第一章

まさかの記憶喪失 その②

 フレデリックさんを先頭にエルサと一緒に旦那様の寝室に向かいました。中へ入りベッドへと歩み寄って、たおれそうになるのをエルサに支えられながら私はぐっとえました。

「……貴女あなたは、だれですか?」

 頭に白い包帯を巻いた旦那様は、私の顔を見て申し訳なさそうにそう言いました。

「旦那様、いくら何でも酷すぎます。だんから奥様をほったらかしにしている上に、そんな……っ!」

 エルサが声をあららげるとあわてたフレデリックさんが彼女の口を手でふさぎました。

 私たちは答えを求めてベッドのそばに控えていた家令のアーサーさんに顔を向けました。

 ロマンスグレーの髪を後ろにで付け、きっちりとえんふくを着こなすアーサーさんは、普段の冷静な彼らしくなく、エルサと同じこんいろの瞳に困惑をにじませています。瞳の色が同じなのはアーサーさんとエルサが親子だからです。

「どうやら旦那様は、頭の打ちどころが悪く、おくを失われてしまったようなのです。奥様のことはおろか、ご自分のこともご家族のことも、ご友人のことも私共使用人のことも覚えていないようなのです」

 予想していなかった事態に私もエルサも声も出ませんでした。

「フレデリック、モーガン様を呼んであるから、下で迎えてすぐにお連れするように」

「はい。……エルサ、発言には気を付けるように」

 フレデリックさんは、エルサにしっかりくぎしてから侯爵家お抱え医師のモーガン先生をお迎えに部屋を出て行きました。

 私は改めて旦那様に向き直ります。久しぶりに見た旦那様は、なんだか酷くおつかれのご様子で目の下にくまがありますし、心なしか少しやつれたようにも見えました。

 けれど、あの冷たい表情はそこにはなくて困り果てた顔をしていました。いつもはちょっとこわいと思ってしまっていたのですが、今日の旦那様はセドリックと同じ小さな子どものように見えます。自分が誰か分からず、周りの人間のことも分からない今の旦那様の心境を思えば、どれほど心細いことでしょうか。

 私は、こっそりと深呼吸をかえしてから意を決して旦那様に声をけました。

「だ、だいじようですよ。旦那様」

 そう言ってから、何を言っているのでしょうか、と泣きたくなりました。

 大丈夫じゃないからこんなことになっているのです。もっと他に気の利いた言葉をと頭をなやませていると、無意識にスカートを握っていた手が温かいものに包まれました。驚いて見れば、そこには旦那様の手に包まれた私の手があります。

 旦那様の手が私の手を握っている、というありえない事実に私は固まってしまいました。

「貴女のようなうるわしい女性が私の妻だとは、本当ですか?」

「ひえっ」

 淑女にあるまじき変な声が出てしまいました。普段なら「奥様」とやんわりとたしなめてくれるアーサーさんもぽかんと口を開けて旦那様を見ています。

 固まる私をに旦那様は、私の手のこうれるだけの口づけを落としました。

「どうか貴女の名前を教えて頂けませんか?」

 私はどうしてよいか分からず、助けを求めてエルサを振り返りました。エルサは、すぐに「大丈夫ですよ」と私の背を撫でてくれました。その手に勇気をもらい、スカートをまみ、腰を折り、淑女に見えるようにせいいつぱい上品に頭を下げました。

「リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィン=ルーサーフォードと申します」

 まずに言えて良かったとあんして体を起こすと再び旦那様に手を取られました。

「リリアーナ」

 結婚して初めて私は旦那様に名前を呼ばれました。

 その上、手まで握られて、ぐいっと引っ張られたかと思えば、どういうわけか旦那様の隣に腰掛けておりました。

「だ、旦那様……?」

 一体、何が起こっているのか全く分かりません。エルサもアーサーさんも助けてくれる気配がありません。

「リリアーナ、私は妻である貴女のことも忘れてしまったはくじような夫ですが、見限らずにいて下さいますか?」

 ぐいっとかたを抱かれて、下から覗き込むようにして旦那様がおっしゃいました。

 空と同じ鮮やかな青の瞳に顔を真っ赤にした私が映り込んでいるのを見つけて、ますますいたたまれなくなり、げるように顔をうつむけて、自分を落ち着かせるためにそっと息を吐き出しました。

「私が、旦那様を見限るなんてことはありません」

 その逆のことはこれから先、起こりうる可能性は充分にありますが、お飾りでしかない妻に何一つ不自由のない生活をさせて下さる心優しい旦那様を私が見限るなんてことだけは絶対にありえません。

