第四章 『旅の果て』5

 5


 それからどれほどの時間が経ったのだろう。

 目が覚めたとき、ラミは気を失ったときと同じ場所に倒れ込んでいた。

 エイネはもうそこにいない。

 アーデルハイトもだ。彼女にとって、ラミなど死んでも構わないが、生きていたところでやはり構わない、その程度の存在なのだろう。どうせ星ごと滅ぼすのだから。

 エイネを天の座へと押し上げるために役立った時点で価値は終わり。

 彼女は、もう行ってしまったのだろう。それくらい、わからないはずもない。

 ──何もできなかった。

 旅で得たものなどひとつもなく、血の滲む努力には価値がなく、得たと思えば錯覚で、気づけば最も大切なものさえ失っていた。

 エイネが生きて神子の役割を終えることはなく、アウリも姉と同じ運命に挑まなければならない。惑星が救われようと今の人類が救われることはなく、エイネは使徒としてその手を自ら下さなければならない。幼馴染みを守り切れず、代わりに救われてしまった。

 決まりきっていた結末だ。

 無理に挑み、当然のように挫折を得たというだけ。分不相応な高望みを抱いたこと自体が間違いだったのだ。天へ手を掛けようとする愚か者など、墜落して当然だろう。

 泣くことすら、ラミにはできなかった。

 どうこくもない。絶望を彩る後悔さえ許されない。

 当然でしかないからだ。


「──随分、暗い顔をするようになった。我々を追い詰めた男の顔には見えないな」


 ふと、声が聞こえた。

 その方向に現れた人影があった。

 ラミは顔を上げ、そちらの方向に視線をやる。見覚えはある顔だった。

「……お前は」

「リーズリィ=ロント。──まだきちんと名乗ったことはなかったな」

 いつだったか、港町を襲撃してきた《反天会》の人間。リィ──リーズリィ=ロント。

 彼が、こんな北の果てに姿を現していた。その背後にはもうひとり、女もいる。

「……シシュー=シルバー」

「お久し振り。……私が神子をやめた理由なら、もうわかってもらえたかしら」

 薄く笑うかつての神子。

 その姿に、ラミは強く不快感を刺激される。

「……なんの用だ。なぜこんな場所にお前らがいる?」

「────」

 ぞっとするほど底冷えのする声だった。

 泣き叫ぶでもなく、ただ淡々と話すその姿に、シシューですら思わずされる。以前とは、もはや別人にしか見えなかった。

 そんな彼女を前にして、ラミはいっそおざなりな口調で。

けんでも売りにきたのか。買ってやってもいい。──なんでもいいぞ、今なら」

 これには、リィが間に割って入るように。

「おい、お前。何か──」

「──ごちゃごちゃやかましいぞ」

 ラミが地を蹴る。突然だった。

 たとえるならそれは、狩りの直前の獣のびんしようだろうか。厄介なのが、それが何も戦術のない単なる特攻、捨て身の突撃だったことだろう。

「く──!?」

 咄嗟に術を発動するリィ。

 ラミを止めるべく放った火炎が、けれど彼に当たる直前──その軌道を変えた。

 避けたのではない。防ごうとすらラミはしなかった。けれど捨て鉢の彼を、まるで運命そのものが守ったかのように、いきなり術が逸れたのだ。

「……あ?」

 狙ったリィだけではなく、当たらなかったラミも驚いたようにそこで止まる。

 結果として動きを止めることには成功していた。

 その様子を見て、小さくシシューは、驚きを込めて呟いた。

「……そう。死ねなくなったのね、君は……」

 その言葉にラミは顔をしかめた。シシューは続ける。

「貴方の中に、貴方ではない者の命数を感じる。……エイネ=カタイストね。貴女という器に自らの命数いのちを注いでいる。それに守られている限り──運命が貴女を守り続ける」

 本人の意思に関係なく宿命として命を永らえさせる護り。

 今のラミにはそれがかかっているのだ。脅威も武器も病でさえ、今、ラミはあらゆる死から運命的に遠ざけられている、ということ。

「……そうか」小さく、ラミは呟いた。「つまり俺は、自殺もできねえってことか」

 発言の内容には触れずに、シシューはただ頷く。

「そうね。でも彼女の遺した命数が切れるまで──貴方自身の命数を、今はもうほとんど感じないわ。つまり逆を言えば──」

「この術が切れるまでは死なない。だが術が切れれば、その瞬間に俺は死ぬ」

「……あまり術は使わないことね。使えば使うほど貴方の残りの寿命は減る。何もしなくても数年……これからも戦い続けるのなら、それだけ短くなるでしょう」

 ラミは答えなかった。

 それが重要なことだとは、もう思えないのだ。

 シシューは言う。

「今日は勧誘のつもりで来たのだけれど……出直したほうがよさそうね。戻りましょう、リーズリィ。きっといつか、彼は私たちのところに来るわ」

「……なんだと?」

「言葉通りよ」シシューは小さく首を振った。「私たちは神子の──使徒の手による惑星の救済を認めない。それでは人類は存続しないから。だから別の方法を模索しているの」

「……だから反天会、か」

 文字通り、神の意向にさえ逆らう背徳者。

 その名の由来を知って、だがラミは一切の興味を持てなかった。

「せっかく助かった命でしょう? このままでは、それさえやがて無意味になる」

「うるせえ!」ラミは叫ぶ。「うるせえんだよ、知ったことか! もうどうでもいいんだ、なんだっていいんだよ俺にとっちゃ! あいつのいない世界になんの意味がある!?」

「それは、貴方が見出すべきものでしょう。私は知らない」

 それだけ言って、シシューはそのままきびすかえした。

 本当にもう帰るらしい。ただ、最後に一度、彼女は振り返って言う。

「いいの? 私たちなら貴方にきっと、別の理由を提示できる」

「……喧しいぞ。どんな理由があろうと、なんの罪もない人間を──ワーツさんを殺したお前らにつくことなんざ──」

「そう。──なら、あるんじゃない。どうでもよくないことが」

 ラミは、はっとした。その通りだと思ったからだ。

 シシューはそのままリィを従えて消える。《転移》を使ったということだろう。

「……俺は……」

 ラミは呟く。

 自分の中にまだ残っていた感情の所在を知ってしまったから。

 強く手に握り締めているものがあることに、そこで初めてラミは気づいた。

 そっとラミは手を開く。

 その中に、──エイネが残した、希鋼製の指環を彼は見た。

 そして理解したのだ。今、ラミに残っている命が、彼女の遺したものであると。それを捨て鉢になって無駄にすることなど、ラミに許されているはずがないと。

 指環からはまだ熱を感じた。

 そこから、いなくなったエイネの想いが伝わってくる。

 ──彼女は神子になどなりたくなかった。

 その気持ちを押し殺して旅立ったのは、妹のアウリやラミを、ただ守りたかったから。大事なもののために未来を遺せるなら、自分の運命に立ち向かってもいいと思えた。

 だから最後に彼女は笑ったのだ。

 自分の人生を、無駄なものだとは一切思わなかったから。ここまでラミと共に旅をしてこられたこと、それ自体を彼女は価値としたのだ。

 その想いを──どうして自分が裏切ることができるだろう?

 ラミは強く、その指環を握り締め、胸の中に抱き締めるようにして膝を突いた。


 ──初めて、ラミは涙を流して、慟哭を上げた。

 そのたけびは何より尊く、けれど悲痛な別れの儀式だった。


 その日、聖都バラエリアの大燭台に、七本目の聖火が灯された。

 何より炎らしく、ほかのどの色よりも鮮やかな──深緋色の命火であった。

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