セシリアは逃げていた。
差し入れを持ってくる後輩から。
執拗にボディタッチをしてくる同級生から。
隙あらばベッドに誘い込もうとする先輩から。
「もー、無理! マジ無理!!」
彼女は逃げていた。
セシリアが講堂でやらかしてから二週間。
彼女たちの『騎士に選ばれた王子様(?)』への熱は最高潮に達していた。常に追いかけ回されるセシリアにプライベートな時間なんてものは一切なく、どこに行くのにも、何をするのにも、いつもそばに誰かがいた。
当然そんな状態なので、ギルバートとの作戦会議もあれ以来行われていない。
プライベートな時間がなくても、常に気を張った状態でも、セシリアだって最初のうちは我慢ができた。彼女らの熱は一過性のものだとわかっていたし、時期が過ぎればまた以前のような状態に戻ると思っていたからだ。しかしそれが、一日、また一日と積み重なっていくうちにセシリアにも我慢の限界が訪れ、この度逃げるような事態に陥ってしまったのだ。
「セシル様、待ってくださいませ!」
「今ちょっと急いでるからごめんね!」
追いかけてくる女生徒を振り切り、セシリアは中庭に逃げ込む。植え込みの陰に隠れれば、セシリアを追いかけまわしていた女生徒が「どこに行かれたのかしら……」と悩ましげな声を出しながら目の前を通り過ぎた。
「やっと一人になれた……」
植えてある木に背中を預けながら、そう零す。
「リーンを誰かとくっつけないといけないのに、この状態じゃ動けないよー」
セシリアがギルバートの一票をもらってしまったので、リーンにはなんとしても誰かと恋仲になっていただき、宝具を受け取ってもらわないといけなくなった。幸いなことにリーンとセシリアは同じクラスで、行動も起こしやすいと思っていたのだが、今のこの状況では動きたくても動けない。彼女が自ら動いてくれるのが一番だが、今のところその兆候は見られなかった。むしろ……
『移動教室ですね。一緒に行きませんか、セシル様』
『セシル様、お隣良いですか?』
『この問題はどうやって解くのか、教えてくださいませんか。セシル様』
セシル様、セシル様、セシル様、セシル様……
リーンはなぜか攻略対象のキャラクターよりもセシルにかまってくるのだ。確かに彼女から見れば、セシルは騎士なので攻略対象なのかもしれないのだが、現実にはセシルルートどころかセシル自体存在しないのである。
「リーンに冷たくしたいけど、それはそれでセシリアの人生をセシルでなぞるだけのような気がするしなぁ……」
それではせっかく男装した意味もなくなってしまう。
「ま、恋愛イベントの三つ目までは好感度関係なしで確実に起こるし、それが終わってから考えても……」
「にゃぁん!」
「『にゃぁん』?」
背後から聞こえてきた鳴き声に、セシリアは思考を中断し、振り返った。そこには一匹の小さな猫がいた。短足で、茶色と黒の入り混じった毛。まだ足取りもおぼつかないような可愛らしい子猫だ。
「わっ! かわいい!! マンチカンかな。ふわふわねぇ!」
「にゃぁ」
人に懐いているのか、セシリアが抱き上げても子猫は少しも嫌がらなかった。
白いお腹を顔にくっつけると、太陽の香りがしてくる。
「あら、あなた。足のところちょっと怪我してるのね。どこかで切ったのかしら……」
ちょっと待ってね、とセシリアはポケットを探り、薄ピンクのハンカチを取り出した。
そして、血が滲んでいる猫の足に、そのハンカチを巻き付ける。
「これでよしっと! 後で保健室に寄ってみようか。もしかしたら消毒薬ぐらいならあるかもしれないし! あ、でも、人用の消毒薬って使ってもいいんだっけ?」
「にゃぁん?」
「モードレッド先生に聞いてみようね。あの人博学キャラだから、大体何でも聞いたら答えられると思うし!」
「うにゃ!」
鼻の頭を撫でれば、まるですり寄るように猫は頭を押し付けてきた。かわいい。
その時だった。セシリアが隠れている生け垣の向こうで誰かの話し声がした。一人は可愛らしい鈴をころがすような声、もう一人は威圧的なバリトンボイス。どちらの声にも聞き覚えがあった。
セシリアは生け垣の隙間から声の主を覗き見る。
すると、そこには二人で薔薇の花を見る、オスカーとリーンの姿があった。
オスカー・アベル・プロスペレ。
彼はこの国の王太子であり、公爵令嬢セシリア・シルビィの婚約者だ。深い紅色の髪に、ナイフのように鋭い目。顔の作りは端整だが、その分冷たい印象を受ける相貌。手足は長く、王族特有のオーラが彼の身を覆っていた。
(うわぁ。ヤバい場面に出くわしちゃった……)
セシリアは二人に見つからないように、身体を小さくさせた。これはリーンとオスカーの最初の恋愛イベントだ。
神子候補という大変な運命を背負いこんでしまい、困惑するリーンと、王太子であるオスカーが中庭で出会うシーンである。
『苦しい役目を背負っているとは思うが、共に頑張っていこう。少なくとも俺は、セシリアより君の方が神子に向いていると思う。苦しい現実に背を向けることなく、悩み苦しむ君の姿はとても可憐だ』
オスカーは戸惑うリーンに、そんな励ましの言葉を贈る。
