第三章 『反天会』5-3

「違います。私は確かに救星を己が命数と受け入れていました。自らの命がうしなわれることなんて、まったく問題にしませんでした。死を覚悟せず旅立つ神子などいません」

 全ての天命を自ら達成しようとしていたエイネであっても。

 無論、自分がそれに失敗し、志半ばで命を落とすことも覚悟はしていた。

「それが長大な寿命と、強大な命数を持つ神子に与えられた使命なのですから。自ら神子であると自覚した者ならば、誰しもその覚悟にやがて至ります」

「どうして……」

「ほかに選択肢がないからですよ。これは絶対です。絶対だから、受け入れなければならないことです。人間、どうしようもなければ覚悟するしかないんですよね。歴代の神子が例外なく己が役割に殉じたのは、崇高な決意や自己犠牲の精神などではありません。単にそれ以外がなかった、というだけの話なんです。それが、この星の仕組みなのですから」

 もはや、ラミには彼女の言葉を否定することができなくなっていた。

 己が天命を裏切り逃げ出したことを肯定はできない。それはエイネへの裏切りだ。

 けれど同時に、それを選んだシシューもまた間違いではない。間違っていると、そんな糾弾をすることはできない。そんな資格が自分にあるとは思えない。

 神子に希望を──全ての責任を託しているのは、何もできないラミも同じだったから。

「だから」

 と、シシューは言う。

 ほかでもない、教会騎士へ向けて。

「だから私は全天教会からの離反を決意しました」

「離反、って……あんた、じゃあ……」

「全天教──その教会組織に支配されているこの世界は間違っている。教会は神子におのが運命を隠していたのですから、これは明白な裏切りです。……許せるはずがない」

 自分はこれほどまでに愚かだったのか、とラミは自分を呪った。

 事態に呑まれて、状況を判断する努力さえ怠っていた。そもそもラミたちがなぜここに来たのか、この場所がどういう土地だったのかを完全に忘れていた。

 この場にいるという以上、シシュー=シルバーの現在の肩書きは限られている。

「……あんた、まさか……っ」

「神子の肩書きでは呼ばないでほしい、と言いましたね。代わる肩書きを、貴方にはこの場で教えておきましょうか。ねえ、ラミ=シーカヴィルタ十三位。我が怨敵」

 彼女の怒りは、嘆きは、全てを裏切るに値した。

 それを理解していてもなお、それでも──かつて神子だった者の変貌が応える。

 だから。ラミは、わかりきっていた名乗りにさえ衝撃を受けた。


「私はシシュー=シルバー。教会を裏切り、今は反天会大幹部の一角を務めております」


 かつて、教会の聖人として列せられた偉大なる女性が。

 いつかの少年に、強い願いの力を与えた人間が。

 今、敵として姿を見せている。

「……どうして」

「意味のない問いですね」シシューは言う。「神子であることをやめたとはいえ、私の目的そのものが変わったわけではありません。私は、人間わたしであることまではやめていない」

