『大変だわ! あの人、正気を失っている!』
いきなり講堂で暴れだした生徒を見ながら、リーンは顔を青白くさせた。
そんな彼女を支えるように、学院の保健医であるモードレッドが隣に立つ。彼の手首には先ほど国王からの使者が持っていた宝具が巻き付いていた。彼は騎士に選ばれたのだ。
『あれは「障り」ですね。私も見るのは初めてですが、人に取り憑く魔物のようなものだと聞いています』
さらにもう一人、リーンの傍に並び立つ者がいた。この国の王太子、オスカーである。
彼の手にも同じように宝具が巻き付いていた。
『俺も文献で読んだだけだが、「障り」は神子の力が弱まった時に現れるものらしい。以前の選定の儀の際にも現れ、その時は神子候補と騎士たちの手によって鎮められたと書いてあった』
『でも、神子候補って誰が……』
リーンは左右を見回す。先日まで平民だったリーンでも神子のことは聞き及んでいる。この国を陰から守っている聖女のような存在なのだと、絵本で読んだことがあった。
その神子候補が生徒たちの中にいる。しかし、生徒が暴れだしたのは使者が説明している最中だ。まだ誰が神子候補なのか、わかってはいなかった。
『君が神子候補なんだね』
『え?』
明るい声が背後からかかり、いきなり手を取られた。その手には先日から不自然に浮かび上がってきた痣がある。まるでスノーフレークのような歪な形をした痣だ。
彼女の手を取ったのは、先ほどまでリーンの斜め後ろにいた青年だった。ふわふわとした短い茶色い髪の毛も相まって、まるで犬のように見える。並んでいた位置からいって、同じクラスなのだろう。
『ボクはジェイド。どうしてか、君を守る騎士に選ばれたみたいだ』
そう言って掲げた手首には、また銀色に光る宝具があった。
『えっと、ジェイド。どうして私が神子候補だって……』
『え、知らない? 神子候補には選定の儀が行われる前に、こういう花の模様の痣が浮かび上がるんだ。だから、ボクには君を守る義務があるってわけ』
『神子……』
リーンは狼狽えた声を出した。
先日まで身寄りがなく救済院にいたのに、いきなり男爵の落胤だとわかり、貴族になった。そして、今度は神子候補である。狼狽えてしまうのも無理はない。
『それならば話は早い。私たちと一緒にあの「障り」を祓おう! 力を貸してくれないか?』
『君の力が必要なんだ』
モードレッドもオスカーも強い眼差しでリーンを見つめていた。
彼らの熱い視線を受け、リーンの胸にも使命感が沸き上がってくる。
『私の力でよければ……』
リーンは一歩前に踏み出す。
そうして見事、彼らは最初のお役目を果たしたのだ。
──と、いうのが本来のプロローグの在り方である。
「あああああああー!! 前世の私っ!! なんでプロローグを蔑ろにしたんだぁ!! 覚えておけば! 覚えておけば、こんなことには……」
華麗なるリーンの神子候補デビューをかっさらい、更に騎士であるギルバートの宝具を一つ手に入れた、神子候補セシリアは頭を抱えながら唸っていた。
その隣にはやはり呆れ顔のギルバートがいる。
時間は昼食時、二人はいつもの温室に昼食であるサンドイッチを持ち込み、作戦会議という名の大後悔大会を繰り広げていた。
「もう起こったことだし、後悔しても仕方ないでしょ。それより、早く食べないと次の授業に遅れるよ」
いつも以上に冷静な声色でそう言うギルバートを、セシリアは涙目で睨む。
「ギルは事の重大さをわかってない!」
「と、いうと?」
「選定の儀は神子候補同士の票取り合戦って言ったでしょ。私にギルの一票が渡ったということは、私がリーンよりも一歩先んじてしまったということなのよ! このままリーンが誰ともくっつかなかったら、私が神子に選ばれちゃうの!!」
その場合、セシリアは教会に洗礼を受けに行く道中、盗賊に襲われて死んでしまう。そして、この国から神子はいなくなり、国自体が『障り』に侵され衰退し、滅んでしまうのだ。
思いがけない結末を聞き、さすがのギルも頰を引きつらせる。
「姉さんが死んで、国が滅ぶとか……」
「なに、その反応」
