まさかの記憶喪失 その②
フレデリックさんを先頭にエルサと一緒に旦那様の寝室に向かいました。中へ入りベッドへと歩み寄って、
「……
頭に白い包帯を巻いた旦那様は、私の顔を見て申し訳なさそうにそう言いました。
「旦那様、いくら何でも酷すぎます。
エルサが声を
私たちは答えを求めてベッドの
ロマンスグレーの髪を後ろに
「どうやら旦那様は、頭の打ちどころが悪く、
予想していなかった事態に私もエルサも声も出ませんでした。
「フレデリック、モーガン様を呼んであるから、下で迎えてすぐにお連れするように」
「はい。……エルサ、発言には気を付けるように」
フレデリックさんは、エルサにしっかり
私は改めて旦那様に向き直ります。久しぶりに見た旦那様は、なんだか酷くお
けれど、あの冷たい表情はそこにはなくて困り果てた顔をしていました。いつもはちょっと
私は、こっそりと深呼吸を
「だ、
そう言ってから、何を言っているのでしょうか、と泣きたくなりました。
大丈夫じゃないからこんなことになっているのです。もっと他に気の利いた言葉をと頭を
旦那様の手が私の手を握っている、というありえない事実に私は固まってしまいました。
「貴女のような
「ひえっ」
淑女にあるまじき変な声が出てしまいました。普段なら「奥様」とやんわりと
固まる私を
「どうか貴女の名前を教えて頂けませんか?」
私はどうしてよいか分からず、助けを求めてエルサを振り返りました。エルサは、すぐに「大丈夫ですよ」と私の背を撫でてくれました。その手に勇気を
「リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィン=ルーサーフォードと申します」
「リリアーナ」
結婚して初めて私は旦那様に名前を呼ばれました。
その上、手まで握られて、ぐいっと引っ張られたかと思えば、どういうわけか旦那様の隣に腰掛けておりました。
「だ、旦那様……?」
一体、何が起こっているのか全く分かりません。エルサもアーサーさんも助けてくれる気配がありません。
「リリアーナ、私は妻である貴女のことも忘れてしまった
ぐいっと
空と同じ鮮やかな青の瞳に顔を真っ赤にした私が映り込んでいるのを見つけて、ますますいたたまれなくなり、
「私が、旦那様を見限るなんてことはありません」
その逆のことはこれから先、起こりうる可能性は充分にありますが、お飾りでしかない妻に何一つ不自由のない生活をさせて下さる心優しい旦那様を私が見限るなんてことだけは絶対にありえません。
「貴女はなんと心優しい人だろう。ありがとう、リリアーナ。その言葉だけで私の心細さはどこかへと行ってしまったよ」
旦那様がふっと
もしも、私が旦那様の立場だったらと考えて胸が苦しくなりました。自分がどこの誰かも分からず、声を掛けてくる全ての人が記憶にない。見知らぬ部屋で見知らぬ人に囲まれる。それはどれほど恐ろしいことでしょうか。そんな中で「妻」という使用人とも友人とも違う肩書を持つ人間に
こんな
「
「……ありがとう、リリアーナ」
旦那様は嬉しそうに笑って下さいました。
そして、旦那様がもう一度口を開こうとした時、コンコンとノックの音がしてフレデリックさんが主治医のモーガン先生を連れて来てくれました。
モーガン先生は、アーサーさんと同い年くらいのおじ様です。
「旦那様、こちらは旦那様がお生まれになる以前から当家の主治医として尽くして下さっているモーガン様でございます」
フレデリックの紹介を聞いた旦那様は、じっとモーガン先生を見て何か記憶に引っ掛かるところはないかと
「すまない、
「いえいえ、無理に思い出そうとしてはいけません。頭というのはとても
旦那様と手を
「ち、違うのです……これはっ」
「傍にいてくれ、リリアーナ」
耳元で
モーガン先生は、そんな私に顔を綻ばせると「仲がよろしくて何より」と言って、
旦那様が
「ふむ、お体のほうは問題なさそうですな。それでは旦那様、頭を打ったとのことですので、少し別の検査をしますよ」
そう言ってモーガン先生は、旦那様に指を見せて本数を答えてもらったり、
だんだんと分かってきたのは旦那様には、王国や侯爵家の歴史、地理に関すること、文字の読み書き、馬の乗り方といった日常生活を送る上で必要な知識は何一つ欠けていませんでした。人に関する記憶だけがごっそりと
「旦那様は足を
モーガン先生がフレデリックさんに
「雨天を想定した訓練を騎士団の
振り返って見ると確かに旦那様の頭には白い包帯が痛々しく巻かれています。
「あまり見ないでくれ、リリアーナ」
旦那様はそう言って、そっぽを向いてしまいました。
「も、申し訳ありません、
私は慌てて視線を自分の
「ち、違うよ、リリアーナ。君を責めたわけではない」
「いえ、私が失礼をいたしました。お許し下さいませ」
旦那様に怒られるのは、綺麗なお顔や大きなお体と相まって
ぽんぽんとまるで幼子にするように旦那様の大きな手が、私の背中を撫でて下さいます。
「すまない、言葉が足りなかったな。君を忘れた理由が転んで頭を打ったからだなんて恥ずかしすぎるだけだ」
「お、怒っておられないのですか?」
「怒ってなどいない。だから、そう