「……、……」

「これは私からのけだと思ってください。貴方と私の意志は同じはずなのですから」

 そう告げるなり、シシューはそのままきびすかえした。

 ラミは、それを引き留めようとする。

 意志力というよりも、それは単に義務感だった。何を言うべきかも定かではないまま、青年はただ敵を見逃すわけにはいかないという理屈だけで動こうとし──失敗する。

 何も言えない。何もできなかった。

 何もわからないからだ。

 あるいは、本当は察しているのだとしても。

「──私などにかかずらっている暇はないと思いますが」

 そんなラミに向け、背中越しにシシューが最後の言葉を発する。

 それこそ彼女の言う通り、こうして言葉をかけること自体を手向けとするよう。

「そろそろ戦いが終わってしまいますよ。そうなれば、それこそおしまいかと思いますが」

「……っ!」

「奇跡が起きれば、あるいは、最期の挨拶くらいは済ませられるでしょう」

 ──祈ることはやめましたが、そうなればいいとは思いますよ。

 それだけを言い残し、今度こそ去っていくシシューを、ラミはもう見送らない。確かにそれ以上に、優先すべきことがあったからだ。

 騎士としては正しくないのかもしれない。

 けれど結局、ラミにとって第一に優先されるものは初めから決まっている。

「エイネ……っ!」

 見上げた視線の先では、いつの間にか戦いが終わっていた。

 というよりこうちやくしているのか。

 見上げれば届く、けれど決して手の届かない高さで、エイネと使徒が向かい合う。

「……どう、するべきなんだ、オレは……!?」

 自身への問いを発した。

 運命はもうとっくにラミでは干渉できない場所へと至ってしまっている。けれど、このままエイネが戦い続けるのを、見ているべきでないことだけは間違いなかった。

 それこそ本当に、二度とラミの知る彼女とは会えなくなる気がして──。

「迷ってる暇、ねえよな……!」

 無茶や無謀には慣れている。

 あまりにも差のあった幼馴染みを、ずっと追いかけていたのは伊達だてじゃない。

 だからラミは、教会騎士の頂点に立つことができたのだ。

 だから、ラミは今日も同じことをする。

「──《魂源命装オリジナルアート》、」

 ラミは命数術を起動する。

 聖句の詠歌なんて必要としない。ラミにとって、己の魂の在り方をカタチにする程度、いつも当たり前にやっていることでしかないのだから。

 おもいを、繋がりを、そのきずなをカタチに変えることがラミにとっての術の秘奥。

 いつだって、それなら届くと信じてきた。

 届かせてやろうと足掻いてきた。

 そうだ。ラミ=シーカヴィルタに才能とくべつはない。あるのは単に、ちょっと体を動かすのが得意だという自信と、そして神子の幼馴染みであったという偶然うんめいだけ。

 だからどうした。

 それが青年にとって、何より大事な特別だったことに違いはない──。

「おい、エイネ! いつまでも、オレのこと無視して遊んでんじゃねえよ!!」

 そうして、彼は天に向かって鋼糸を飛ばした。

 己が命数を糧に炎が編み上げた鋼。何物にも断ち切ることのできぬ誓いの具現。

「いい加減に降りてこい──この、バカ野郎!」

 縦横無尽の鋼糸が、エイネの体を縛りつけて引きずり落とす。

 エイネは一切の感情を排したまま、無表情でそれを引き千切ろうとした──だが。

「……」

 その糸は、彼の意図は、もう決して切れたりしない。

 青年の内で燃え盛る火炎おもいを、その程度では断ち切れない。

 そのままエイネは、飛行力であらがえず、ラミの下まで強制的に戻された。全身を細い糸で縛られた少女は、その下手人である青年を無表情に振り返った。

