「君と結婚したのは、その方が私にとって都合が良かったからだ」
私、リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィンがその言葉を聞いたのは結婚式を終えて初めて夜を共に過ごすはずのベッドの上でした。
私の意思の外で決められたあまりに急な結婚という人生の一大事を理解しきれず、呑み込めてもいない私はぼんやりする思考を持て余しながら旦那様を見上げました。
旦那様は冷たい表情をその美しい顔に浮かべて、私の前に立っておりました。
すらりと高い背に均整の取れた男らしい体つき、そして美しい琥珀色の髪に切れ長の二重の瞳は鮮やかな青。男らしく整った顔はまるで作り物のように綺麗でした。
けれどシェードランプの灯りだけが頼りの薄暗い部屋は彼の顔の陰影を際立たせていて、だからこそ冷たいものが少しでも混じると身も凍る思いがします。
私の旦那様になった人は──六年前の戦争で王国の英雄として名を上げたスプリングフィールド侯爵、ウィリアム・イグネイシャス・ド・ルーサーフォード様です。
旦那様は、かっちりとした騎士の制服姿のままでボタンの一つも外されていません。到底、これからゆっくりと眠るとはいえない格好でした。
私は旦那様のその冷たいお顔と纏う空気が恐ろしくて身を小さくしました。
「泣くな。泣く女は見たくない」
身を縮めた私が泣くと思ったのか酷くうんざりしたような声が上から降ってきて、ますます私は身を小さくしました。
私は成人を迎えたばかりの十五歳。旦那様は二十五歳。十も年が離れている上、婚約式で婚約書に署名するために教会で会った時以来、こうして顔を合わせたのは結婚式を挙げた今日が二度目でした。
私が伯爵家の人間であることは確かですが、訳あって屋敷の外に出ることは許されていませんでした。ですから会ったこともない旦那様がどうして私と結婚したのかは分かりませんし、私を外に出すのを嫌がっていたお父様が何故結婚を許したのかも分かりません。
当然、旦那様のことも何も知りません。ですので、これから少しずつでもお互いを知っていけたらと思っていました。
けれど、婚約式の時は二回も目が合ったのですが、今日の結婚式では旦那様と一度も目が合いませんでした。下ろされたヴェールが上げられることもなく、参列者もほとんどなく、儀礼的な結婚式はただ淡々と進みました。その後、旦那様は騎士の制服に着替えてそのままお仕事に行ってしまわれたので、私は一人で嫁入り先である侯爵家に参りました。
「私は君と子どもを作る気はない。侯爵位もルーサーフォード家も私の弟に継がせる」
続いた言葉に驚いて顔を上げました。
冷たい表情の旦那様と目が合い、形の良い眉が僅かに寄せられて咄嗟に顔を俯けました。
「最初に言った通り、君と結婚したのは私にとって都合が良かったからだ。私は結婚などする気はなかったが、立場上、周りが五月蠅かった。それに辟易していた頃、偶然、君の噂を耳にした。伯爵家には病弱で外に出せない娘がいると……病弱な娘なら短い婚約期間で娶っても、後々社交会に出なくとも周りが勝手に理由を想像して納得してくれる。……君の父であるエイトン伯は上の娘を私に押し付けようとしていたが、彼が賭博で作った三〇〇〇万リルという借金を肩代わりしてやるとすんなり君を差し出してくれたよ」
「……さ、三〇〇〇万リル?」
私は全身から血の気が引く音を聞きながら顔を上げました。
「貴族院の査問委員会に言えば、爵位及び領地、私財没収になる額だ。……だが、これで私に逆らうこともないと思えば安いものだ」
すっと細められた青い瞳を見上げて、私は無意識の内に鳩尾に手を当てていました。
私のことはどうなろうとかまいません。でも、実家にはたった一人、私の愛する弟がいるのです。あの子の未来を考えれば、逆らうことなどできるわけもありませんでした。
「妻としての責務は何一つとして果たさなくていい。夜会や茶会にも出なくていい。……とはいえ、十五歳と若い君の人生を縛り付ける以上、ドレスでも宝石でも欲しいものは好きなだけ買えばいい。私の部屋以外なら屋敷や庭だったら好きに散策してもいい。その代わり一切の面倒は起こすな。何かあれば君の侍女のエルサか執事のアーサーに言え」
分かったな、と最後を締めくくった旦那様は私が頷いたのを見届けるとくるりと背を向けて、部屋を出て行かれました。バタン、とドアの閉まる音がやけに大きく聞こえました。
私は空っぽになった心をどうにかしようと膝を抱え、唇を噛み締めて涙をこらえました。
拒絶されたことが悲しいのか、お父様が多額の借金を抱えていたことが悔しいのか情けないのか、大切な弟の将来が一時的とはいえ守られたことへの安堵か、もう何が何だか分かりませんでした。
一カ月ほど前、婚約式を行った教会でお父様が何度も旦那様に「病弱で役立たずな娘でいいのか」と尋ねていたのを思い出しました。お父様は私ではなく溺愛する姉様をクレアシオン王国の英雄であり大貴族のスプリングフィールド候に嫁がせたかったからです。
「上の娘に比べて不器量な上に病弱で、引きこもっていたからろくに社交もできない役立たずの娘だがそれでもいいのか、上の娘の方がそれはそれは綺麗で淑やかで」と言い募るお父様の言葉に、旦那様はただ一言「私はその娘が良い」と言って下さいました。咄嗟に顔を上げた先で鮮やかな青い瞳が私を見つめていたのをはっきりと覚えています。
あの時、望まれて結婚するのだと私は涙が出そうになって、胸に感じたこともない温かな感情が去来しました。
私はこの結婚に僅かでも期待や希望というものを抱いていたのだと今になって気付きました。少しは愛してもらえるのではないか、そう願っていたことに気付いてしまったのです。あの時の温かな感情は、きっと「幸せ」だったのでしょう。
「……馬鹿ね、リリアーナ。私なんかが愛されるわけがないのに……」
自分で吐き出した言葉が空っぽになった心にすとんと落ちて、ぴったりと収まりました。
結婚するにあたって面倒がなく都合の良い私が良かったのです。
けれど、まさかお父様が三〇〇〇万リルなんて途方もない額の借金を抱えていたとは知りませんでした。それを私という娘を一人貰うだけで肩代わりして頂けるなんて旦那様はとても優しい方です。
私はひとりぼっちの寝室で、ならばせめてその優しい旦那様が望むような妻であろうと決意しました。
幸いなことに与えられたお部屋は、実家の私のお部屋よりずっと広くて家具も素敵ですし、旦那様のお部屋以外であれば屋敷の中や庭を散策をしてもいいと言って下さいました。小さな部屋の中しか知らなかった私にしてみれば、とても大きくて素敵な変化です。
自分をそう奮い立たせて、私は顔を上げました。
これが私と旦那様の結婚初夜の出来事でした。