「モーガン先生、あの……旦那様は、やはりどこかお加減が悪いのですか?」
旦那様が記憶を失ってから早六日が経ちました。
モーガン先生はこの六日間、ずっと屋敷に滞在して下さり、旦那様の治療と経過観察を入念に行って下さっています。
幸い旦那様は記憶喪失になった以外、お体の不調はありませんでした。ですが極度の過労と診断され、一週間はベッドの上で過ごすようにと先生に厳命されてしまいました。
ゆっくり休んで頂きたいので、私は午前中に少しだけお顔を見に行きお話をするだけでしたが、旦那様はみるみるうちに回復して、ご飯もよく食べて、よく眠ったお蔭で顔色も随分と良くなり、お肌や髪にも艶が戻りました。
モーガン先生は、エルサの淹れた紅茶を飲みながら大丈夫と柔らかに首を横に振ります。
「旦那様の経過は順調ですよ。もともと、子どもの頃から風邪も引かない丈夫な方ですからね。少々、打ち身や擦り傷もありましたがもうすっかり綺麗に治っていますよ」
「そう、ですか……お元気なら良かったです」
私はほっと胸を撫で下ろしました。
「ただ記憶のほうはまだ戻る気配がありませんが……この数日間、観察した結果を踏まえて奥様にも詳細をお話しさせて頂きたく、今日はお時間を頂戴したのですよ」
そう告げるモーガン先生に私は姿勢を正します。
「奥様、記憶とは家で例えると柱のようなものです。この屋敷にも立派な柱がありますが、柱がしっかりしているからこそ嵐が来ようとも屋敷はびくともしませんでしょう」
モーガン先生は、できるだけ分かりやすい言葉を選んでゆっくりと話して下さいます。
「旦那様の場合は、その大事な柱が脆くなり傾いてしまっている状態なのです。それはとても危ない状態で、屋根や壁を支えるには心許ない。ほんの少し風が吹けば倒れてしまうやもしれません。気丈にしておられますが、やはり自分が誰か分からないというのは大変、不安なことでしょう」
「……記憶は、戻らないのですか?」
「こればかりは誰にも分かりません。記憶喪失というものは薬では治りませんからな。今夜戻るかもしれないし十年後かもしれないし、或いは一生戻らないかもしれません。戻るとしても一部だけなのか全部なのかも分かりません。旦那様の場合は、頭の打ちどころが悪かったのですが……それにしては少々、綺麗さっぱり忘れすぎているのです」
「忘れすぎ、ですか?」
言葉の真意が分からず、私は首を傾げました。
「記憶の混濁というのは、頭をぶつけたり、事故に遭ったりすると割と頻繁に起こることなのです。脳というのは繊細で、それでいて大雑把ですからね。大抵は事故前後のことや、そこから数年くらい前のことを忘れてしまうくらいなのですが……旦那様の場合は二十六年分の記憶が綺麗さっぱりなくなっています。けれど、その間に得た知識は残っていて、別に赤ん坊のように無知になったわけではない。ここが少々、異常な点なのです。それに記憶喪失というのは辛かったり、哀しかったりする記憶を消して心を保とうとする自己防衛の一種でもあるのです」
モーガン先生が困ったように眉を下げられました。
モーガン先生の言葉から察するに旦那様は、何かとても辛いことか哀しいことがあったということなのでしょうか。
いつも温和な先生の困った顔はあまり見たことがなくて、なんだか不安になってしまいスカートをぎゅうと握り締めました。すると細く温かい手がそっと私の手に重ねられ、顔を上げれば隣に腰掛けたエルサが心配そうに私の顔を覗き込んでいました。
「大丈夫ですよ、奥様。何があろうとこのエルサがお傍におりますから」
「ありがとうございます、エルサ。……申し訳ありません、先生、続きをお願いします」
モーガン先生は、エルサと同じように心配そうに私の顔を見た後、一度、紅茶で喉を潤してから口を開きました。
「ここから先の話は、私の推測でしかないことを最初に申し上げておきます。……旦那様は頭を打った際にもしかしたら、全てを忘れてしまいたいと願ったのかもしれません」
予想外の言葉に私はエルサを振り返りました。けれど、エルサはどこかもどかしげな表情を浮かべてモーガン先生を見つめていました。
「生憎、私が記憶喪失になる前の旦那様と最後にお会いしたのは、半年も前のことです。森の方に出向かれるとのことで毒蛇用の薬と虫刺されの薬を処方して簡単な診察をさせて頂いただけです。……ここ最近は、何か変わったことはありましたかな?」
「……申し訳ありません。私は旦那様のことは何も、本当に何も知らないのです。エルサ、何か心当たりはありませんか?」
エルサは、逡巡するように目を伏せ、暫くして首を横に振りました。
「最近の旦那様はほとんどこちらには戻られませんでしたのでフレデリック、或いは副師団長様か師団長専属の事務官の方々や同僚の騎士の皆様のほうが何か知っているかと」