「普通にひいてるんだよ。まさか、そんな大ごとになるとは思わないでしょ」
セシリアは今まで、ギルバートに自分の未来を『お先真っ暗』や『破滅』や『悲惨』という言葉で表現してきており、具体的な説明はしてこなかった。なので、今回聞かされた未来の話をギルバートは驚きとともに受け止めているようだった。
逆に、どうして具体的なことを一切聞いていないのに、協力してくれたのかは謎である。
「それなら、宝具渡さない方がよかった?」
「そんなことない! あの咄嗟の判断は本当にありがたかった! あれがなかったら、正直、あの時点で詰んでたからね!」
あの場でギルバートから宝具を受け取らなかったら、周りからは『障り』を祓える謎の人物として認識され、ひいては身体検査の後、女だとばれてしまっていただろう。そうなれば、セシリアはもう神子候補になるしかなくなり、そしてどう頑張っても逃れられない破滅ルートに直行していたと思うのだ。
なので、あそこでのギルバートの判断は正しかったし、何度感謝してもしきれない。
今こんな事態に陥っているのは、ひとえにセシリアの前世──神崎ひよのがプロローグを章ごとすっ飛ばしていたせいである。
「ギルこそ、宝具、私に渡してもよかったの? 一世一代のチャンスだったのに……」
セシリアは首をかしげる。
神子直々の聖騎士に選ばれるのは、この国で最も名誉なことだ。聖騎士の身分は他の貴族より上、国王より下という位置づけになるからである。
しかし、神子になる意思のないセシリアに宝具を渡したということは、ギルバートはその権利を丸ごと放棄したことと同意だった。
「別に。そういう権力とかあんまり興味ないし。……それに、元々姉さんにしか渡す気がなかったから」
そう言いながらサンドイッチを頰張るギルバートは、なぜか少しブスッとしていた。まるで恥ずかしいのを隠しているかのような表情にも見える。
(そういえば、ギルは少し人見知りなところがあるのよね。リーンにはまだ出会ったばかりだし、ちょっと近寄りがたいのかも……)
屋敷にいた頃もそうだ。セシリアに毎回花を持ってきてくれる庭師のエルにも、剣術や体術を教えてくれていた兵士のハンスにも、家令の息子で、セシリアの面倒をよく見てくれたドニーにも、彼はとても冷たかった。近づこうともしなかったし、話しているところもあまり見かけたことはない。義姉であるセシリアが近づくのもすごく嫌がった。
ゲームの中でもそういうシーンはあった。
根暗でひきこもり青年のギルバートは、最初、リーンに全くと言っていいほど心を開かない。授業にもあまりちゃんと出ない彼を世話することになった彼女は、彼の心を解きほぐそうと試行錯誤を繰り返す。そうして、何度追い返しても諦めない彼女に根負けした形でギルバートはだんだん絆されていくのだ。
『きっと、俺は出会った時から君のことが好きだった。一目惚れだったと思う。俺をあの暗い部屋から連れ出してくれてありがとう。世界を広げてくれてありがとう』
そう愛を告白するシーンは、涙なしでは見られないほどだ。
ちなみに、別の攻略対象の恋愛ルートに進むと、彼の性格ゆえか全くストーリーに絡んでこなくなってしまう。最初からいなかったかのように存在が消えてしまうので、ギルバート推しのプレイヤーたちはSNSで嘆いていたほどだ。
セシリアはギルバートの肩を励ますように叩く。
「この学院生活で、ギルも少しは人見知りを直さないとね!」
「人見知り? なんの話?」
「ほら、本当はリーンとも仲良くなりたいんでしょ! 一目惚れだもんね! 好きな人には声をかけられないその気持ち、よくわかるよ!」
「俺は姉さんが何を言ってるのか、ちょっとわからない……」
怪訝な表情を浮かべる彼に、セシリアは満面の笑みを向けた。
「大丈夫、お姉ちゃんに任せなさい! でも、リーンとは極力関わりたくないから、後方からの援護射撃だけにはなると思うけど、相談にはいくらでも乗ってあげるからね! いつでも頼ってきてね!」
ギルバートは義姉の言葉に何も答えない。ただ半眼になって『こいつもう駄目だ』というような呆れた表情を顔に張り付けていた。