第二章

旦那様からのお誘い その③

 結局来月のバザーに旦那様と一緒に行くことになってしまったわけですが、その前にまずは一緒にディナーをと旦那様が誘って下さいました。

 食事のマナーはエルサとアーサーさんのお蔭で上達しましたが、旦那様と一緒というのはきんちようしてしまいます。私は食事をするのがどうにもこうにも昔から下手なのです。

 エルサはディナーの時間が近づくにつれ緊張で青ざめていく私に「断ってきましょうか?」とづかってくれましたが、折角誘って下さったのですし、一度きりのことでしょうからと自分を奮い立たせました。

 旦那様が私に興味を持たれたのは、記憶喪失になって心細いからに違いありません。妻という肩書は一応、家族に分類されますから私に接して下さっているのです。それに自分で旦那様に「何なりとお申し付け下さい」と言ってしまったのですから、私をたよろうとする旦那様をこばむのは間違っています。

 ドレスにえてドレッサーの前に座った私の髪を、エルサがていねいに整えてくれます。

「奥様の御髪おぐしは本当に艶やかでお綺麗です。毎日、こうしてお手入れをさせて頂けるのは私の楽しみなのですよ」

 まるで絹糸をくかのように大事にしてくれていると分かる手つきで私の髪をくしで梳きながらエルサが言いました。

「あ、ありがとうございますっ」

 私にはもったいないような褒め言葉にずかしくなって、私は早口にお礼を言って少し顔を俯けました。何でもお見通しのエルサが、ふふっとしそうに笑った小さな声が上から聞こえました。

 実家にいた頃は、たくは全て自分でしなければいけませんでした。

 なので侯爵家に来るまでコルセットというきよう、いえ、淑女のプライドとはえんでした。後ろでひもしばるコルセットは一人では身に着けられませんので、絶対にけないシュミーズを自分で着てからエルサにコルセットを締めてもらい、ドレスを着せてもらっています。

 今夜のドレスは、控えめなあわいピンクです。Aラインのシンプルなドレスですが、さりげなくレースやリボンがあしらわれていて可愛かわいいのです。

 実家にいた頃は、姉や母のお下がりのドレスを着ていたのですが、シミがあったり破れていたり、サイズが合わなかったりしていたので、嫁いできた時に用意されていた私にぴったりサイズのたくさんの綺麗なドレスはとても嬉しかったです。

 この一年、何度かドレスを新しく仕立てましょうとエルサは言ってくれましたが、春夏秋冬に合わせて十着ずつも用意して下さっていたのですから、それ以上は屋敷からも出ない私には無用の長物です。

 どのドレスもシンプルなデザインですので、新調しなくても、少しだけ手を加えて自分で刺繍をしたりアレンジをしたりして楽しませてもらえます。

 できましたよ、と声を掛けられて目を開けると鏡の中に綺麗にしようをされて、かざった私がいました。私にはもったいない気もしますがやっぱりこのドレスは可愛いです。

「ありがとうございます、エルサ」

 いいえ、とエルサは笑って答えてくれましたが、ふと真顔になるとしげしげと鏡の中の私を観察します。

「……奥様、あのぼくねんじんゴホンッ、旦那様とお食事なのですからアクセサリーをお願いしてはいかがですか? もしかしたらこれから必要になるかもしれませんよ」

「そういうものは夜会にもお茶会にも出ない私には不要です」

「でもせめて髪飾りくらい……」

「いいえ、侯爵家のお金は旦那様のものですし、領民の皆様があせみず流して働いて納めて下さった大事なお金ですから、そんなことには使えません」

 そうきっぱりと返すとエルサはなんだか不満そうでした。エルサはたびたび、私にドレスや宝石を買い求めてはと言ってくれますが、旦那様のお金をそんなことに使うのはもったいないのでいつもお断りしています。お飾りの妻があれもこれもしがるなんて厚かましいにもほどがありますから。それに何よりすでに旦那様はこんな私のために三○○○万リルという大金をはらって下さっているのですから、余計にづかいはできません。

「……あ、では、結婚指輪をお願いしてはいかがでしょう? 夫婦なのですからこれは必要だと思いますよ」

 エルサの言葉に私は、自分の左手に視線を落としました。

 私の薬指は空っぽです。エルサの薬指も空っぽですが、仕事中は首に細いチェーンに指輪を通して掛けているのです。前に見せてもらいましたがシンプルな銀の指輪は、内側にエルサへのメッセージが彫られていました。エルサが恥ずかしがってすぐに隠してしまったので何が書いてあるか分からなかったのが残念です。

 私も多少は夢を見たこともある十六さいです。あこがれがないわけではありませんが、結婚指輪というものはエルサとフレデリックさんのように愛し合う夫婦が身に着けるものだと思っています。私が結婚指輪というものの存在を知ったのは、実家にいた頃です。

 その頃のもう一つの想い出を思い出して、何もない薬指を見ながら思わず笑みを零してしまいました。急に笑った私にエルサが不思議そうに首を傾げます。

「ふふっ、昔、あの子が私に結婚指輪、というかこんやく指輪をくれたのです」

「セドリック様ですか?」

「はい。どうやら結婚というものについて教わったみたいですごく緊張しながらも私にきゆうこんしてくれたんです。姉弟きようだいは結婚できないからだめよ、と言ったら泣いてしまったのですが、あきらめきれなかったみたいで後日、お花で作った指輪を私にくれたんですよ。水に浮かべて暫く部屋にこっそりと飾っていたのですが、見るたびに幸せな気持ちになれました」

