第二章

旦那様からのお誘い その①


「モーガン先生、あの……だん様は、やはりどこかお加減が悪いのですか?」

 旦那様がおくを失ってから早六日がちました。

 モーガン先生はこの六日間、ずっとしきたいざいして下さり、旦那様のりようと経過観察を入念に行って下さっています。

 幸い旦那様は記憶そうしつになった以外、お体の不調はありませんでした。ですが極度の過労としんだんされ、一週間はベッドの上で過ごすようにと先生に厳命されてしまいました。

 ゆっくり休んで頂きたいので、私は午前中に少しだけお顔を見に行きお話をするだけでしたが、旦那様はみるみるうちに回復して、ご飯もよく食べて、よくねむったおかげで顔色もずいぶんと良くなり、おはだかみにもつやもどりました。

 モーガン先生は、エルサのれた紅茶を飲みながらだいじようやわらかに首を横にります。

「旦那様の経過は順調ですよ。もともと、子どものころからも引かないじような方ですからね。少々、打ち身やきずもありましたがもうすっかりれいに治っていますよ」

「そう、ですか……お元気なら良かったです」

 私はほっと胸をろしました。

「ただ記憶のほうはまだ戻る気配がありませんが……この数日間、観察した結果をまえておくさまにもしようさいをお話しさせて頂きたく、今日はお時間をちようだいしたのですよ」

 そう告げるモーガン先生に私は姿勢を正します。

「奥様、記憶とは家で例えると柱のようなものです。この屋敷にも立派な柱がありますが、柱がしっかりしているからこそあらしが来ようとも屋敷はびくともしませんでしょう」

 モーガン先生は、できるだけ分かりやすい言葉を選んでゆっくりと話して下さいます。

「旦那様の場合は、その大事な柱がもろくなりかたむいてしまっている状態なのです。それはとても危ない状態で、屋根やかべを支えるにはこころもとない。ほんの少し風がけばたおれてしまうやもしれません。じようにしておられますが、やはり自分がだれか分からないというのは大変、不安なことでしょう」

「……記憶は、戻らないのですか?」

「こればかりは誰にも分かりません。記憶喪失というものは薬では治りませんからな。今夜戻るかもしれないし十年後かもしれないし、あるいは一生戻らないかもしれません。戻るとしても一部だけなのか全部なのかも分かりません。旦那様の場合は、頭の打ちどころが悪かったのですが……それにしては少々、綺麗さっぱり忘れすぎているのです」

「忘れすぎ、ですか?」

 言葉の真意が分からず、私は首をかしげました。

「記憶のこんだくというのは、頭をぶつけたり、事故にったりすると割とひんぱんに起こることなのです。脳というのはせんさいで、それでいておおざつですからね。たいていは事故前後のことや、そこから数年くらい前のことを忘れてしまうくらいなのですが……旦那様の場合は二十六年分の記憶が綺麗さっぱりなくなっています。けれど、その間に得た知識は残っていて、別に赤んぼうのように無知になったわけではない。ここが少々、異常な点なのです。それに記憶喪失というのはつらかったり、かなしかったりする記憶を消して心を保とうとする自己防衛の一種でもあるのです」

 モーガン先生が困ったようにまゆを下げられました。

 モーガン先生の言葉から察するに旦那様は、何かとても辛いことか哀しいことがあったということなのでしょうか。

 いつも温和な先生の困った顔はあまり見たことがなくて、なんだか不安になってしまいスカートをぎゅうとにぎめました。すると細く温かい手がそっと私の手に重ねられ、顔を上げればとなりこしけたエルサが心配そうに私の顔をのぞき込んでいました。

「大丈夫ですよ、奥様。何があろうとこのエルサがおそばにおりますから」

「ありがとうございます、エルサ。……申し訳ありません、先生、続きをお願いします」

 モーガン先生は、エルサと同じように心配そうに私の顔を見た後、一度、紅茶でのどうるおしてから口を開きました。

「ここから先の話は、私の推測でしかないことを最初に申し上げておきます。……旦那様は頭を打った際にもしかしたら、全てを忘れてしまいたいと願ったのかもしれません」

 予想外の言葉に私はエルサを振り返りました。けれど、エルサはどこかもどかしげな表情をかべてモーガン先生を見つめていました。

生憎あいにく、私が記憶喪失になる前の旦那様と最後にお会いしたのは、半年も前のことです。森の方に出向かれるとのことでどくじや用の薬と虫されの薬を処方して簡単なしんさつをさせて頂いただけです。……ここ最近は、何か変わったことはありましたかな?」

