旦那様からのお誘い その②
「……その、リリアーナ」
「はい」
旦那様はなんだかとても言い
もしや私は自分でも気付かぬ内に何か無作法なことをしてしまったのでしょうか。心優しい旦那様は、それを正そうとして下さっているのかもしれません。
「旦那様、申し訳ありません」
私は立ち上がり深々と頭を下げました。旦那様が少し驚いたように身構えます。
「私、旦那様が
「は? え? ち、違う、断じて違う!」
「ですが、何やら言い辛そうにしていらっしゃいますし、難しいお顔をなさっていますし、やはり何か私が……」
「だから違う、ええっとあの、そうだ、これ! これは何に使うものか聞きたかったんだ!」
旦那様が手に取ったのはヘッドドレスです。旦那様は男性ですのでこれが何かご存じなくても無理はありません。きっと年下の私に聞くのが
「ほらな、君は何も悪いことはしていないから、
そのお言葉にほっと胸を撫で下ろして、私はソファに座り直しました。
「これはヘッドドレスと申します。エルサが使っているものはお仕事用なのでシンプルですけど、これはちょっとしたお出かけ用やおめかし用にと思って作ってみました」
このヘッドドレスはレースと布で作ったお花をあしらっていますが、それだけではなく
「そうか……この布の花も君が?」
「はい。エルサが
「子ども?」
「旦那様はお忘れかもしれませんが……奥様がこれらを作っているのは全て、当家が運営している
エルサが私の足りない言葉を補って旦那様に説明してくれました。
「旦那様は孤児院の子どもたちのことは昔からとても気にかけていらっしゃって、学生の頃も
「子どもが、好きだったんだろうか」
「精神
旦那様が頬を
今の話を聞いて私が立ち上がろうとすると、すぐにエルサが私の気持ちを
「それは?」
「孤児院の子どもたちがお礼にとくれたのです。寄付で貰ったというお菓子の箱の中に私へのプレゼントをたくさん
王都で評判のお菓子屋さんの箱は、捨てるのがもったいないくらいに綺麗です。蓋を開けると、押し花や子どもたちが
「アーサーさんがルーサーフォード家の孤児院は、他の孤児院よりもずっと子どもたちが豊かに暮らせていると教えて下さいました。このお手紙やお花を見る度にその通りなのだなぁと思います。きっと心根の優しい子どもたちなのでしょうね。旦那様のことも、時折一緒に遊んで下さったとか、
エルサたちの話以外で唯一、ほとんど知らない旦那様のことを子どもたちからのお手紙が教えてくれました。
一度、
ですが旦那様のお立場を考えれば仕方ないことです。有力貴族の若き当主で
けれど、旦那様は同時に
「リリアーナ。私と君は、教会の
「しかし、お互いのことは全くと言っていいほど知らない。その上、私は自分のことも分からなくなってしまった」
旦那様の
「焦らないで下さいませ、旦那様。モーガン先生が無理は禁物だと言っていました」
「……ありがとう。君は優しいな」
「いえ、お優しいのは旦那様です。旦那様のお蔭で私は何不自由ない暮らしができているのですから」
旦那様は、そうか、と小さく
「だ、旦那様っ?」
慌てる私を
「だが、私は夫としては失格だっただろう。君を
まるでそのことを心から
旦那様は本当にお優しい方です。私は、握られている旦那様の手にもう片方の手を重ねて、旦那様の心が少しでも軽くなればと願いました。
「旦那様、そんなにご自分を責めないで下さいませ。私が旦那様に傷付けられたことはこれまで一度だってありません。それに、思い出せなくても仕方がないことです。たった三回しか顔を合わせなかった人間のことなど、もともと記憶になくても不思議はございませんもの。ですからどうか、ご自分を責めないで下さいませ」
握り締められた手に力が込められたかと思うと旦那様は、どうしてか今にも泣き出しそうな顔になってしまいました。旦那様、とお声を掛けるとその顔を隠すように私の膝に顔を
どうしたらいいのか分からず、私はエルサを見上げました。
「そのすっからかんの頭を撫でて差し上げれば、その内復活すると思いますよ」
「でも具合が悪くなったのならモーガン先生をお呼びしたほうが……」
「いいえ、旦那様は
エルサの言葉の意味はよく分かりませんでしたが。
私は、旦那様の
それから暫く頭を撫でていたのですが、今度は
「エルサ、どうしましょう、旦那様、もしかしたら気を失っているのかもしれません。だって動かないんですもの」
あまりにも動かない旦那様に不安になって助けを求めるようにエルサを見上げます。
「そのようなことはございませんよ。……いい加減にしないとアーサー様を呼びますよ、
何か言外に別の意味合いも
私がほっと息を
「リリアーナ、今度のと言っても大分先だが、孤児院のバザーに一緒に行かないか?」
予想外の言葉に今度は私が固まってしまいました。
「私と君は、夫婦だ。死が二人を別つまで共にある関係なのだから、お互いのことをよく知るためにその機会を設けるべきだと思うのだ。だからもっと話をして、一緒に出かけたりもしたい。これから毎日、私は君と過ごすための時間を少しでも作る。だから、今度の孤児院のバザーにも一緒に行かないか?」
旦那様は冗談を言っているようには見えず、
一体全体、旦那様はどうしてしまったのでしょう。私の顔を見るのすらあんなに
ですが記憶喪失になってしまって何もかもが分からない中、お
「こうしてお話をするのはかまわないのですが……孤児院は……行けそうにありません」
私は、物心ついた時には外出は禁じられておりましたので外の世界のことは何にも知らないのです。
私は、また無意識の内に
不安や
「私と出かけるのは、嫌か?」
旦那様がおそるおそるといった様子で私に問いかけます。私は、まさか、と慌ててその言葉を否定しました。
「その、私は……両親の言い付けで、外に出たことがないのです。部屋に引きこもりっぱなしだったもので世間知らずですから、旦那様に
色んな気持ちを
孤児院の子どもたちに会ってみたい気持ちはあります。けれど、旦那様の評判に傷を付けてしまうほうが恐ろしいことですし、ご迷惑をおかけするのも嫌なのです。
「記憶喪失の私のほうが君に迷惑をかけているだろう?」
「旦那様が迷惑だなんてそんなことはありません……っ」
「そ、それに、多くの方がどんな人間かと知りたがっている侯爵夫人が私のような世間知らずのぱっとしない小娘だなんて知れたら、侯爵家の
「恥だなんてそんなことがあるわけないだろう? それにぱっとしないなんて嘘だ。君はとても美しい女性だよ?」
旦那様は心底、理解ができないというご様子で首を傾げています。
「君は体が強くないと聞いた。だからご両親も外に出さなかったのだろう? 今は充分、元気になったとモーガン医師が教えてくれた。外出禁止を言い
「で、ですが……私は……」
旦那様の眼差しから逃げるように顔を俯けました。
鳩尾に
「リリアーナ、こうなったら何が何でも孤児院のバザーに行こう」
それを拒否することは許してもらえそうになく、私はおずおずと頷くことしかできないのでした。