「まあ、お可愛らしいですね」

めつに泣かない子なので、泣かれた時は驚きました。でもあの子なりに本気だったのだと嬉しく思ってしまいました。ちゃんと片膝をついて私の手を取って、まるで王子様みたいに求婚してくれたんです」

 姉のひいかもしれませんけど、と小さな声で付け足しましたが、聞こえていたエルサはくすくすと笑って「素敵ですね」と言ってくれました。

 その時不意にコンコンとノックの音が聞こえてきました。

「奥様、ディナーの仕度が調いましたのでダイニングへどうぞ。旦那様もお待ちです」

 聞こえてきたのは、メイドのメリッサさんの声でした。私は用意されていたひじまでの白ぶくろめて立ち上がります。

「奥様、本当に大丈夫ですか? あまり顔色が……」

 エルサが心配そうに眉を下げながら私の顔を覗き込んできます。私は精一杯、笑って返しました。

「大丈夫です。だってエルサとアーサーさんが教えて下さったんですもの。それに旦那様が待っていて下さるのだから行かないわけにはいきません。料理長さんたちもうでによりをかけてくれているでしょうし」

 エルサは何か言いたげでしたが、私の意思を汲み取ってなつとくしてくれたようです。


 ダイニングに近づくにつれて、再び緊張してきました。心臓がドキドキとくなって冷や汗まで額に滲んできます。今日は私の体調を気遣ってコルセットを緩くしてくれているのに、心なしか息苦しいのです。

「奥様、本当に大丈夫ですか?」

 私の異変に気付いたエルサが足を止め、私の足も自然と止まってしまいました。

「……だ、大丈夫です。エルサが綺麗にしてくれたんですもの、それに……お食事のマナーだってエルサとアーサーさんが合格を出してくれたんですから」

「お食事する奥様のお姿はどこからどう見ても完璧な淑女ですよ。私が保証します」

 自分に言い聞かせるように紡いだ言葉を肯定してくれたエルサが、私の背をそっと撫でてくれました。

 足を止めてしまったのがいけなかったのでしょうか。手までふるえだして、それを誤魔化すように体の横で握り締めました。心を落ち着けようと思い、深呼吸をして目を閉じ、それが間違いだったと気付いたのはすぐのことです。

 まぶたの裏にお継母様の振るうむちが見えました。

「きゃっ」

 まぼろしだと分かっているのに、手のこうするどい痛みが走って小さな悲鳴が自分の口かられたのがごとのように私の耳に聞こえました。

「奥様、やはり部屋に戻って休みましょう、顔色が真っ白です」

「だ、だめですっ!」

 悲鳴交じりにさけんで私は首を横に振りました。

「おか、お継母様の言い付け、ですもの……っ、ちゃ、ちゃんと守らないと……もっと酷い目に……っ!」

 エルサが焦ったように私を呼ぶ声が遠くに聞こえます。

 その代わり私の瞼の裏には、お継母様の赤い紅を乗せた唇が緩いを描いていました。

『今夜こそ、上手に食べるのよ? スープを一てきでも零したら鞭打ちの上、当分、食事を抜きにしますからね』

 エルサの声をかき消すようにここにいるはずのないお継母様の声が聞こえてきて、それを拒むように両手で耳をふさぎました。

『本当に食べるのが下手くそねぇ。醜いことこの上ないわ』

『見ているだけで気分が悪くなりますわ。犬だってもっとマシですのに』

『お前はこんなこともできないのか、少しはマーガレットを見習え』

 耳を塞いでいるのにお継母様だけでなく、姉様やお父様の声まで聞こえてきました。瞼の裏でお父様が鞭を片手に立ち上がります。男であるお父様の鞭は、お継母様や姉様の何倍も痛いのです。

 私はちゆうで逃げ出そうとしましたが、力強い手に腕をつかまれて逃げ出すことができません。まるで深い水の底にいるように息苦しくて、体が思うように動かないのです。

「おと、お父様……お願いです、許して下さいませ……っ」

 私は、いつも一生懸命、許しをいました。それでもお父様は一度だって許してはくれませんでした。今日もニタリと笑ってお父様が鞭を振り上げました。私は歯を食いしばって痛みを待ちました。けれど、けるような焼けつく痛みは一向に訪れず、代わりに私を呼ぶ低く力強い声がしました。

「リリアーナ!」

 はっきりと私のまくひびいたその声に私の意識は現実に引き戻され、開けることのできなくなっていた瞼をゆっくりと開きました。

 目の前に旦那様のお顔がありました。その端正なお顔は心配そうにゆがんでいて、旦那様の肩の向こうではアーサーさんとフレデリックさん、他の使用人さんたちが同じような顔をしていました。反対側を見ればエルサが今にも泣き出しそうな顔をしています。

 私のことで哀しむ必要なんてこれっぽっちもないのに、なんて優しい人たちでしょうか。

 大丈夫ですよ、と伝えたいのに舌がく動きません。それどころかアーサーさんの向こうにてんじようが見えますし、自分の足に全く力が入っていないことにも気が付きました。けれど、それがどうしてなのかは分かりませんでした。

「リリアーナ、絶対に落としたりはしないから身を任せてくれ」

 旦那様がそう告げると、ふわりと私は自分の体が浮いたように感じました。背中とももに力強いぬくもりがあって、ふわりとさわやかなコロンのかおりがしました。なんだかそれだけのことに酷く安心して、もう大丈夫なのだと体の力が勝手に抜けていきます。

「大丈夫、大丈夫だ、リリアーナ」

 ささやくように震える声で告げられた言葉が、どうしてか私の心に柔らかくみ込んでいくのを、薄れていく意識の中で確かに感じました。


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