「貴女はなんと心優しい人だろう。ありがとう、リリアーナ。その言葉だけで私の心細さはどこかへと行ってしまったよ」

 旦那様がふっと微笑ほほえまれました。その言葉通り、旦那様の目には隠しきれなかった安堵が滲んでいるのを見つけてしまいました。


 もしも、私が旦那様の立場だったらと考えて胸が苦しくなりました。自分がどこの誰かも分からず、声を掛けてくる全ての人が記憶にない。見知らぬ部屋で見知らぬ人に囲まれる。それはどれほど恐ろしいことでしょうか。そんな中で「妻」という使用人とも友人とも違う肩書を持つ人間にすがりたくなるのは当然なのかもしれません。

 こんなたよりがいのない妻で申し訳ない気持ちもありますが、普段の恩を返すためにも私は旦那様にできる限り、安心して下さいという意味を込めて微笑みかけました。

貴方あなたのお心をほぐすことができたのならば、何よりでございます。至らぬ点ばかりの妻ですが、私はお傍におりますので何なりとお申し付け下さいね」

「……ありがとう、リリアーナ」

 旦那様は嬉しそうに笑って下さいました。

 そして、旦那様がもう一度口を開こうとした時、コンコンとノックの音がしてフレデリックさんが主治医のモーガン先生を連れて来てくれました。

 モーガン先生は、アーサーさんと同い年くらいのおじ様です。白髪しらが交じりのとびいろの髪と口ひげ、丸い眼鏡がトレードマークでいつも優しくにこにこしているのです。私が食事もできず、口もきけず、熱を出してはんでいたころにとってもお世話になりました。

「旦那様、こちらは旦那様がお生まれになる以前から当家の主治医として尽くして下さっているモーガン様でございます」

 フレデリックの紹介を聞いた旦那様は、じっとモーガン先生を見て何か記憶に引っ掛かるところはないかとさぐっていたようですが、すぐに残念そうにため息をこぼされました。

「すまない、殿でんのことも分からない……」

「いえいえ、無理に思い出そうとしてはいけません。頭というのはとてもせんさいにできていますからね。……それにしてもいつの間にやら奥様と仲良くなられたのですね」

 旦那様と手をつなぎ、うようにすわっている私に気付いて、モーガン先生は顔をほころばせました。

「ち、違うのです……これはっ」

 ずかしくなって慌てて立ち上がろうとするのですが、旦那様がそれを許してくれません。力強いうでに肩を抱かれてしまい、ますます旦那様と密着してしまいました。騎士らしい筋肉におおわれた旦那様の体はとてもがっしりとしています。

「傍にいてくれ、リリアーナ」

 耳元でとろけるように甘く低い声でささやかれ、私はびっくりしすぎて腰がけてしまい旦那様に寄り掛かるような格好になってしまいました。そして私の顔は隠しようもないくらいに赤く染まっているに違いありませんでした。

 モーガン先生は、そんな私に顔を綻ばせると「仲がよろしくて何より」と言って、かばんをフレデリックさんに預けて中からちようしんを取り出しました。

 旦那様がのボタンを外しましたので、私は慌てて視線をあらぬ方へ向けました。その先にいたエルサがニヤニヤしていましたので今度は顔を俯けました。

「ふむ、お体のほうは問題なさそうですな。それでは旦那様、頭を打ったとのことですので、少し別の検査をしますよ」

 そう言ってモーガン先生は、旦那様に指を見せて本数を答えてもらったり、ろうそくの光を左右に動かして眼球の動きを確かめたり、他にも様々な質問をなさいました。

 だんだんと分かってきたのは旦那様には、王国や侯爵家の歴史、地理に関すること、文字の読み書き、馬の乗り方といった日常生活を送る上で必要な知識は何一つ欠けていませんでした。人に関する記憶だけがごっそりとちてしまっているのです。

「旦那様は足をすべらせて転んだのですよね?」

 モーガン先生がフレデリックさんにたずねます。

「雨天を想定した訓練を騎士団のしき内にある屋外訓練場で行っていたのですが、こうげきけた折、雨にぬかるんだ地面に足を取られ、転んだ先にあった石に頭を強打したのです。気絶した旦那様はすぐに医務室にかつぎ込まれました。三十分ほどして目が覚めたのですが、私を見るなり「誰だ」とおっしゃいまして、これは一大事だとすぐに屋敷に。幸いその場には私と団長閣下と副師団長しかおらず、他の者には知られておりません」