「そうですか。憶測とはいえ、もし何かしらの原因があるのなら、やはり無理矢理記憶を取り戻そうとするのが一番いけません。旦那様にも言い聞かせましたが、無理に思い出そうとすれば心がそれを拒否して心身に何らかの影響を及ぼしかねません。ですが……ふむ……そうだ、奥様」
エルサの答えに何かを考え込むようにしていたモーガン先生が不意に顔を上げました。そこにはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいましたが、その次に紡がれた言葉はとても驚きに満ち溢れていました。
「この機会に、少しだけでも旦那様と向き合ってみませんか?」
思いがけない提案に私は暫く言葉を見つけられず、ただ茫然とモーガン先生を見つめることしかできません。
「奥様、奥様、お気を確かに」
とんとんとエルサの手が私の手に触れて、私は我を取り戻しました。
「向き合う、の、ですか」
なんとも情けない声が出てしまいました。けれど、モーガン先生は優しく頷いてくれます。
「無論、怪我などしないほうが医者としても、私個人としても望ましいですが、今回のことはもしかしたら奥様と旦那様に神様が与えたチャンスかもしれませんよ」
「チャンス……」
「ええ。……もちろん、私は奥様が嫁いで来られてからのこの一年、旦那様がどんな態度だったのかも存じておりますし、奥様のお気持ちも分かっているつもりですが……私は旦那様のことも、幼い頃からよく知っているのです。あの方は、本来は優しいお方です。ですからこの機会に旦那様と向き合ってみませんか?」
「で、ですが……」
逃げるように私は顔を俯けました。
思い出すのは、あの夜の冷たくて怖い旦那様でした。
ここ数日は毎日お会いして、短い時間ですがお話もしておりますし、元より旦那様はこんな私を妻として迎えてくれた方です。ですから、旦那様が冷たいだけの方ではないことは分かっているつもりですが、どうしてもあの夜の印象が拭えないのです。
人の怒りという感情は、とても怖いものです。それを向けられる恐ろしさは、いとも容易く私の体と心の自由を奪うのです。
「奥様、すみません。少し私が軽率でしたね」
押し黙ってしまった私にモーガン先生が謝罪を口にしたので、私は慌てて首を横に振りました。
「いえ、先生は何も悪くありません。私が臆病なのがいけないのです」
「そんなことはありません。臆病なことは決して悪いことではありませんよ。……向き合えとはもう言いません。その代わり、少しだけお互いにお話をしてみるのがいいかもしれませんよ」
「……お話ですか?」
「ええ。こうやって私やエルサと話すように、ほんの少しだけでも旦那様の本来の人となりを知ってみたら、怖くなくなりますよ」
「奥様、私もフレデリックも必ずお傍におりますから。もし、旦那様が何か酷いことを言ったら、このエルサがすぐにとっちめてやりますからね」
真剣な顔で冗談を言うエルサに、思わずふふっと笑ってしまいました。するとエルサとモーガン先生もほっと表情を緩めてくれました。
「旦那様、私とお話なんてして下さるでしょうか……」
「ゆっくりでいいのですよ。奥様の心が思うようにすればいいのです」
諭すように優しく言って下さったモーガン先生に私は、結局、小さく頷くことしかできなかったのでした。
けれど物事というものは予想できないことのほうが多いと知ったのは翌日のことでした。
旦那様が、一週間ぶりにベッドから出る許可が出た途端、何故か私の部屋を訪ねて来たのです。
今朝の旦那様は、今日こそはベッドから出る許可を貰うと息巻いていらっしゃいましたが、それ以外のことは何も言っていませんでした。ですので、昼食を終えて日課である刺繡をしているところに急にお一人でいらっしゃった旦那様には驚きを隠せませんでした。
旦那様は、慌てる私に刺繍を続けるように言うと向かいのソファに腰掛けて、それから何を言うわけでもないのですが、視線を感じるのです。エルサが部屋の隅に控えていてくれるのが唯一の救いです。
私は、来月の一日に行われる夏のバザーに向けてクッションカバーや小物入れ、ヘッドドレスやリボンに刺繍を入れていますが、見ていても面白くないと思うのです。それでも旦那様は部屋にお戻りになる様子がなく、正直、何を話したら良いのか全く分かりません。
「……旦那様、あの……お部屋で休んでいらしたほうが……」
「リリアーナは、刺繡が好きなのか?」
私の言葉はさらっと受け流されてしまい、逆に質問が返されました。
旦那様は、じっと私を見つめて答えを待っています。
「……刺繍をすると、誰かが喜んでくれるので好きなのです」
