第四章 『旅の果て』4

 4


「づ、──ぁ、あ……?」

 小さく、ラミはそううめいた。

 いつの間にか、自分が意識を失っていたことに気づいて。

「……なに、が……ぐ、ぁ──いっ」

 覚醒と同時に感じたものは、焼き払われるような腹部の痛みだった。というより、その痛みへの対策として、ラミの意識は自然と落とされたのだろう。

 起きてしまったことは不幸だったのか、幸運だったのか。極限状態でも最低限の活動ができるように訓練を積んでおり、あるいはそれが功を奏したのかもしれない。

 いずれにせよ、それが手遅れであることに違いはなかったけれど。

「……っ、ぐ……ま、ずい……」

 脇腹を狙ったアーデルハイトの攻撃。

 術としては大したものではない。ただまっすぐ熱線を撃ち出しただけだ。だからこそ、その発動の速さと起こりの静かさは驚嘆に値するもの。ラミですらかわせないほどだったと表現してもいいし、それでも即死は辛うじて避けたことを褒められるべきでもあろう。

 いずれにせよ、このまま放っておけば死に至ることは間違いない。

「っ──ふ、くそ……っ」

 己が命数を治療へと回す。これは寿命を縮めるもろの剣だが、ほんの少しでも治癒力を向上させられるのなら時間稼ぎはできた。

 さらにラミは、切り札の鋼糸を自らへ撃ち込むことで、強引に傷口を縫い留めた。脇腹から流れ出る血を食い止めて、感染症を避けるくらいの役には立つだろう。

 代わりに激痛を受けるとしても、少なくとも時間稼ぎにはなる。

 ──どれほどの時間が経っただろうか。

 気を失ってから、まだそれほど経ってはいないはず。うつぶせに地に伏したまま気力で顔を上げると、視線の先──ここから離れたところにふたつの人影を見つけた。

 こちらに背を向けているエイネと、それに相対するアーデルハイト。

「ぐ……っ!」

 呻きながらも、ラミは全身に力を込めて立ち上がった。

 このまま伏せているようでは、なんのためについて来たのかもわからない。傷の様子も耐えられないほどではないはずだ。あるいは、エイネが多少の治療をしてくれたのか。

 鋼糸の先端を宙に固定し、それを引っ張ることで立ち上がるラミ。

 そうして、力を取り戻して──彼は前へと駆けていく。エイネの元へ向かう。

「──起きたのか」

 と。こちらへ駆けてくるラミを見て、少し驚いたようにアーデルハイトは言った。

「まさか間に合うとはね……あと少しだったっていうのに」

 ラミはそれを無視して、エイネに声をかける。

 少なくとも、即座に攻撃を仕掛けてくるわけではないならどうでもいい。

「……大丈夫か?」

「うん、なんとかね……さすがラミ、本当にいいタイミングで来てくれたものだよ」

 そんなことを、本当に嬉しそうに少女は言った。

 けれど、見ればエイネの体には多くの傷が刻まれている。これまで、ひとりでアーデルハイトと戦っていたのだろう。彼女がここまで追い詰められている姿は初めて見た。

「……危なかった。もう少しでまた、自分を見失うところだった」

 アーデルハイトは、エイネに命数術を濫用させることで、強引に使徒としての再覚醒を促している。ただでさえ強大な敵だというのに、よく持たせたというべきか。

「エイネ。……本当に大丈夫なんだろうな?」

「今のラミに心配されるほどじゃないよ。……傷口、魂源命装で無理やり縫い合わせてるだけだよね? ホント、ちやするよ、まったく……」

 珍しくも力なく笑うエイネ。彼女もかなり必死な様子だ。

 エイネの隣に並び立ったラミは、その正面の強大な敵を見据える。

「……どうする? このまま戦うべきなのか?」

 このまま戦い続けること自体、アーデルハイトにとって好都合なのだ。むざむざ相手の思惑に乗るくらいだったら、さっさと逃げることも考慮すべきではあった。

「……そう簡単に、逃がしてくれる敵じゃなさそうだけど?」

「そりゃ、……その通りだな。わかった、あとのことはあとで考えよう」

 戦闘態勢ならとっくに取っている。

 油断などできない相手だ。ほんの少し不意を打たれれば、さきほどの二の舞になろう。

 注意深く隙を窺うラミに対し、アーデルハイトのほうは身構えすらしない。

「……参ったね、本当。普通、こんなことあり得ないんだけど」

「…………」

「かといってエイネ=カタイストは諦めるには惜しい。うん、悪いけど私たちにも時間はないんだよ。星の滅びはもう目前まで迫ってる──あと四人はもう、今生きている神子の中から出てきてもらわないと間に合わないんだ。君を見逃すわけにはいかない」

