもぞろぞろと集まってくる。

「おと、お父様……お願いです、許して下さいませ……っ」

 吐き出された言葉と共に彼女は身をこわらせて、何かに耐えるように目を閉じた。細い手首を掴んで耳から外させる。

「リリアーナ!」

 何回目かの呼びかけにようやくリリアーナは、私をにんしきしたのかぴたりとていこうをやめ、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。

 うつろな銀色の瞳が私を見て、私の背の向こう、そして反対側へと向けられる。

 自分を覗き込む私たちの顔を見てリリアーナは唇を震わせた。

「だいじょうぶですよ」

 確かに色を失った唇がそう言葉をかたどったのを私は見つけた。

 言いようのない怒りやしようそうが私の胸をおおった次の瞬間、泣きたいような気持ちを抱いた。リリアーナは、静かに微笑んでいたのだ。真っ青な顔でその華奢な体を震わせたまま、ただ静かに微笑んでいる。

「リリアーナ、絶対に落としたりはしないから身を任せてくれ」

 縋ることも知らない彼女の投げ出されたままの細い手が酷く悲しくて、全てを誤魔化すように彼女をそっと横抱きにして立ち上がる。ひようけするほど軽く小さな体だった。

「大丈夫、大丈夫だ、リリアーナ」

 囁くように告げた声が震えてしまった。

 リリアーナは、再び目を閉じる。少しだけ増した重みに気を失ったのだと分かった。

「エルサ、来てくれ。フレデリック、モーガン医師を大至急呼んでくれ。アーサー、後は頼んだ」

 三つの返事を背に私は、彼女の寝室へと歩き出したのだった。


 時折吹く風がガタガタと窓を揺らした。傍らに置かれたしよくだいほのおがゆらりと頼りなく揺らめく。

 風が吹き去ればリリアーナの少しあらい呼吸が静かな部屋に落ちる。私は洗面器のふちに掛けられていた布を手に取り、彼女の額に滲んだ汗をぬぐう。ベッドのわきに置かれたに座って彼女の手を握り、時々こうして汗を拭うくらいしか私にはできることがなかった。

 高熱というわけではないがリリアーナは少し熱を出してしまった。客間に下がったモーガン医師によれば、精神的なショックからくる熱だそうだ。この屋敷に来た当初はこうしてよく熱を出してんでいたと彼は教えてくれた。

 私は、そんなことも覚えていない。フレデリックやアーサーが報告してくれたのだろうが記憶にない。記憶を失ってなかったとしても、覚えていたかどうかは怪しかった。

 リリアーナが言っていた通り、私の中には思い出すなんて言えるほど元から彼女に関する記憶や思い出がないのだ。

 時刻は既に午前一時を回っている。二時間ほど前にエルサを下がらせようとしたががんとして聞かなかった。「信用ならない旦那様に大事な奥様は預けられない」ときっぱりと言われた。しかし、フレデリックがどうにかこうにか言いくるめて彼女とともに出て行き、今は私とリリアーナの二人きりだった。

「リリアーナ」

 小さな声で呼びかけるが無論、返事はない。ただ苦しそうな呼吸が聞こえてくるのみだ。

 彼女は一体、この小さな体に何をかかえ込んでいるのだろうか。

 リリアーナは、エルサを姉のようにも母のようにもしたっているが絶対に肌を見せないのだという。下着を先に自分で身に着けてから、エルサにコルセットを締めてもらう。も自分で入り、夜着にも自分で着替え、てつていして肌は見せないらしい。

 エルサは男たちを追い出すとメイドをもう一人呼んでリリアーナを着替えさせてくれたが「ドレスをがせてコルセットを外し、汗を拭ってネグリジェを着せただけで肌は一切見ていませんと必ず伝えて下さいね」と念を押された。

 首を傾げる私に、唯一、医師としてその肌の秘密を知るモーガン医師は、そうしないとリリアーナはエルサですらきよぜつしてしまう可能性があると教えてくれた。

『……若い娘さんがその身に背負うには、絶望にも似たものですよ』

 モーガン医師はリリアーナの秘密について悲しそうにそう呟いた。

 今日の昼もそうだった。

 親の言いつけで外に出たことがないと告げた彼女はどこか不安そうで何かにおびえているようにも見えた。彼女は無意識の内に細い手で鳩尾を押さえていた。彼女が不安になるとそこを押さえる癖があると気付くのは傍にいれば難しいことではない。まるでそこにある何かが顔を出さないように押し込めているかのようだった。