「……申し訳ありません。私は旦那様のことは何も、本当に何も知らないのです。エルサ、何か心当たりはありませんか?」

 エルサは、しゆんじゆんするように目をせ、しばらくして首を横に振りました。

「最近の旦那様はほとんどこちらには戻られませんでしたのでフレデリック、或いは副師団長様か師団長専属の事務官の方々やどうりようみなさまのほうが何か知っているかと」

「そうですか。おくそくとはいえ、もし何かしらの原因があるのなら、やはり無理矢理記憶を取り戻そうとするのが一番いけません。旦那様にも言い聞かせましたが、無理に思い出そうとすれば心がそれをきよして心身に何らかのえいきようおよぼしかねません。ですが……ふむ……そうだ、奥様」

 エルサの答えに何かを考え込むようにしていたモーガン先生が不意に顔を上げました。そこにはいつものおだやかなみが浮かんでいましたが、その次につむがれた言葉はとてもおどろきにあふれていました。

「この機会に、少しだけでも旦那様と向き合ってみませんか?」

 思いがけない提案に私は暫く言葉を見つけられず、ただぼうぜんとモーガン先生を見つめることしかできません。

「奥様、奥様、お気を確かに」

 とんとんとエルサの手が私の手にれて、私は我を取り戻しました。

「向き合う、の、ですか」

 なんとも情けない声が出てしまいました。けれど、モーガン先生はやさしくうなずいてくれます。

「無論、などしないほうが医者としても、私個人としても望ましいですが、今回のことはもしかしたら奥様と旦那様に神様があたえたチャンスかもしれませんよ」

「チャンス……」

「ええ。……もちろん、私は奥様がとついで来られてからのこの一年、旦那様がどんな態度だったのかも存じておりますし、奥様のお気持ちも分かっているつもりですが……私は旦那様のことも、幼いころからよく知っているのです。あの方は、本来は優しいお方です。ですからこの機会に旦那様と向き合ってみませんか?」

「で、ですが……」

 げるように私は顔をうつむけました。

 思い出すのは、あの夜の冷たくてこわい旦那様でした。

 ここ数日は毎日お会いして、短い時間ですがお話もしておりますし、元より旦那様はこんな私を妻としてむかえてくれた方です。ですから、旦那様が冷たいだけの方ではないことは分かっているつもりですが、どうしてもあの夜の印象がぬぐえないのです。

 人のいかりという感情は、とても怖いものです。それを向けられるおそろしさは、いとも容易たやすく私の体と心の自由をうばうのです。

「奥様、すみません。少し私がけいそつでしたね」

 だまってしまった私にモーガン先生が謝罪を口にしたので、私はあわてて首を横に振りました。

「いえ、先生は何も悪くありません。私がおくびようなのがいけないのです」

「そんなことはありません。臆病なことは決して悪いことではありませんよ。……向き合えとはもう言いません。その代わり、少しだけおたがいにお話をしてみるのがいいかもしれませんよ」

「……お話ですか?」

「ええ。こうやって私やエルサと話すように、ほんの少しだけでも旦那様の本来の人となりを知ってみたら、怖くなくなりますよ」

「奥様、私もフレデリックも必ずお傍におりますから。もし、旦那様が何かひどいことを言ったら、このエルサがすぐにとっちめてやりますからね」

 しんけんな顔でじようだんを言うエルサに、思わずふふっと笑ってしまいました。するとエルサとモーガン先生もほっと表情をゆるめてくれました。

「旦那様、私とお話なんてして下さるでしょうか……」

「ゆっくりでいいのですよ。奥様の心が思うようにすればいいのです」

 さとすように優しく言って下さったモーガン先生に私は、結局、小さく頷くことしかできなかったのでした。


 けれど物事というものは予想できないことのほうが多いと知ったのは翌日のことでした。

 旦那様が、一週間ぶりにベッドから出る許可が出たたんか私の部屋を訪ねて来たのです。

 今朝の旦那様は、今日こそはベッドから出る許可をもらうと息巻いていらっしゃいましたが、それ以外のことは何も言っていませんでした。ですので、昼食を終えて日課であるしゆうをしているところに急にお一人でいらっしゃった旦那様には驚きをかくせませんでした。

 旦那様は、慌てる私に刺繍を続けるように言うと向かいのソファに腰掛けて、それから何を言うわけでもないのですが、視線を感じるのです。エルサが部屋のすみひかえていてくれるのがゆいいつの救いです。

 私は、来月の一日に行われる夏のバザーに向けてクッションカバーや小物入れ、ヘッドドレスやリボンに刺繍を入れていますが、見ていてもおもしろくないと思うのです。それでも旦那様は部屋にお戻りになる様子がなく、正直、何を話したら良いのか全く分かりません。

「……旦那様、あの……お部屋で休んでいらしたほうが……」

「リリアーナは、刺繡が好きなのか?」

 私の言葉はさらっと受け流されてしまい、逆に質問が返されました。

 旦那様は、じっと私を見つめて答えを待っています。

「……刺繍をすると、誰かが喜んでくれるので好きなのです」

 とはいっても刺繡をおくったことがあるのは、セドリックとエルサだけです。セドリックは私が刺繡をしたハンカチやスカーフをとても喜んでくれて、私は刺?が好きになったのです。エルサの赤いリボンは不注意でシミができてしまったことをかのじよがとてもやんでいたので、小物入れをアレンジしたいからとちょっとだけうそをついてリボンを借り、エルサにぴったりのの花を刺繍したのです。出来上がったものをプレゼントしたらエルサはとても喜んでくれました。