「それは──」アーデルハイトの言葉に、静かにエイネは首を振って。「このわたしに、今生きている全ての人間を見殺しにしろ、と言っているようなものだよね」

「いいえ」笑いもせずに、アーデルハイトは答える。「見殺しなんてなまぬるいわ。直接、手を下してでも少数を生かすほうを優先しなさい、と言っているの。全滅するよりは、遥かにマシな結果になるとわかっているはず。そしてそれが、神子の天命でもある」

 問答に意味はなかった。

 どちらかといえば、まともなことを言っているのはアーデルハイトなのかもしれない。

「……本当に、ほかに方法はないのか?」

 だからラミはそう訊ねた。

 重荷を、決してエイネにだけは背負わせないように。

「この星に生きてる人間を救う方法は本当に存在しないのか? お前ほどの力があれば、何か別の方法が考えつくんじゃ──」

「何度も言わせないで」アーデルハイトはいらったように、けれど無表情で。「ほかの方法なんてない。あったところで私は認めない。この国はそうやって私の時代から、八百年に近い歴史を積み重ねてきているの。それを今さら、棄てるわけにいかないでしょう」

「……そうかよ」

 使徒様はまったく話が早くて助かるものだ、とラミは思った。

 端的でいい。無駄な問答がない分、こちらもしっかりと覚悟を固められる。

「だったらオレは、そんなもん認めねえ──!」

 ラミは行動に移った。いや、準備ならこっそりしてあったのだ。

 一瞬で、アーデルハイトの四肢が四本の鋼糸によって拘束されていく。

 当然、仕込みはしておいたということである。

 それらは空間から突如として現れると、アーデルハイトにさえ回避を許さない速度で、あっという間に彼女の四肢を絡め取ってしまった。アーデルハイトは即座にそれを壊そうと力を込めるが、ラミの魂源命装はじんも動くことすらなかった。

「……驚いた」

 本心からの言葉とばかりに、アーデルハイトは呟いた。

 表情は変わらない。けれど確かに、ラミの実力に感心してみせたらしい。

「私が力で破れないほどの強度だなんて。さすがは最年少の守護十三騎、ということなのかしらね。想いの込められた、いい術だと思う」

「……褒めてくれたところ悪いが、最年少はエイネだ。残念ながらオレは二番目だよ」

「神子なんて例外でしょう。人間では貴方あなたが間違いなく最年少。それは誇っていいことだと私は思うけれど──なるほど、守るための戦いにおいて力を増す、自在に動かし、固定できる高強度の鋼糸……これは厄介だわ。その分、余力は削れるでしょうけど」

 命数術において、およそ全ての術はできることが決まっている。

 一見して万能に見えるが、その時々の状況に適した術を使わなければ意味がないのだ。

 ただひとつ、魂源命装の術だけがその例外である。

 一度限りではあるが、創り出す武装とその効果を己で決定できる。そしてそれは、その術者の魂の形──その望みを最も反映した術であればあるほど力を増すという。

 その意味において、エイネとのきずなをカタチにしたラミの魂源命装は恐ろしく強かった。

 この術があるからこそ、才能のないラミが守護十三騎の座に辿り着けたと言ってもいいくらいの、まさに切り札である。

 ゆえに。


「──まあ所詮、私の命数に抵抗しきれるほどのものではないけれど」


 それを破られてしまっては。

 ラミ=シーカヴィルタなど無力な子どもに過ぎなかった。

 鋼糸が──白い命火に包まれていく。ちょうどアーデルハイトと接しているところから出火した月白の炎は、徐々にその先端へと燃え移っていき、数秒で鋼糸を焼き払った。

「──な、」

 ラミは目を見開く。

 まさか自分の切り札が、こうもあっさり破られるとは想像していなかった。これで我を失わなかっただけ、充分に優れていると言える。

 次の瞬間、再びアーデルハイトの攻撃が飛んできた。

 白い熱線。掌を向けるだけで、雷を思わせるほどの速度で飛んでくる火炎の矢。

 ラミはとつに駆け出した。

 両の手を交差させ、エイネをかばうように前へ躍り出す。

 もちろん無策ではなく、そのりよううでには何重にも鋼糸が巻きつけられていた。その硬度に任せて、ラミは強引に熱線を受け止める。

「ぐ──」

 すさまじい熱量だ。少しでも気を抜けば貫通してラミごと射抜くだろう。正面から受けることをやめ、斜めに受け流すようにラミは体を操作した。形のない炎の矢を流す能力は、さすがに戦闘勘の鋭さが見えている。