 私は、どうしてリリアーナに辛くあたっていたのだろう。親が決めた政略結婚だったから彼女を妻と認めなかったのかと思ったが、アーサーは違うと言った。

 記憶をなくす前の私は、女嫌いで有名で誰もが結婚などしないだろうと思っていたとアーサーは言った。私には年の離れた弟がいるので、私が結婚しなくともあとぎに問題はないから一生結婚しないだろうとも思っていて、だからいきなり結婚すると言われた時はとても驚いたのだという。しかし、自分で決めてめとったくせに、何が気に入らないのかリリアーナを一年もの間、無視し続けたとそうねんの執事はたんたんと告げた。

 私が女嫌いだった理由は、先の戦争でくんを収め英雄として名を上げた大貴族という肩書に群がった女性たちのせいらしい。覚えていないのでさっぱり身に覚えがないのだが、女の醜さをたりにした私は女嫌いになってしまったのだそうだ。

 自分のことなのにこれっぽっちも実感というものがない。

 今の私はリリアーナを好ましく思っている。ひとれとは実にやつかいだと自分でも笑ってしまうほど、ウィリアムという男はリリアーナという美しい妻に心かれているのだ。

 彼女の性格が好ましかったのもある。控えめで穏やかで、誰に対しても優しい彼女は、見た目の美しさ以前に人として私よりずっと素晴らしい。

「……ん」

 身じろぐ声が聞こえて顔を上げる。握り締めていた左手が私の手を握り返した。

「リリアーナ」

 驚かせないように小さな声で彼女の名前を呼んだ。

 ゆっくりと長いまつが震えて、銀色の瞳が現れた。ぼんやりとしていた銀色の瞳は、暫くそうして私を見つめていたが私を「旦那様」と認識したのだろう次の瞬間、大きく見開かれて、彼女の体が再び強張った。

「だ、だんなさ、ま、わ、わたしっ」

 起き上がろうとする彼女の細い肩をそっと押さえてベッドに戻す。

「大丈夫だリリアーナ。私はこれっぽっちも怒っていないよ」

 できる限り優しく笑って、穏やかに言葉を掛けた。流石さすがの私もリリアーナが「怒られること」に対して恐怖を抱いていることくらいはこの数日で気が付いている。

「旦那様、私……ここは、デ、ディナーは、」

「焦らなくていい。ここは君の寝室だ。私もエルサもアーサーもフレデリックも料理長もメリッサや他の使用人たちも、この屋敷の誰も怒っていないから、安心しなさい」

 私は名残なごりしかったがリリアーナの手を放し、サイドボードに置かれた水差しを手に取って、グラスに半分ほど注ぐ。リリアーナが体を起こそうとするのでグラスをサイドボードの上にいつたん置いてベッドの縁に腰掛け、彼女の背中を支える。

「私に寄り掛かりなさい。倒れては大変だ」

「でも……」

「君が十人くらい寄り掛かっても私はなんともないよ」

 茶化すように言えば、リリアーナが少し表情を緩めて私の胸に寄り掛かってくれた。グラスを渡すと両手で包み込むように持って、そっと口に含んだ。ゆっくりと空になったグラスを受け取り、おかわりを尋ねるがリリアーナは首を横に振った。

 水を飲んで落ち着いたのか、リリアーナは自分の体を見下ろして、ドレスからシルクのネグリジェになっていることに気付いたようだった。

「あ、あのっ、着替えは……っ」

 振り返ったリリアーナの真っ青な顔に、エルサとモーガン医師の言葉は正しかったのだと思いながら、もう一度、大丈夫だと声を掛けて細い肩をぽんぽんとたたいた。

「エルサとメリッサが着替えさせてくれたが、シュミーズは脱がせていないから肌は見ていない、汗ばんで気持ち悪いようならいつものところにえも出してあると言っていたぞ」

 リリアーナは、エルサからの伝言に分かりやすく表情を緩めた。

 しかし、またすぐに悲しそうな怯えを滲ませた表情になり、躊躇ためらいがちに私を見上げる。

「ほ、本当に……申し訳ありません。折角、旦那様が誘って下さったのに……」

「気にしなくていい。具合が悪くなることは誰にだってあることだ。転んで記憶を失ったけな私がリリアーナを責められるわけがないだろう?」

 リリアーナの心を少しでも軽くしてやりたいが、これがなかなか難しかった。

 ぷつりと途切れた会話は、ちんもくを連れてくる。自分からはあまりしやべらないリリアーナと自分のことすら分からない私には、会話のきっかけになる思い出や話題がない。

 だが、ここで何か残さないと彼女との関係がこれきりになってしまうような気がして、私はだいに焦り始めた。そして、焦った結果、彼女があんなに取り乱した理由以外で私が最も気にかかっていた話題が勝手に口から出ていた。



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