とはいっても刺繡を贈ったことがあるのは、セドリックとエルサだけです。セドリックは私が刺繡をしたハンカチやスカーフをとても喜んでくれて、私は刺?が好きになったのです。エルサの赤いリボンは不注意でシミができてしまったことを彼女がとても悔やんでいたので、小物入れをアレンジしたいからとちょっとだけ嘘をついてリボンを借り、エルサにぴったりの百合の花を刺繍したのです。出来上がったものをプレゼントしたらエルサはとても喜んでくれました。
「確かに見事な腕前だ。これを贈られたら皆、嬉しいだろうな」
テーブルの上にあったクッションカバーを手に取り、旦那様がしげしげと眺めます。
向日葵をメインに据えた夏をイメージしたデザインの刺繡は、書庫にあった刺繡のモチーフ集の中にあったものを参考にしたもので、我ながらなかなかの力作です。
そこではたと、旦那様に裁縫箱や刺繡糸を買ってもらったお礼を言っていないことを思い出し、刺繍をしていたハンカチを傍らに置いて立ち上がりました。
「あ、あのっ、旦那様」
「ん?」
「裁縫箱と刺繡糸、とても嬉しかったです。妻として何の役目も果たせていないのにこんなに素晴らしいものを買って下さって、とても感謝しております。お礼を言うのが遅くなってしまい、申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げて一気に言いきりました。噛まずつっかえず、途切れず最後まで言えたことに私の心を達成感が満たします。この一年、エルサやアーサーさんの指導の下行われた淑女教育が着実な成果を上げているのを確信しました。そうでなければ、旦那様とお話しすることがそもそもできなかったでしょう。
ですが、達成感に浸る私とは裏腹に「顔を上げてくれ」と少し焦ったような声で旦那様に言われて体を起こします。
「裁縫箱と刺繍糸くらい、お礼を言われるようなことじゃない」
旦那様が苦笑を零されました。
「そんなことありません」
私は即座に首を横に振って返しました。
「実家にいた頃は、姉様やお継母様のもの以外には、こんなに綺麗な糸を自由に使うことはできませんでしたし、裁縫箱もメイドさんのお下がりを貰ったのです。ですが旦那様はこんなに綺麗な裁縫箱を下さいました」
隣に置いた裁縫箱を振り返り繊細な花の意匠を撫でました。職人さんが丹誠込めて彫ったのでしょう柔らかな木目と色とりどりの花はとても愛らしく、貰ってから三日は使うのがもったいなくて眺めていました。蓋を開けるとまるで虹のようにずらりと並ぶ彩り鮮やかな刺繡糸に感激して、そこからまた三日、眺めていました。初めて針を刺したのは、裁縫箱を貰ってから一週間も後のことです。
「私、この綺麗な糸を眺めているだけで幸せなのです」
ずらりと並ぶ糸を撫でながら、自然と頰が緩んでしまいました。
赤色一つとっても少しずつ濃淡の違うものが十種類はあるのです。その繊細な色の違いに頭を悩ませながら刺繡をするのはとても楽しいことです。それに糸の減り具合をエルサが確認して、それとなく補充をしてくれているので色が欠けることもありません。
私はもう一度、心を込めて精一杯、感謝の気持ちを伝えました。
「旦那様、本当にありがとうございます」
「あ、ああ、いや、喜んで、もらえたのなら何よりだ」
旦那様は心なしか顔を赤くしてそっぽを向いてしまいました。
もしや無理をして熱でも出てきてしまったのでしょうか。やはり、たったの一週間では回復しきれなかったに違いありません。
「旦那様、お顔が赤いです。もしやお熱が出たのではありませんか? すぐにお部屋に戻って休みましょう」
「これは違うから大丈夫だ。まだ部屋には帰らない、もう少し君と話がしたいんだ」
妙に勢いよく旦那様が言いました。
もしかしたらモーガン先生が、旦那様にも私と話をするようにと助言して下さったのかもしれません。旦那様は誠実な方なので先生の言葉を守ろうとしているのでしょう。
「大丈夫ですよ、奥様」
いつのまに近くに来ていたのか顔を上げればエルサがいました。
「あまりにお綺麗だったのでちょっと見惚れていただけですから」
エルサがにっこりと笑って言いました。
「確かに、この糸はとても綺麗ですものね……でも、本当に大丈夫かしら」
無理が一番いけないとモーガン先生は言っていましたので私は心配でなりません。
「旦那様は殺しても死にやしませんから大丈夫ですよ。でも、奥様のお心に憂いが残るなら、今すぐにでも部屋から追い出しま」
「エルサの言う通り、私は大丈夫だ」
エルサの言葉を遮って旦那様が言いました。エルサが舌打ちをしたような気もしますが、きっと気のせいでしょう。
旦那様は、ごほんと咳払いをして居住まいを正しました。何かお話があるご様子ですので、私も背筋を正して旦那様と向き合いました。