私は、ふぅと息を吐き出して糸の始末をつけ、余分な糸をハサミで切りました。
出来上がったのはクッションカバーです。夏の花々をあしらった刺繡は彩り鮮やかな糸のお蔭でとても綺麗にできました。侯爵家が運営する孤児院のバザーに出して運営費の足しにしてもらうのです。刺繍をはじめとしたお裁縫は、これといった取り柄のない私の唯一の特技で、侯爵家のためにできることといえばこれくらいしかありません。
旦那様と結婚して侯爵家に嫁いできて、早いものでもう一年が経ちました。
大陸の西に位置するクレアシオン王国は広く豊かな領土を持ち、戦争が終結して数年がたった今はとても平和で穏やかです。
旦那様は王国の守護の要である王家直属のヴェリテ騎士団で王都を護る第一師団の師団長を務めておられます。その上、王国の英雄でもある旦那様は次期騎士団長としても期待されているのです。
ですが、その分、お仕事が途方もなくお忙しいらしくこの一年間屋敷へ帰って来られたのはほんの数回で、屋敷に滞在する時間も短くお会いすることはありませんでした。最近も遠方への視察に一カ月ほど出かけられていて、こちらに戻られたのは五日前のことです。
この一年、私は妻として何の役にも立っていません。姉のように美しいわけでもなく、ぱっとしない淡い金の髪に曇り空色の瞳でとても地味です。一応は伯爵令嬢だったのですが、引きこもっていた私は令嬢として必要な知識も教養も最低限しかなく、実の母は私が産まれた半年後には天国に行ってしまったので後ろ盾もありません。
世間知らずで旦那様にとって都合が良いという利点があったとしても、三〇〇〇万リルという大金を支払ってまで妻として迎え入れるには欠点が多すぎます。
けれど、旦那様は私にとても良くして下さっています。
私の趣味が裁縫だと侍女に伝えた翌日には立派な裁縫道具を用意してくれました。それにこの屋敷の中で旦那様の書斎と寝室以外は自由に歩き回れますし、なんと、お庭に出たって怒られないのです。エルサと一緒にお庭をお散歩するのは私のひそかな楽しみです。
実家にいた頃は一週間に一度書庫に行く時か、両親や姉に呼び出された時だけしか部屋から出ることは許されていませんでしたので、とても新鮮です。
ですので、私は旦那様にとてもとても感謝しております。
私はもともと両親に疎まれておりましたので、伯爵家ではひっそりと生活しておりました。幼い頃に、わけあって貴族令嬢として何の価値もなくなってしまったのですが父と継母は私を捨てるようなことはありませんでした。とはいえ貴族令嬢として価値のない娘を持て余していたのは事実ですから、私は書庫に出入りする以外は基本的には屋敷の片隅に与えられた部屋で過ごすように命じられておりました。
異母姉は私を嫌っていますが、七つ下の異母弟のセドリックは部屋に引きこもってばかりいる私を心から慕ってくれて、両親や姉の目を盗んで私の部屋に来てくれました。使用人たちは、私を憐れんでくれたのかセドリックが可愛かったのかそのことについては目こぼししてくれていたので、留守がちだった両親と姉は知りません。
私の結婚が決まった時、セドリックは寂しそうにしていましたがあの子だけがお祝いの言葉をくれました。
今も月に一度だけ手紙が届きます。私に会いたいと言ってくれる弟に応えたい気持ちはありますが、私は侯爵家に嫁いだ身、旦那様の許可なく実家に帰ることも、客人を招くこともできません。何より私の両親は、セドリックが私と会うのを許さないでしょう。
私が侯爵家に嫁いで抱えている心配事は、大事なセドリックのことだけです。寂しい思いをしていないか、哀しい思いをしていないか、それだけが心配なのです。
「……セドリック」
口の中だけで愛を込めてその名を呼びます。記憶の中のあの子は、嬉しそうに笑っていて胸が切なくなりました。
コンコン、と控えめなノックの音に私は思考の渦に呑まれていた意識を引き上げて、どうぞ、と答えて顔を上げました。
「失礼いたします。奥様、午後のお茶をお持ちしました」
入って来たのは、私の専属侍女であるエルサでした。
エルサは、いつも亜麻色の髪を一分の隙もなく後ろでまとめ、シックなメイド服もきっちりと着ています。他のメイドさんの首元のリボンは白ですが、白百合の刺?が入った赤いリボンは私の侍女であるという特別な証です。
「本日は、奥様の好きな苺のタルトを料理長が作ってくれたんですよ」
エルサがにこりと笑って、私の前にお皿を置いてくれます。艶々の赤い苺に白い生クリームが綺麗で、見ただけで美味しいと分かる逸品です。
「ありがとうございます。フィーユ料理長さんにもお礼をお伝えして下さいね」
「はい。奥様、失礼いたしますね」
そう言ってエルサも私の向かいのソファに腰を下ろしました。彼女の前にも私のものと同じ苺のタルトと紅茶が置いてあります。
本来は、侯爵夫人と侍女が席を共にするなどありえないことです。侍女に対して丁寧すぎる口調であることも咎められることです。
けれど、これらが許されているのはエルサや他の使用人さんたちの優しさなのです。
屋敷に来た当初、こうしてお茶を出されても私は口を付けることができませんでした。キラキラとまるで宝石のように美しいタルトをどうやって食べれば良いか分からなかったのです。実家にいた頃の食事はパンとスープだけだったので、見たことしかない豪華な食事と左右に並ぶ沢山のカトラリーの使い方がさっぱり分からず、粗相をしてしまうのではと恐ろしくて食事ができなくなってしまったのでした。