 振り返って見ると確かに旦那様の頭には白い包帯が痛々しく巻かれています。

「あまり見ないでくれ、リリアーナ」

 旦那様はそう言って、そっぽを向いてしまいました。

「も、申し訳ありません、しつけでした……っ」

 私は慌てて視線を自分のひざに移しました。

「ち、違うよ、リリアーナ。君を責めたわけではない」

「いえ、私が失礼をいたしました。お許し下さいませ」

 旦那様に怒られるのは、綺麗なお顔や大きなお体と相まってはくりよくがありますので恐ろしいです。私は身を小さくして、もう一度許しをいました。するとどうしたことか、いきなりぐいっと強い力で肩をより一層抱き寄せられて、気が付いた時には旦那様の腕の中におりました。旦那様のものと思われる青々とした木々のようなさわやかなコロンのかおりが鼻先をかすめていきます。

 ぽんぽんとまるで幼子にするように旦那様の大きな手が、私の背中を撫でて下さいます。

「すまない、言葉が足りなかったな。君を忘れた理由が転んで頭を打ったからだなんて恥ずかしすぎるだけだ」

「お、怒っておられないのですか?」

「怒ってなどいない。だから、そうおびえないでくれ、大丈夫だから」

 よしよしと大きな手が私の頭を撫でて下さいます。大きな手はとても温かく、優しいです。私は怒られたわけではないと知って、ほっと息を吐き出しました。旦那様の腕の中は力強く、そして温かい場所でした。

 ですが、そう自覚したたん、抱き締められているという事実にも気が付いて、慌てて体をはなそうとしますが、いくらその厚い胸をしても旦那様はびくともしません。

 そしてやっぱり誰も助けてくれません。か、エルサもフレデリックさんもアーサーさんもモーガン先生も、みなが私と旦那様を見てニヤニヤしているような気がするのです。

「だ、旦那様、放して下さいませ」

いやだ。君は私の妻だろう?」

「そ、それは、そうなのですが……っ」

 私は極限まで自分の顔が赤くなっているのが分かりました。

「私は君のここよい温もりさえも忘れてしまったのか」

 私はびっくりしすぎて変な声が出そうになり慌てて旦那様の胸に顔を押し付けました。

「お言葉ですが旦那様」

 エルサの冷たい声が後ろから聞こえてきました。

「旦那様は奥様のお名前しか知らないはずでございます」

 エルサの言葉の意味が分からずに旦那様が首をかしげたのが分かりました。

「結婚してからこの一年、旦那様は仕事仕事で奥様と夜を共にしたことは一度もございません。結婚した日ですら、式の直後、騎士団の制服に着替えてそのまま出勤なさいました」

「まさか……だってろうパーティーがあるだろう?」

 旦那様の声は信じられないと言わんばかりです。

 その問いに答えたのは、エルサではなくアーサーさんです。

「ほとんどの貴族の皆様が領地に戻られてしまっている季節だったこともあり旦那様はする意味がないとおっしゃったので行っておりません。結婚式自体も私とフレデリック、エルサ、副師団長殿どのしか出席しておりません」

 副師団長様は、旦那様の親友であり、なんとクレアシオン王国の王太子殿でんなのですが結婚式ではヴェールも下ろされたままでしたし、極度のきんちようさいなまれていたのでお姿は覚えていないのです。

 旦那様は、しようげきのあまりに声も出ないといったご様子でした。

「ですので、奥様を返して下さいませ」

 言うが早いか、私は気が付くとエルサの腕の中におりました。

「エ、エルサ?」

「奥様、フレデリックが失礼いたします」

 何故かフレデリックさんに耳を塞がれてしまいました。

 そして、エルサは旦那様に向けてにっこりと綺麗に笑いました。口がぱくぱく動いているので何かを言っているようです。

「……以上ですわ、旦那様」

 フレデリックさんの手が外された後に聞き取れたのはそれだけでした。

 振り返ると旦那様は、この世の終わりみたいな顔で項垂うなだれています。一体、エルサに何を言われたのかと声を掛けようとしたのですが、それははばまれてしまいました。

「さあ、奥様。旦那様はこれからもっと精密な検査がありますので、一度、私とお部屋に戻りましょうね」

「で、でも旦那様が……」

「ああ、奥様はなんとお優しい! でも良いのです、旦那様は少々、過去のご自分と対話しているだけでございます。それに頭を打っているのですからこれ以上鹿……ではなく、これ以上、困ったことにならないようにモーガン先生にて頂かないといけません。ですので、じやにならないようにお部屋に戻りましょう」

 私は、エルサの言葉になおうなずき、旦那様に向き直りました。

「旦那様、モーガン先生はとてもらしいお医者様です。ですから、不安なことがありましたら、すぐに先生に相談するのが一番です」

 ああ、と力なく頷く旦那様は、お可哀想かわいそうに顔色があまりよろしくありません。

「モーガン先生、旦那様をどうかよろしくお願いいたします」

 私はモーガン先生に深々と頭を下げました。

「奥様。旦那様のことは私にお任せ下さい」

「落ち着いたらフレデリックがご報告に参りますので、それまではお部屋で心を休めていて下さい」

 モーガン先生の優しいお言葉とアーサーさんのこころづかいに感謝を述べて、私は旦那様に頭を下げてからエルサと共に旦那様の寝室を後にしました。



「お言葉ですが旦那様」

 私は顔を上げて侍女を見る。

「旦那様は奥様のお名前しか知らないはずでございます」

 その言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。すると侍女は、形の良いまゆかいそうに寄せて口を開いた。