 ラミはそのまま戒めを解く。

 なぜいるかもわからない天の使いなど放っておく。

「────」

 エイネはラミを見ていない。

 視線は向いている。その意識を確かにラミへと向けている。

 けれど、見てはいない。

 ラミにとってはそれだけで充分だった。

「お前、本当にエイネか? 違うよな。そうなったらもう、違うだろ?」

「…………」

「そんなタマじゃねえだろ、エイネ。何を勝手に諦めてんだよ。そんなことで投げ出せるほど、お前の……エイネ=カタイストの覚悟は安いもんじゃなかっただろ!!」

 エイネは別に、何かに意識を乗っ取られてこうなったわけではない。いや、もしもその程度なら、きっとエイネは抗ってみせただろう。ラミにはその確信がある。

 エイネの意識は変質し、かつてエイネであった少女が別の何かに変わっている。だからシシューは、奇跡でも起こらなければ不可逆だとラミに伝えたのだろう。

 防御も抵抗もない。それを行う主体である、エイネ自身が喪われては終わりなのだと。

 だが、違う。

 それはエイネという人間のことをわかっていない。

「……どうにも不勉強でな」

 ラミは静かに空を見上げた。

 今のエイネと同じよう、機械的で無機的な双眸を持つ翼の女性が、ラミを高みからへいげいしている。ただ成り行きを見守っているだけで、手を出してくる様子はない。

 さきほどの戦いをラミは見ていた。

 思い返せば、翼の女性にエイネを殺そうとする意志はなかったように思える。

 シシューの言葉通り、彼女が天の使いだとするならば。

 それに至る者がエイネであるとするのなら。

「……あんた。神子の……天命を成し遂げた六人のうちの誰か、なんだな。この惑星を、国のみんなを守るために旅に出て、その末路にこうなった──そういうことなんだな」

 だからエイネを迎えに来た。

 エイネに、彼女たちと同じ場所まで至る命数をいだして。

「──ふざけんな」

 神子に、その果てである使徒に対してではなく、ラミは自分に怒りを覚えた。

 これは確かに裏切りだ。

 こうなるとわかって送り出した教会だけではない。こうなることを知ろうともせずに、であることを無知の免罪符としてかざした全ての人間が同罪だ。

 当然、ラミ自身も。

 シシューが神子をやめた気持ちだってわかる。──けれど。

「……かかってこいよ、エイネ」

 ラミは言った。

 それが、自然な流れだと思ったからだ。

「初めから、オレたちは不可能に挑もうとしてただろ? そこにちょっと予想外があったくらいで勝手に投げ出すんじゃねえ。忘れたのか? お前の夢は、もう、オレの夢だ」

 それこそ勝手な言葉だろう。

 結局、人間性を犠牲に天命へ挑まされるのは神子である者だけ。ほかの人間には挑戦権すら与えられてはいないとしても、そこで立ち止まっていることは事実なのだから。

 だから示す。

 無理で道理を押し込める。

 それが不可能ではないと証明してみせる。

 ──たとえば、騎士が、神子に対して勝利することで。

「だから──……っ!?」

「────!!」

 エイネからの返答は攻撃によるものだった。

 突然の強襲。会話の意志などなく、ただ目の前の邪魔な何かを排除せんとする動き。

 術の発動が異常に速い。

 一瞬で深緋の命火を纏った、少女の腕がおざなりにはしる。たったそれだけでも、それが少女の腕力でも、術による《強化炎》を纏えば必殺の一撃となるだろう。

 小うるさい羽虫を払う程度の意思で。

 ひとつの命数いのちを、摘み取らんとする上位者の行い。

 だが。

「そうだよ、それでいい──!」

 ラミは笑った。