他にも使用人に敬称を付けて呼んだり、敬語を使ったりしないようにと侯爵家筆頭執事のアーサーさんに初日に注意され、非常に情けないことに口を利くこともできなくなってしまいました。伯爵家では、使用人に対しても敬称を付け、敬語を使わなければ両親に酷く怒られるのです。あの怒声と恐怖と痛みを体が覚えていて、私は彼らを呼ぶことも、何かを頼むことも、返事をすることもできなくなってしまったのです。
そんな私を助けてくれたのは、他ならない侍女のエルサでした。
あの結婚初夜に肌を見られたくなくて、入浴と着替えの手伝いを泣きながら拒んだ私を心配してくれたエルサは、親身になって私に尽くしてくれました。
まるで姉のように尽くしてくれるエルサに私は一カ月ほど経って、漸く心の内の恐怖や痛みを説明することができたのです。情けなさに泣いてしまった私をエルサは抱き締めてくれて、敬語でも何でもいいから話してほしいと言ってくれました。更には自分が教えるからと、こうしてお茶や食事を共にしてくれるようになりました。
エルサがいなければ、私はどうなっていたか分かりません。エルサは今では私にとってかけがえのない存在です。
「……美味しいです。苺がとっても甘くて、カスタードクリームも濃厚ですね」
「料理長が自画自賛しておりましたから。今日の夜は、奥様の大好きなじゃがいものポタージュを作ると張り切っていましたよ」
「本当ですか? とても楽しみです」
私は、ふふっと笑ってタルトを小さく切り分けて口へと運びます。じゅわっと広がる苺の果汁、カスタードクリームと生クリームは苺の酸味を包み込んで美味しさを引き立ててくれます。クッキー生地のタルトもざくざくとした食感が楽しいです。
エルサが説明してくれたのか、厳しかった執事のアーサーさんも優しくなって私の無作法を目こぼししてくれています。もちろん、少しずつ淑女としてのマナーは学んでおりますが、要領が悪いのかなかなか上手にはできないのです。ですが他の使用人さんたちもとても優しくて、私は侯爵家に嫁いできて良かったと心から思っています。
旦那様に愛してもらうことは叶いませんでしたが、その分、たとえ同情であったとしても優しい使用人さんたちがいてくれるだけで私は充分、幸せなのです。
「フレデリックときたらまたワンピースを買って来て、次の休みこそ出かけようと果たせもしない約束をするのですよ? そうやってため込まれたワンピースやドレスが何着あると思っているのでしょうか」
ぷりぷり怒っているエルサは、いつもの大人びた彼女よりもずっと可愛らしくて少女のようです。
私より五つ年上のエルサは執事のフレデリックさんと結婚しています。フレデリックさんは彼女より五つ年上で、旦那様と同じ25歳。旦那様の乳兄弟でもあります。
幼馴染だったという二人はその分遠慮がないのかよく喧嘩をしますが、聞いている側からすればそれはただの痴話喧嘩です。言うと「違います!」と全力で否定してくるので言いませんけど。
「ふふっ、エルサとフレデリックさんは本当に仲が良いですね」
「奥様、私は仲の良し悪しの話はしておりません。殿方の中身を伴わない約束にはお気を付け下さいませ、と経験を踏まえて助言申し上げているのです」
エルサがむっとしたような顔で言いました。くるくると表情の変わるエルサは、見ているだけでも楽しいです。
私は、彼女のことは敬称を付けずに呼ぶことに成功しています。達成するまでに三カ月もかかりましたが初めて自然に呼べた時、とても褒めてくれたので、すんなりと彼女のことだけは呼べるようになりました。とはいっても口調を直すのはまだまだ難しいです。
「それにしてもよく降る雨ですね」
エルサが窓の外に顔を向けて言いました。それにつられるようにして私も窓のほうへ顔を向けます。お茶をいただく前よりも少し雨脚が強くなったような気がします。
すると不意に外から騒がしい声が聞こえてきて、私とエルサは顔を見合わせました。立ち上がったエルサが窓から外を覗き込み、驚いたような顔で振り返ります。
「旦那様が戻られたようです。玄関に馬車が停まっております」
「ど、どうしたらいいのでしょうか」
急なことに動揺を隠せません。見送りも出迎えもしなくていいとは言われていますが、こんなに早い時間に帰ってきたのは結婚してから初めてです。
「確認して参りますので、奥様はここで……」
トントントンとやけに焦ったようなノックの音がエルサの言葉を遮りました。
「フレデリックでございます。奥様、入室の許可を」
「ど、どうぞ……」
フレデリックさんは先ほど話題に上ったエルサの夫です。執事とはいっても、この屋敷ではなく旦那様に専属で仕えているので会うことはほとんどありません。
ガチャリとドアを開けて入って来たフレデリックさんは、端正な顔に焦燥と困惑を浮かべていました。
「奥様、落ち着いて聞いて下さい」
ただならぬ雰囲気に、すぐにエルサが隣にやって来て私の手を握り締めてくれました。その温もりに、私はどうにか背筋を伸ばしてフレデリックさんの言葉を待ちます。
「旦那様が訓練中にお怪我をなさいました。命に別状はありませんが、転んだ拍子に頭を打って……少々、問題が起きてしまったのです」