(オスカーは最初からリーンのことが大好きなのよね。それで、誰よりもセシリアのことが嫌い、と……)
意にそぐわぬ婚約者であり、自分とリーンの仲を邪魔する最大の敵であるセシリア。彼はセシリアの婚約者でありながら、誰よりも彼女のことを嫌悪している。
一方のセシリアはオスカーのことを慕っており、その嫉妬故にリーンを傷つけてしまう。それがオスカーの逆鱗に触れ、投獄され、処刑されてしまうのだ。
実は、この『リーンを傷つけ、投獄され、処刑される』という流れはオスカールートじゃなくても頻繁に出てくる。そのほとんどにおいて、セシリアを処刑台送りにするのはオスカーだ。
リーンが他の誰かとくっついても、彼はリーンのことを想い続ける。なんという純愛なのだろうか。しかし、それ故にセシリアはどのルートでもオスカーに嫌われ続けるのである。
(オスカーだけにはかかわらないようにしないと。特に、このイベントはヤバい……)
この恋愛イベントには続きがある。なんと、途中でセシリアが乱入してくるのだ。
いい雰囲気になった二人の前に、セシリアは突如現れる。そして、いきなりリーンの頰を叩くとこう叫ぶ。
『人の婚約者になに色目を使ってるのよ、この女狐め!』
オスカーは怒るセシリアを諫め『君には心底失望した』とリーンの肩を持ち、その場を立ち去るのである。セシリアはこの出来事を機に、さらにリーンを敵視するのだ。
この時の話は後々にも何回か出てきて、セシリアにあらぬ疑いが向いた時『ああいうことをする女だから、犯人に違いない』とやってもいないことの犯人にされてしまう。
(よし! 逃げよう!)
このままここにいて、何かの拍子にこのイベントを邪魔してしまったら、せっかく男装までしたのにセシルはゲームの中のセシリアと同じ道を辿ってしまうかもしれない。
セシリアは身体を低くしたままそっと立ち上がった。
しかし、次の瞬間、腕の中にいた猫が飛びあがる。
「ぎゃっ!」
子猫はセシリアの頭を踏み台にし、あろうことかリーンとオスカーの元へジャンプした。
セシリアはその反動で後ろに倒れこんでしまう。
「なっ!」
「きゃぁ!」
生け垣を支えにしてブリッジをするような形になったセシリアは、ひっくり返った視線で、おののく二人を見つめる。
(や、やってしまった……)
子猫はリーンの腕に収まっており、「にゃぁ」とご機嫌に一鳴きした。
「……聞き耳でも立てていたのか?」
冷たい目でオスカーに見下ろされ、全身が震える。きっとリーンとの逢瀬を訳の分からない男に邪魔されて気分を害しているのだろう。
そう、この時点でオスカーのリーンへの好感度は、八割方埋まっているのだ。
そんなに好きなら宝具渡してくれよ! とは思わないでもないが、その辺はゲームの仕様だろう。仕方がない。
「あはは……ちょっとそこの木のかげで転寝してまして……」
「……ほぉ……」
苦し紛れの言い訳に、オスカーは目を眇める。当然ながら信じてもらえていない。やばい。
「セシル様、大丈夫ですか?」
天使の笑みを浮かべながら助け起こしてくれたのは、リーンだった。
いつもなら絶対に関わりたくないと思うのだが、絶対零度の息しか吐かない北風が傍にいるので、彼女の微笑みが温かい太陽のように思えてしまう。
「ありがとう」
「いつもかっこいいセシル様でも、こんな失敗をなさるのですね。なんだか親近感を覚えてしまいます」
「そ、そうかな?」
「…………」
(北風が! 北風からの視線が辛い!!)
オスカーは穴が開くのかというぐらいに、じっとセシリアを見つめていた。
(な、なに!? 『俺のリーンに近づく奴はどんな奴だ!?』ってこと? 近づきませんから! もう退散しますから!!)
「あのー。俺、帰りますね。お邪魔して、すみ……」
「もしよかったら、セシル様もご一緒に話していかれませんか? 実は私、以前よりセシル様のことをもっと知りたいと思っておりまして。オスカー様もよろしいでしょう?」
「……そうだな」
(全然よろしくなさそうな返事!!)
「そ、それはまたの機会に致しましょう! ではっ!!」
北風の視線から逃げるように、セシリアはその場をあとにした。
セシリアが去って行ったあと、残された二人は互いに顔を見合わせた。
「行ってしまわれましたね。もう少し話してみたかったですのに……」
「そうだな。それにしても、あの顔、どこかで……」
オスカーは顎を撫でながら何かを考えているようだった。
その時、リーンの腕の中にいた子猫が「にゃぁ」と可愛らしく鳴く。そして、彼女の腕から飛び降りた。瞬間、足に巻き付いていたハンカチが外れ、ひらりと宙に舞う。
「この猫、先ほどセシル様が連れていた猫ですわよね。あれ? なんだか怪我をして……」
「ハンカチで手当てをしていたんだな。このままでは取れてしまうから、ちゃんと包帯を巻くなり、消毒をするなりした方がいいだろう。……って、このハンカチ」
オスカーは猫の足についていたハンカチを拾い上げると、顔をしかめた。そのハンカチに見覚えがあったのだ。
「アイツは、一体……」
オスカーは苦々しい顔で、セシリアが去っていった方向をじっと睨みつけた。