 彼は、ラミの挑戦に、エイネが応えてくれたのだと認識した。

 鈍色の命火が、鮮やかな深緋を受け止める。流麗な、明らかに対人用として意識されたそれは、ヒトのえいが込められたいなしの技術。ラミの訓練の成果である。

「だけど甘ぇぞエイネ! そんなもんがオレに当たると思うなよ!」

 軽く流した打撃。その隙を突いてラミは蹴りを放つ。

 衝撃インパクトの直前にだけ放たれる命火。

 少ない命数で戦うための弱者の技量も、これほどに洗練されれば美しさすら纏う。

 一方のエイネは、それを防ぎもかわしもしない。左の蹴りがまっすぐエイネのどてっ腹に突き刺さり、彼女をわずかに押し出した。そして、それだけだった。

 攻防に使う箇所にだけ、使う瞬間にだけ命火を纏わせるラミと異なり、エイネの命火は常に全力で全身に纏わせてある。技術力だけで見るのなら、明らかにラミが上だろう。

 しかし。そんなまつをゼロに還すのが、圧倒的な才覚の差だ。

 これは逆を言えば、ラミが数年を費やし命懸けで習得した技術に、彼女は生まれ持った才能だけで拮抗しているということ。神子と、ただの人間との埋められない格差。

 もはや才能ですらない。それは単純な生物としての能力差だ。

「っ……今のらって無傷とは参るぜ」

 別に、傷つけるつもりがないとはいっても。

 それでも、普通に当たれば骨くらいは軽く叩き折るだけの一撃だった。纏った命火が、消費した命数に応じ、運命そのものをじ曲げて《破壊》の結果を呼び寄せるからだ。

 当然、防ぐには命数術を使う必要がある。

 けれどエイネはそれをしない。術を使わずとも、ただ垂れ流しになっている命火だけで同等かそれ以上の効果が得られている。──存在そのものの格だった。

 お前如きでは、神子の運命に干渉することなどできない。

 殺すどころか傷つけることも、生かすことも交わることもない。一切影響しない。

 そう、告げられているも同然の光景だ。

「は、そうだよな。こんなもんじゃねえよな」

 だから。だからこそラミは笑う。

 強気に笑みを作っている。

 それがいつだって、彼女に対して向けてきた表情だから。

「そうだよ……こんなもんじゃ、ないだろ」

 大地を蹴り抜き、再びひと息でエイネはラミに迫る。

 それこそ弾丸を思わせる速度。胸の真ん中をめがけて放たれたこぶしは、直撃すれば心臓に大穴を穿うがつことだろう。

 けれど、どれほどの威力と速度があろうと、こうまで単純な攻撃がラミに通じるはずがない。青年はただ、左手を前に差し出すだけで少女の拳を受け止めた。

「────」

 それでもなおエイネにきようがくはない。

 腕を掴まれたまま、ここで、彼女はようやく攻撃術を発動する。握られた拳から、その防御を一切意に介さず火炎を放出し、もろとも殴り飛ばそうとしたところで──。

「無駄だ」

 またしても、その攻撃をラミに防がれた。

 エイネの拳を握る彼の左手が、見れば鈍色に輝いている。金属的なそれは、彼の秘奥である命数術、それによって創り出された鋼糸で編み上げられた、いわば即席の手甲だ。

 命数術《魂源命装》は、己が魂のカタチを、武装として構築させるもの。命数術戦闘における決戦武器。

 彼にとってそれは、決して断ち切れぬ約束つながりいとそのものだった。

 しなやかで、けれど硬く、どこにだって届き、どこへだって繋げられる想いの形。その鋼糸で編み上げられた手甲ならば、発動した術を握り潰すことだって不可能ではない。

 無論、限界は存在する。

 それが命数術による創造である以上、込めた命数を上回る命火には押し流されることもあるだろう。実際、至近距離で熱ある命火をやくさつした結果、余波での負傷は免れなかった。