 だが、何よりの武器は幼馴染みとの絆だった。

 言葉はない。アイコンタクトすら交わしていない。にもかかわらずエイネはラミがその攻撃を処理しきると信用して、すでに攻撃の動作に移っていた。

転移ドリフト》を用いて一瞬で敵の背後に回っている。

 無論、それに気づいたアーデルハイトもすぐさま背後へ振り返るが、そのときにはもうエイネは再び《転移》を使い、今度は彼女の正面だった側へ回っていた。

 エイネは上に手を伸ばしていた。

 その頭上にあるのは、れんの炎で構成された大剣。己が命火を高密度に圧縮することで物理的な破壊力さえ伴わせた一撃は、常人ならば触れた箇所から溶解しかねない。

 けれどアーデルハイトは、それを月白の命火をまとわせた腕をかざすだけで押し留めた。

 まるで見えない力場が炎の大剣を食い止めているかのような光景。無為に終わったかに見えたエイネの攻撃だったが──しかし、エイネ=カタイストもまだ諦めていない。

 いや。それさえ彼女にとっては作戦のうちだった。

「────!」

 きようがくするアーデルハイト。

 その術で大剣を受け止めたときにはもう、エイネは術を手放していたのだ。それは文字通り、掲げた剣を振り抜くより前に棄てるような行為。エイネはこの不意打ちが通じないことさえ予期した上で、必殺の術をただのおとりとして用いていた。