「確かに見事なうでまえだ。これを贈られたら皆、うれしいだろうな」

 テーブルの上にあったクッションカバーを手に取り、旦那様がしげしげとながめます。

 向日葵ひまわりをメインにえた夏をイメージしたデザインの刺繡は、書庫にあった刺繡のモチーフ集の中にあったものを参考にしたもので、我ながらなかなかの力作です。

 そこではたと、旦那様にさいほうばこや刺繡糸を買ってもらったお礼を言っていないことを思い出し、刺繍をしていたハンカチをかたわらに置いて立ち上がりました。

「あ、あのっ、旦那様」

「ん?」

「裁縫箱と刺繡糸、とても嬉しかったです。妻として何の役目も果たせていないのにこんなにらしいものを買って下さって、とても感謝しております。お礼を言うのがおそくなってしまい、申し訳ありません」

 ぺこりと頭を下げて一気に言いきりました。まずつっかえず、れず最後まで言えたことに私の心を達成感が満たします。この一年、エルサやアーサーさんの指導の下行われたしゆくじよ教育が着実な成果を上げているのを確信しました。そうでなければ、旦那様とお話しすることがそもそもできなかったでしょう。

 ですが、達成感にひたる私とは裏腹に「顔を上げてくれ」と少しあせったような声で旦那様に言われて体を起こします。

「裁縫箱と刺繍糸くらい、お礼を言われるようなことじゃない」

 旦那様がしようこぼされました。

「そんなことありません」

 私はそくに首を横に振って返しました。

「実家にいた頃は、姉様やおさまのもの以外には、こんなに綺麗な糸を自由に使うことはできませんでしたし、裁縫箱もメイドさんのお下がりを貰ったのです。ですが旦那様はこんなに綺麗な裁縫箱を下さいました」

 隣に置いた裁縫箱を振り返り繊細な花のしようを撫でました。職人さんがたんせいめてったのでしょう柔らかな木目と色とりどりの花はとても愛らしく、貰ってから三日は使うのがもったいなくて眺めていました。ふたを開けるとまるでにじのようにずらりと並ぶいろどあざやかな刺繡糸に感激して、そこからまた三日、眺めていました。初めて針を刺したのは、裁縫箱を貰ってから一週間も後のことです。

「私、この綺麗な糸を眺めているだけで幸せなのです」

 ずらりと並ぶ糸を撫でながら、自然とほおが緩んでしまいました。

 赤色一つとっても少しずつのうたんちがうものが十種類はあるのです。その繊細な色の違いに頭をなやませながら刺繡をするのはとても楽しいことです。それに糸の減り具合をエルサがかくにんして、それとなくじゆうをしてくれているので色が欠けることもありません。

 私はもう一度、心を込めてせいいつぱい、感謝の気持ちを伝えました。

「旦那様、本当にありがとうございます」

「あ、ああ、いや、喜んで、もらえたのなら何よりだ」

 旦那様は心なしか顔を赤くしてそっぽを向いてしまいました。

 もしや無理をして熱でも出てきてしまったのでしょうか。やはり、たったの一週間では回復しきれなかったに違いありません。

「旦那様、お顔が赤いです。もしやお熱が出たのではありませんか? すぐにお部屋に戻って休みましょう」

「これは違うから大丈夫だ。まだ部屋には帰らない、もう少し君と話がしたいんだ」

 みように勢いよく旦那様が言いました。

 もしかしたらモーガン先生が、旦那様にも私と話をするようにと助言して下さったのかもしれません。旦那様は誠実な方なので先生の言葉を守ろうとしているのでしょう。

「大丈夫ですよ、奥様」

 いつのまに近くに来ていたのか顔を上げればエルサがいました。

「あまりにお綺麗だったのでちょっとれていただけですから」

 エルサがにっこりと笑って言いました。

「確かに、この糸はとても綺麗ですものね……でも、本当に大丈夫かしら」

 無理が一番いけないとモーガン先生は言っていましたので私は心配でなりません。

「旦那様は殺しても死にやしませんから大丈夫ですよ。でも、奥様のお心にうれいが残るなら、今すぐにでも部屋から追い出しま」

「エルサの言う通り、私は大丈夫だ」

 エルサの言葉をさえぎって旦那様が言いました。エルサが舌打ちをしたような気もしますが、きっと気のせいでしょう。

 旦那様は、ごほんとせきばらいをして居住まいを正しました。何かお話があるご様子ですので、私も背筋を正して旦那様と向き合いました。


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