よしよしと大きな手が私の頭を撫でて下さいます。大きな手はとても温かく、優しいです。私は怒られたわけではないと知って、ほっと息を吐き出しました。旦那様の腕の中は力強く、そして温かい場所でした。
ですが、そう自覚した
そしてやっぱり誰も助けてくれません。
「だ、旦那様、放して下さいませ」
「
「そ、それは、そうなのですが……っ」
私は極限まで自分の顔が赤くなっているのが分かりました。
「私は君の
私はびっくりしすぎて変な声が出そうになり慌てて旦那様の胸に顔を押し付けました。
「お言葉ですが旦那様」
エルサの冷たい声が後ろから聞こえてきました。
「旦那様は奥様のお名前しか知らないはずでございます」
エルサの言葉の意味が分からずに旦那様が首を
「結婚してからこの一年、旦那様は仕事仕事で奥様と夜を共にしたことは一度もございません。結婚した日ですら、式の直後、騎士団の制服に着替えてそのまま出勤なさいました」
「まさか……だって
旦那様の声は信じられないと言わんばかりです。
その問いに答えたのは、エルサではなくアーサーさんです。
「ほとんどの貴族の皆様が領地に戻られてしまっている季節だったこともあり旦那様はする意味がないとおっしゃったので行っておりません。結婚式自体も私とフレデリック、エルサ、副師団長
副師団長様は、旦那様の親友であり、なんとクレアシオン王国の王太子
旦那様は、
「ですので、奥様を返して下さいませ」
言うが早いか、私は気が付くとエルサの腕の中におりました。
「エ、エルサ?」
「奥様、フレデリックが失礼いたします」
何故かフレデリックさんに耳を塞がれてしまいました。
そして、エルサは旦那様に向けてにっこりと綺麗に笑いました。口がぱくぱく動いているので何かを言っているようです。
「……以上ですわ、旦那様」
フレデリックさんの手が外された後に聞き取れたのはそれだけでした。
振り返ると旦那様は、この世の終わりみたいな顔で
「さあ、奥様。旦那様はこれからもっと精密な検査がありますので、一度、私とお部屋に戻りましょうね」
「で、でも旦那様が……」
「ああ、奥様はなんとお優しい! でも良いのです、旦那様は少々、過去のご自分と対話しているだけでございます。それに頭を打っているのですからこれ以上
私は、エルサの言葉に
「旦那様、モーガン先生はとても
ああ、と力なく頷く旦那様は、お
「モーガン先生、旦那様をどうかよろしくお願いいたします」
私はモーガン先生に深々と頭を下げました。
「奥様。旦那様のことは私にお任せ下さい」
「落ち着いたらフレデリックがご報告に参りますので、それまではお部屋で心を休めていて下さい」
モーガン先生の優しいお言葉とアーサーさんの
「お言葉ですが旦那様」
私は顔を上げて侍女を見る。
「旦那様は奥様のお名前しか知らないはずでございます」
その言葉の意味が分からず、私は首を傾げた。すると侍女は、形の良い
「結婚してからこの一年、旦那様は仕事仕事で奥様と夜を共にしたことは一度もございません。結婚した日ですら、式の直後、騎士団の制服に着替えてそのまま出勤なさいました」
「まさか……だって披露パーティーがあるだろう?」
侍女の言葉が信じられず、私はそう問いを重ねた。
私の問いに答えてくれたのは、侍女ではなく初老の執事だったが先ほどまでとは打って変わって、冷たい
彼の
夫に
いや違う。リリアーナはずっと怯えている。普段から仲の良い
「ですので、奥様を返して下さいませ」
気付いてしまった事実に私が固まっている間にリリアーナは、侍女の腕の中に
「エ、エルサ?」
「奥様、フレデリックが失礼いたします」
にっこりと笑った侍女はフレデリックというらしい若い執事にリリアーナの耳を塞がせると私に顔を向けて、
「女嫌いで有名な旦那様は、ご自分の都合だけで奥様と結婚したのです。そして、この一年、貴方はご自分で
私はぱくぱくと
けれど侍女の口は止まらないし、止めるべき執事二人は聞こえないふりをしている。
「奥様を泣かせたら屋敷から追い出されるのは、あ・な・た、ですからね。そのどうしようもない脳みそにしっかり刻み込んでおいて下さいませ……以上ですわ、旦那様」
フレデリックの手が外れてリリアーナが振り返ったが私は自分が信じられずに項垂れた。
侍女の言葉が本当ならば、私は
彼女の言葉からは、心からこんな夫を案じてくれているのが伝わってきて、私はますます罪悪感に押し潰されそうになった。
妻の細い背がドアの向こうに消えて、部屋の中が
「はい。いかがなさいました」
「あの侍女の言葉は、本当か……?」
「ええ、エルサの言葉は全て本当ですし、私の言葉も本当です。旦那様は奥様と結婚されてからのこの一年、誰に何を言われても奥様をずっと放置して、ろくに言葉を
この見るからに冷静で厳格そうな執事も怒っているのだと、言葉の
「……彼女は……リリアーナは私を嫌っているのだろうか?」
「いえ。奥様は怯えてはいらっしゃいますが、旦那様を嫌っても
その言葉に私は失意の下、
執事の言葉通り、リリアーナはこの部屋の中に入ってきた
その事実に頭を抱えた私に、執事二人と医師から三人分のため息が零されたのだった。