旦那様からのお誘い その③
結局来月のバザーに旦那様と一緒に行くことになってしまったわけですが、その前にまずは一緒にディナーをと旦那様が誘って下さいました。
食事のマナーはエルサとアーサーさんのお蔭で上達しましたが、旦那様と一緒というのは
エルサはディナーの時間が近づくにつれ緊張で青ざめていく私に「断ってきましょうか?」と
旦那様が私に興味を持たれたのは、記憶喪失になって心細いからに違いありません。妻という肩書は一応、家族に分類されますから私に接して下さっているのです。それに自分で旦那様に「何なりとお申し付け下さい」と言ってしまったのですから、私を
ドレスに
「奥様の
まるで絹糸を
「あ、ありがとうございますっ」
私にはもったいないような褒め言葉に
実家にいた頃は、
なので侯爵家に来るまでコルセットという
今夜のドレスは、控えめな
実家にいた頃は、姉や母のお下がりのドレスを着ていたのですが、シミがあったり破れていたり、サイズが合わなかったりしていたので、嫁いできた時に用意されていた私にぴったりサイズのたくさんの綺麗なドレスはとても嬉しかったです。
この一年、何度かドレスを新しく仕立てましょうとエルサは言ってくれましたが、春夏秋冬に合わせて十着ずつも用意して下さっていたのですから、それ以上は屋敷からも出ない私には無用の長物です。
どのドレスもシンプルなデザインですので、新調しなくても、少しだけ手を加えて自分で刺繍をしたりアレンジをしたりして楽しませてもらえます。
できましたよ、と声を掛けられて目を開けると鏡の中に綺麗に
「ありがとうございます、エルサ」
いいえ、とエルサは笑って答えてくれましたが、ふと真顔になるとしげしげと鏡の中の私を観察します。
「……奥様、あの
「そういうものは夜会にもお茶会にも出ない私には不要です」
「でもせめて髪飾りくらい……」
「いいえ、侯爵家のお金は旦那様のものですし、領民の皆様が
そうきっぱりと返すとエルサはなんだか不満そうでした。エルサは
「……あ、では、結婚指輪をお願いしてはいかがでしょう? 夫婦なのですからこれは必要だと思いますよ」
エルサの言葉に私は、自分の左手に視線を落としました。
私の薬指は空っぽです。エルサの薬指も空っぽですが、仕事中は首に細いチェーンに指輪を通して掛けているのです。前に見せてもらいましたがシンプルな銀の指輪は、内側にエルサへのメッセージが彫られていました。エルサが恥ずかしがってすぐに隠してしまったので何が書いてあるか分からなかったのが残念です。
私も多少は夢を見たこともある十六
その頃のもう一つの想い出を思い出して、何もない薬指を見ながら思わず笑みを零してしまいました。急に笑った私にエルサが不思議そうに首を傾げます。
「ふふっ、昔、あの子が私に結婚指輪、というか
「セドリック様ですか?」
「はい。どうやら結婚というものについて教わったみたいですごく緊張しながらも私に
「まあ、お可愛らしいですね」
「
姉の
その時不意にコンコンとノックの音が聞こえてきました。
「奥様、ディナーの仕度が調いましたのでダイニングへどうぞ。旦那様もお待ちです」
聞こえてきたのは、メイドのメリッサさんの声でした。私は用意されていた
「奥様、本当に大丈夫ですか? あまり顔色が……」
エルサが心配そうに眉を下げながら私の顔を覗き込んできます。私は精一杯、笑って返しました。
「大丈夫です。だってエルサとアーサーさんが教えて下さったんですもの。それに旦那様が待っていて下さるのだから行かないわけにはいきません。料理長さんたちも
エルサは何か言いたげでしたが、私の意思を汲み取って
ダイニングに近づくにつれて、再び緊張してきました。心臓がドキドキと
「奥様、本当に大丈夫ですか?」
私の異変に気付いたエルサが足を止め、私の足も自然と止まってしまいました。
「……だ、大丈夫です。エルサが綺麗にしてくれたんですもの、それに……お食事のマナーだってエルサとアーサーさんが合格を出してくれたんですから」
「お食事する奥様のお姿はどこからどう見ても完璧な淑女ですよ。私が保証します」
自分に言い聞かせるように紡いだ言葉を肯定してくれたエルサが、私の背をそっと撫でてくれました。
足を止めてしまったのがいけなかったのでしょうか。手まで
「きゃっ」
「奥様、やはり部屋に戻って休みましょう、顔色が真っ白です」
「だ、だめですっ!」
悲鳴交じりに
「おか、お継母様の言い付け、ですもの……っ、ちゃ、ちゃんと守らないと……もっと酷い目に……っ!」
エルサが焦ったように私を呼ぶ声が遠くに聞こえます。
その代わり私の瞼の裏には、お継母様の赤い紅を乗せた唇が緩い
『今夜こそ、上手に食べるのよ? スープを一
エルサの声をかき消すようにここにいるはずのないお継母様の声が聞こえてきて、それを拒むように両手で耳を
『本当に食べるのが下手くそねぇ。醜いことこの上ないわ』
『見ているだけで気分が悪くなりますわ。犬だってもっとマシですのに』
『お前はこんなこともできないのか、少しはマーガレットを見習え』
耳を塞いでいるのにお継母様だけでなく、姉様やお父様の声まで聞こえてきました。瞼の裏でお父様が鞭を片手に立ち上がります。男であるお父様の鞭は、お継母様や姉様の何倍も痛いのです。
私は
「おと、お父様……お願いです、許して下さいませ……っ」
私は、いつも一生懸命、許しを
「リリアーナ!」
はっきりと私の
目の前に旦那様のお顔がありました。その端正なお顔は心配そうに
私のことで哀しむ必要なんてこれっぽっちもないのに、なんて優しい人たちでしょうか。
大丈夫ですよ、と伝えたいのに舌が
「リリアーナ、絶対に落としたりはしないから身を任せてくれ」
旦那様がそう告げると、ふわりと私は自分の体が浮いたように感じました。背中と
「大丈夫、大丈夫だ、リリアーナ」