「結婚してからこの一年、旦那様は仕事仕事で奥様と夜を共にしたことは一度もございません。結婚した日ですら、式の直後、騎士団の制服に着替えてそのまま出勤なさいました」

「まさか……だって披露パーティーがあるだろう?」

 侍女の言葉が信じられず、私はそう問いを重ねた。

 私の問いに答えてくれたのは、侍女ではなく初老の執事だったが先ほどまでとは打って変わって、冷たいまなしで披露パーティーをしなかった理由を教えてくれた。

 彼のつむぐ言葉が信じられず、けれど先ほどのかんの正体に気付く。

 夫にあいさつするだけだというのにリリアーナは何故か怯えていたのだ。

 いや違う。リリアーナはずっと怯えている。普段から仲の良いふうだったらあんなふうに怯えることはないだろう。

「ですので、奥様を返して下さいませ」

 気付いてしまった事実に私が固まっている間にリリアーナは、侍女の腕の中にうばわれる。

「エ、エルサ?」

「奥様、フレデリックが失礼いたします」

 にっこりと笑った侍女はフレデリックというらしい若い執事にリリアーナの耳を塞がせると私に顔を向けて、ごくじようとも言える美しいみを浮かべた。

「女嫌いで有名な旦那様は、ご自分の都合だけで奥様と結婚したのです。そして、この一年、貴方はご自分でめとったくせに妻がいるのが嫌だと屋敷にほとんど帰ってこなかった。初夜だって、奥様と少し話をしてすぐにお仕事に戻られたのです。奥様がこの一年、どれほど心細い思いをしていたかも知らず、自分の身勝手さをかえりみもせず屋敷に閉じ込めておいたくせに記憶がなくなってから奥様のりよくに気付くなんておそすぎです。ふざけんのもいい加減にしろよ、節操なしのくそろうが」

 私はぱくぱくとあえぐようにくちびるふるわせた。

 けれど侍女の口は止まらないし、止めるべき執事二人は聞こえないふりをしている。

「奥様を泣かせたら屋敷から追い出されるのは、あ・な・た、ですからね。そのどうしようもない脳みそにしっかり刻み込んでおいて下さいませ……以上ですわ、旦那様」

 フレデリックの手が外れてリリアーナが振り返ったが私は自分が信じられずに項垂れた。

 侍女の言葉が本当ならば、私はちがいなく最低な夫だった。リリアーナが心配してくれていることはむしせきだ。

 彼女の言葉からは、心からこんな夫を案じてくれているのが伝わってきて、私はますます罪悪感に押し潰されそうになった。

 妻の細い背がドアの向こうに消えて、部屋の中がちんもくに包まれる。それを破るように私はいちの望みをかけて「すまないが……」と初老の執事に声を掛ける。

「はい。いかがなさいました」

「あの侍女の言葉は、本当か……?」

「ええ、エルサの言葉は全て本当ですし、私の言葉も本当です。旦那様は奥様と結婚されてからのこの一年、誰に何を言われても奥様をずっと放置して、ろくに言葉をわしたことさえもありません」

 この見るからに冷静で厳格そうな執事も怒っているのだと、言葉のはしばしからひしひしと伝わってきた。

「……彼女は……リリアーナは私を嫌っているのだろうか?」

 あきれるほど弱々しい声の問いかけの返事は、ではなく否だった。

「いえ。奥様は怯えてはいらっしゃいますが、旦那様を嫌ってもにくんでも疎んでもおりませんよ。心優しい奥様は、何不自由ない暮らしをさせてもらっているといつも旦那様に感謝していらっしゃいます。ただ、奥様が旦那様を男性として好ましく思っているかいなかと聞かれるのなら、それは否でございますが」

 その言葉に私は失意の下、とんに倒れ込んだ。

 執事の言葉通り、リリアーナはこの部屋の中に入ってきたしゆんかんから出て行くその時まで、確かにずっと私の身を案じてくれていた。だが、それはある意味彼女にとっては義務なのだ。会うことがなくともせき上は夫なのだから心配の一つ二つしてくれるのは当たり前と言えば当たり前のことだった。私を好きか嫌いかなんて、そもそも彼女の中にそのせんたくが存在していないのだ。

 その事実に頭を抱えた私に、執事二人と医師から三人分のため息が零されたのだった。

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