 それでもラミは不敵に笑って、幼馴染みの少女へと呼びかけ続ける。

「……弱いな、エイネ。そんな雑な攻撃が、オレに通じると本気で思うのかよ」

 そうだ。本当なら、エイネの強さはこんなものじゃない。

 出力が上昇した代わりに、思考能力を奪われていては宝の持ち腐れだ。

 いや、判断はしている。弱い攻撃から始め、通じなければ次、また通じなければ次と、攻撃が意味を持つまで繰り返してはいる。機械的に、無機的に──敵を滅ぼすまで。

 だがそれは、人間をめているからこその行動でしかない。

 感情ではなく理性で下に見ている。だとしても結果は同じこと。本来のエイネならば、ラミを相手に悠長ななど絶対にしなかった。

「いいのか、おい。このままオレに負けて。それで本当にお前はいいのかよ……?」

「────」

「そんなんで本当に、この星を救えるってのかよ──エイネ!!」

 叫び、ラミは攻撃に移ろうとした。

 右の手にも、左と同じく鋼糸を巻きつけて。その硬度を伴って突き出そうとした拳を、けれど直前──彼は止めた。

 刹那の判断だった。

 彼は、そこで気づいたのだ。

 エイネが──本来の、幼馴染みである少女が、今、確かに自分を見ていたと。

 だからラミは、右手を出す代わりに、咄嗟に左腕を引いた。

 胸の中へと少女を抱き留めてみせるような形で。

「────」

 時間が止まり、ラミも、エイネも、何も言葉を発しなかった。

 そんな状態がおよそ、十秒。永遠とも思えるほどの長さでふたりの主観に広がった。

 ラミは言う。

「目、覚めたかよ。エイネ」

「……そうだね。うん、ラミが呼んでくれたお陰」

 少女は、それに確かに答えた。

 変質しかけていた意識が巻き戻って、再び元のエイネ=カタイストに戻っている。

「驚いたな。本当に……本当に驚いちゃった。まさかもう一回、ラミの顔が見られるとは思わなかったから」

「だから、なんでお前はそうやって、ひとりで覚悟してどっか行くんだよ。神子になったときとまったく変わってねえ」

「あはは……ごめん。なにせ急だったし、私も予想はしてなかったことだからさ。こんなことになるだなんて考えてなくて……でも、さすがラミだね。いつも私の想像を超える」

「そうか?」

「そうだよ。こんな奇跡──起きると思ってなかったもの」

 エイネの言う通り、これはひとつの奇跡だった。

 可能性としてあり得ざる結末だった以上、そう呼んで差し支えないだろう。

 神子の変化は、エイネがそう悟ったように、本来不可逆のはずだった。天命を達成するということは、すなわち人間をやめ、神の使いとして生まれ変わる能力を得ること。

 こうしてエイネ=カタイストという個人が復活することはあり得なかった。

 ──問題はふたつ。

 ひとつは、その奇跡がいったい何によってもたらされたのかという点。

 ラミの呼びかけによって。その友情と、親愛とが、奇跡をもたらしエイネの意識を呼び戻したのだとしたら。なるほどそれは、確かに感動に値するものではあっただろう。

 だが、違った。

 現実は、そんな曖昧な奇跡など決して許さない。


「──そうだよね。本当、こんな奇跡が起きるとは思わなかったもの」


 その声は、ふたりの上空から降り注いだ。

 にもかかわらず、ふたりは初め、それを脅威として認識することができなかった。

 あまりにも自然な声音。

 あまりに希薄な存在感。

 何か、声のようなものが聞こえた気がする。

 その程度の、本当に些細な引っかかりで、ふたりは顔を上げたに過ぎない。あり得ざる存在がそこにいる事実を、ふたりはじかに目にするまで知ることができなかったのだ。

「ま、だからって愛とかなんだとかが呼び寄せたなんて言い切るのは傲慢だよね。奇跡に相当する理由としては、ちょーっと弱いかなってわたしは思う」

 ──使徒がいた。

 さきほどエイネと戦っていた金髪白翼の女性だ。

 けれど、さきほどまでと印象がまるで違う。それこそ本当に人のような感情が見える。

「結局これって才能よね? まったく、せっかく呼ばれたから来たってのに──わたしを殺そうとしてた子は帰っちゃうし、時期だから迎えようとした子は戻っちゃうし。とんだ無駄足になっちゃった。けど、まあ……その代わりに、面白いものは見られたかなっ」