 彼女もまた、ラミ=シーカヴィルタと同じく、王国最強の十三騎の一角。

 史上最年少で、また神子としては史上初めてその地位を獲得した天才命数術師。決して神子という才能に胡坐あぐらいて過ごしてきたわけではない。

 ラミと同じか、あるいはそれ以上に彼女は戦闘というものにけている。

 アーデルハイトが剣を受け止めたときにはもう、彼女はとっくに剣を放り捨て、小柄なその身で敵の懐へと潜り込んでいた。

 けれど。それでもアーデルハイトはまだ崩せない。

 右の手は大剣を止めるために使ったが、まだ左が残っている。その掌に、ほのかな月白の命火が瞬いた。それだけで、彼女はあらゆる命数術を成立させるだろう。

 片手さえ空いていればまだ対応することはできる。その手を向け、エイネを迎撃する寸前──けれど、アーデルハイトの左手は強引に横へと引っ張られていた。

 ──ラミの鋼糸が、横合いからアーデルハイトの迎撃を妨害したのだ。

 術を待機していたことが災いした。掌に集めていた命火は、術として成立するより早くラミの鋼糸へと燃え移ってしまう。エネルギーの使い道を強引に変えられたのだ。

「……っ」

 驚くべきは、ラミの対応力と意志力だろうか。つい一瞬前、まるで通じなかったはずの攻撃を、それでも彼は冷静に観察していた。

 鋼糸ではほんの一瞬しかアーデルハイトを拘束できない。──つまり一瞬ならできる。

 鋼糸はアーデルハイトの命火で燃やされてしまう。──つまり命火を鋼糸へと移せる。

 破られたことそれ自体を次なる攻撃への伏線として利用している。間違いない。純粋な命数術師としては二流でも、戦士としてのラミの嗅覚、戦闘勘は天才的なものだった。

 けれど。何より驚くべきものは──。

「…………」

 アーデルハイトの胸に、エイネの右手が触れた。

 その手にほとばしるは深緋こきひ色の火炎。あるいは本物の炎よりも鮮やかな、エイネの魂の色。

 これまでの生涯の全てを込められたエイネの一撃。

 光が、瞬いた。

 それと同時にアーデルハイトは、とうの勢いで後方へと一気に吹き飛ばされた。

 エイネの掌中から赤い線が伸びている。長大すぎるやりのようないつせん。その穂先に突かれ吹き飛ぶアーデルハイト。深緋のエネルギーの奔流が、ついに使徒へと届いたのだ。

 アーデルハイトは背中から地面に墜落した。

「──エイネ!」

「まだだ!」

 叫んだラミにエイネが応じる。

 確かに直撃した。だが貫くことまではできなかった。

 本当は、アーデルハイトの心臓に穴を空けるくらいの力を込めていたのだ。

 一点に集中された火炎のせんげきに、けれどアーデルハイトは、撃たれただけで貫かれてはいないのだ。ダメージがないとは思わないが、それでも人間離れした防御力だった。

 そのことはラミも充分に理解している。

 まだ油断はできない。だが、確かにふたりなら通用するという手応えを得た。ひとりの力では通用しない相手でも、エイネとふたりなら、きばを届かせることができるのだと。

 だからこそ、エイネはさらに追撃するため攻撃の術を用意した。まだアーデルハイトを倒せたとは思っていない。

 いつでも援護ができるように、ラミは気を抜かず警戒して場を見据えている。


 直後、ラミの口から赤い血が零れ出した。


「ぐ、──ぶふっ」

 三歩、よろめくようにラミは前に移動した。

 赤い血が点を刻むように、れ果てた地面へと染み込んでいく。

「ラミ!?」

 突然の事態に、我も忘れてエイネはラミに駆け寄ってくる。ラミはそれを見ていた。

 ダメだ。そんなことをしていては、アーデルハイトの攻撃を防げない。だから。

 ──その後の行為は、ラミという青年にとって当然のものだった。

 ラミは光を見た。遥か前方、アーデルハイトの方向に。きっと何かの攻撃だから、それだけは防がないといけない。騎士の役割は、命を賭して神子を守ることだから。

 ラミは最後の鋼糸を発動した。

 にびいろの命火。己が才能のなさを示すかのように鈍い色だが、その硬度は確かにエイネを守れるだけのものがあった──そうなるように鍛えてきたという自負がある。

 今や命の輝きは鈍い。

 自分がとうに死んでいるのだと、もうラミにはわかっていた。

 おそらく、心臓はもう命数術で潰されている。血を吐いたのはそれが理由だろう。

 だからラミは、残った最後の命数全てを使い果たして、エイネを自分の元に引き寄せ、おおかぶさるように地面へと押し倒した。

 その頭上を飛んでいく熱線から、最後に一度、少女を守るために命を使った。

「ラミ! ──ラミ!?」

 押し倒している少女が、悲痛な顔で涙を流していた。

 ラミは何かを答えようと思ったが、もう何もできない。意識の接続が、辛うじて切れていないだけ。ラミ=シーカヴィルタという肉体は、もうとっくに死んでいる。

 それでも最後に、転がり落ちる形でエイネの上からどいた。自分で動いたというより、単に力が抜けて落ちただけと言ったほうが正しいけれど、それでもよかった。

 自分の血で、エイネを汚さずに済むならそれでよかったからだ。

 まったく笑い話だ、とラミは自嘲する。

 ああ、確かにふたりがかりなら、使徒にさえ通用したのだろう。憧れていた騎士になるために積んできた修練は、それだけの力をラミに与えてくれていたのだ。

 だが使徒は、そもそもラミを殺すために、戦闘さえ必要とはしていなかった。

 その気になれば、術であっさり心臓を潰せるときたものだ。これが茶番でないのなら、いったいなんだというのだろう。ラミの戦いにはなんの意味があったのか。

 ──ある。

 そう、意味ならあった。