 誰だ、と。同時にふたりは疑問を抱き。

 そこまで至ってようやく、目の前に怪物がいるのだと理解した。

「──っ、ラミ──!」

「なん、だよ……こいつ!?」

 それがさきほどまでの女性と同じ人物だとは思えない。

 どちらも同じ容貌。敵意を感じないことも、強大な命数を持っていることも同じ。

 だが、──ここまで常識から逸脱した命数は持っていなかったはずだ。

 たとえるならば、そこには惑星がひとつ浮かんでいる、と言ってしまっていいだろう。

 人間がどうこうではない。単一の生命が持っていていい命数の量ではなかった。こんなもの、世界ひとつ分が丸々そこに浮いているのと何も変わらない。

 命数術師であるふたりだからこそ、その異常に気がついてしまった。

 意識できなかったはずだ。小さすぎるものに気づかないのと逆のこと。これほど強大なもの、認識の次元に当てめられなくても無理はないだろう。

「こんなこと、この八百年近い歴史の中でも初めてだよ。本当に才能があるんだね。歴代六人の大灯師と比べても、キミがいちばん才能があるんじゃないかな?」

 れんな笑みで彼女は話す。

 一方的に、遥か高みからかけられる声は、慈愛と好奇心が同量に滲んだもの。

「自分の命数でプロテクトしたんだよね、彼という存在の記憶を。薄れてく人間性の中でただひとつ、最後まで守りたいものが他人だったなんて本当に変わってる」

「……貴女、は」

 訊ねたラミに、女性は答えない。

 人間如きの反応など、意識に留まらないのだ。あまりにも小さすぎるがゆえ。

「自分より大事なものが目の前にあったから自分を取り戻せた。もちろん、キミの優れた才能あってこそだけど……あははっ。その意味じゃ、その男の子がいた意味もあったかもだねー? なーんかあっつく叫んでたことじゃなくて、ただその場にいたって意味で! あしまといだもんね! 守るべき弱者だもんね! うんうん、神子はそうじゃなくっちゃ」

 ラミの奮戦に意味などなかった、と彼女は言っている。

 あくまでエイネの才能が、この結果を呼び寄せたに過ぎないのだと。

 青年の──人間のわいしような足掻きなど、世界に対して意味を持つはずがない、と。

「だけど、どうかな? どうだろ。それって本当にしあわせなことかなあ? わたしにはわかんないな。なんたって前例がないからね! けどけど、ひとつ言えるのは──そんなちょっとの時間稼ぎ、たぶん人間にとってはあんまり面白いものじゃないと思うってコト。いやね、ほら。わたしだって悪魔じゃないし。使徒だし! だから、人間の気持ちだってきちんと慮ってあげられるんだよ? どうせ別れが決まってるってのに、ずるずる長引くと最後につらくなるって、わたしは思うんだけど──どうどう? ね、当たってた?」

 無垢と無邪気が煮詰められ、合わさることで残酷さを生んでしまったような。

 いや。あるいはそれこそが慈悲であるかのような。

 これはそういう隔絶だ。声を聞くにつれ浮き彫りにされる超越性で、気分が悪くなる。

「あっれ、返事なし? それは悲しいなー。まあでもいっか! わたしもそんなに長くは表層に出てられないし。あっはは! ていうか、本当は出てきちゃダメだったんだっけ? そろそろ怒られちゃいそうだし、充分に堪能したってことにしとこっかなっ!」

 天からふたりを見下ろす女性は、それだけを言うと翼を消し去った。

 畳んだのではない。初めからなかったみたいに消えている。

 その身体からだが、ゆっくりと上に向かっていった。これから空に向かおうかという様子で、にもかかわらず翼を消している。

「──待ってくれ!」

 それを、エイネが大声で呼び止めた。

 けれど女性は応えなかった。

「じゃ、エイネちゃん。また会おうね。わたしは北の果てで待ってるからさ。もう全ての事情は──この惑星の延命のシステムは理解したでしょう? 答え、楽しみにしてるよ」

 そこまでだった。

 次の瞬間、天の使いであった女性は、まるで空気に溶け込むかのように掻き消えた。

 本当に姿を消したのか、そうとしか認識でないほどの速度だったのか。

 それはわからない。

 いや、この期に及んでラミにわかることなど、ひとつもなかったと言っていい。

 彼がこの場で認識した最後のことは、女性が消えた瞬間、エイネもまた意識をぷっつり落とすかのようにその場へ倒れ込んだことだ。

「エイネ? おい──エイネ!?」

 咄嗟に彼女を抱え、呼びかけるも、今度こそ返答はなかった。

 どうやら眠っているようだ。あるいは命数を使いすぎたせいかもしれない。

 本来、それは神子には起こり得ない事態なのだが。

「……くそ。わけがわからねえ……!」

 頭を抱えるラミ。

 この場に──さらなるちんにゆうしやが現れたのは、そのときだった。


「わからねえなら説明してやる。ほら、こっち来いよ。なあ、──バカ弟子ども」

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