 この日、この場所に、ラミ=シーカヴィルタがエイネ=カタイストと共に訪れたこと。

 それこそが天命であったのだから。

「──ごめんね」

 ふと。そんな声が、エイネから聞こえた。

 閉じかけていた目をラミは開ける。なぜだか体に力が戻っている気がした。

 錯覚ではない。自分を覆う温かな深緋色の命火が、確かに命を注いでいた。もうなくなっていたはずの命が、ラミという器へ注がれているのがわかる。

「エイ、ネ……?」

「……ごめん。それから──ありがとう。やっぱり駄目だったみたいだけど、それでも、私はこれで満足しちゃった」

 青年の隣に寝転がる少女は、そっとその手を幼馴染みのほおに添えた。

 これまでの、全ての感謝を彼に伝えるため。

「ありがとうね、ここまでついて来てくれて」

「……エイ、ネ……お前」

「私を追いかけてきてくれてありがとう。騎士になる夢を叶えてくれてありがとう。私のところに来てくれて……ずっといっしょにいてくれて、本当にありがとう」

 初めから、それだけでよかったのだから。

 エイネは神子だった。

 物心ついた頃にそれを自覚し、けれど隠しながら生きてきた。それができるだけの才が彼女にはあったし、一方で神子として生きていく覚悟なんてさらさらなかったから。

 ただ故郷の小さな村で、大好きな幼馴染みと共にいられればよかったから。

 けれど。それが避けられない運命なら。

 もしもこの結末が、あらかじめ決められていたものであるのなら。

 ──そうだ、なんのことはない。世界のために戦うなんて、人々を守るために命を賭すなんて、そんなことをエイネ=カタイストという人間に求められても困ってしまう。

 少女が守りたかったものは、いつだって、自分の大好きな人間だけだった。

 ラミと変わらない。エイネを追いかけることで努力できた彼と同じく、彼が追いかけてきてくれると信じていたから少女は神子として振る舞えたのだ。

 だから何ひとつ後悔はない。

 だってラミは、自分のわがままひとつで、旅に付き合ってくれたのだから。

 最初からこれは少女のあいないわがままでしかなかった。

 ──今日このときに。

 自分が終わってしまうそのときに、いちばん大事な青年と共に在りたかった。長い旅が最後の想い出になるのなら、この世で最も愛する青年に、ついて来てほしかったのだ。

 エイネ=カタイストが考えていたことなんて、最初からそれひとつしかなかったというのに。まったくこの鈍感な青年は、自分がどれほど彼を好きなのかまるでわかってない。

 ずっと昔から。

 初めて会ったその日から、エイネはラミが好きだった。

 意外でもなんでもない。そんなのは当たり前だ。きっと誰だってひと目でわかる程度のこと。それで全てだったというだけだ。

 あいにくと、旅を終わらせて日常に戻ることはできなかったけれど。

 初めから決めていた。たとえ自分がどこで終わろうと、ラミだけは必ず生かして帰すとエイネ=カタイストは決意していた。

 それを突かれれば勝ち目はないと理解していても。

 これ以上に大事なものなんて、世界のどこを探してもついに見つけられなかったから。

 だから、これでいい。

 エイネはラミの手を取り、その手にゆびをひとつ握らせた。

「──これ、私の形見ってことで持っていって。ラミの鉄から作った、ラミだけの指環」

 それが彼女を、守護十三騎たらしめた《魂源命装》。

 そこにラミの術を足し、彼の命を繋ぐためだけに創り出したもの。

 誓った絆を形に変えたエンゲージリング。

 自らが扱える全ての命数を、このひとつに込めて渡した。これなら、ラミの傷もきっとえるだろう。死のふちに立つ人間さえ、癒やすことを可能とする人知を超えた道具。

 けれど──いかな神子でもそれほどの術は本来、使えない。

 命数を消費する術で、命数を回復させるなど理にかなっていないのだ。

 だからこそ、これは神子にもできない奇跡。

 それを成し遂げるには──使徒になる必要があった。

「ま、待って……くれ。エイネ……っ!」

 ラミもそれは理解していた。

 何もできなかった、なんて話ではない。ラミは確かに事を成した。

 ──自分という存在を懸けることでエイネを使徒の座にまで押し上げてしまった。

 とんだ皮肉だ。ここで自分が助けられたりしなければ、エイネは使徒にならずに済んだかもしれなかったのに。よりにもよって、最後にラミが背中を押してしまった。

 幼馴染みに、踏み込んではならない領域へと足を踏み込ませてしまった。

 それこそがアーデルハイトの目的だったのだ。

「違う……違っ、待ってくれ……オレは、そんなことのために……!」

 そんなことのために死ぬ思いで鍛えてきたわけじゃない。

 そんなことのために、エイネといっしょに旅を続けたわけじゃなかった。

 だがいくら叫ぼうとも、人の願いなど天に届かない。

「おやすみ、ラミ」

 エイネ=カタイストは──そうであった者は、静かに笑った。

 その言葉で意識が切れそうになる。いくら回復し続けているとはいえ、一度は死の淵に立ったのだ、意識を保つにも限界がある。

 けれど、何かを言わなければならなかった。

 最後の力を込めて、エイネに、言葉を発しようとするラミ。

 けれど少女によって口を塞がれては、それも叶わなくなってしまう。

 たった一度の、口づけ。

 それを別れの挨拶とするように、エイネ=カタイストは美しい笑みで微笑んだ。


「大好きだったよ、──ラミ」


 そこで、ラミ=シーカヴィルタの意識は完全に途絶えた。

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