第四章 言葉は消えても契約は残る ⑧
8
西の街の門で受付を行ったのが奏功して、契約は順調に増えていった。出入口に立っているだけで街を出ていく金持ちと貴族が立ち寄って契約してくれるおかげで、ルン達はそこに立っているだけで契約と集金を完了することができたのだ。
夕刻前には西の街から住人はきれいさっぱりいなくなり、街を守っていた帝国軍の兵士達も、彼らの護衛という大義名分に託けて街を出ていった。後に残ったのは東の街の中間層と外円の街の貧民、そして途方もない大金だった。
「契約件数は六四〇〇件、集金総額は六四〇億バルクになりました」
東の街の郊外にあるルン達の住宅。ソファに座るクロアを前に、名前をびっしりと書き連ねた数十枚の紙束を手にしたルンが集計結果を告げた。
「このうち保険金を全額支払ったとして、手元に残るのは約二九〇億バルク。これが手切れ金です、クロアさん」
「なるほど、十分だな」
クロアは口元を微かに緩めて頷いた。
「念のため確認しておくが、西の街の連中には一バルクも返さなくて良いんだな?」
「構いません。エルフに街を襲われた後なら、クロアさんの消息を追うことも難しいでしょうから、何とか逃げ切ってください」
清算してもらうのは死亡保険の保険金だけ。あの貴族と金持ち達には、何一つとしてくれてやるつもりはない。貴族は爵位があれば生きていけるし、成金連中だって財産の一切をこの街に置いて逃げることはない。実際のところ、街を出ていく馬車には例外なく紙幣の束を詰めたカバンやら高そうな家財道具やらを積んでいたのだから、全財産を置いて逃げた者などいないはずだ。返さなかったとしても彼らの致命傷にはならないと見込んでの、ルンからの細やかな仕返しだ。
「なら、大陸を出て島の同胞にでも頼るとしよう」
クロアも納得したようにそう言ってから、物憂げなため息とともに続けて言った。
「金持ちどもの不安につけ入って、これほどの大金をせしめる商才を手放すのは実に惜しいが、君達の熱意に免じて要望は聞き入れよう」
「ありがとうございます。まぁ、我々は死ぬつもりはないんで、帰ってきたら取り分として半分もらいますけどね」
死ぬつもりはない。クラウ達を連れて、生きて帰ってくる。ルンはその覚悟だし、トーナもそれは同じだ。
「君達が生きて帰ったら、その時は私の取り分が三〇億増えるな?」
「そうですね。保険金を払う場合は、全部こちらの取り分から払いますし」
確認のような問いに、ルンは相槌を打つ。クロアは傍に立つマナリアの方に横目を向け、鼻を鳴らした。
「三〇億のための賭けとしては、まぁ悪くないな」
「どういうことですか?」
クロアの独り言を聞き咎めるルン。クロアは構わず、傍に控えるメイドに命じた。
「マナリア、彼らと同行しなさい」
「承知しました」
恭しい一礼で応じるマナリア。訳が分からないとばかりに固まるルンに、クロアが答える。
「マナリアは弓と魔法の心得がある。実力なら、自衛団の二等団員には劣らん。連れて行きなさい」
「良いんですか?」
「君達が生きて帰る方が、私には大きな得がある。そうなるように最善策を講じるだけのことだ」
「クロアさんも素直じゃないね~。あたし達に死んでほしくないって、正直に言ってくれてもいいじゃん」
玄関からトーナとセリアルがやってきた。軽口を叩いたトーナは、いつもの女子高生らしいブレザーとスカート姿だが、ダットサイトを取りつけた自動小銃を手に提げて、背中には対戦車ミサイルのジャベリンを背負っている。
「可能性の考えられる利益の最大化こそが我々の求めるものだ。情に流されて判断を誤るようなことはない」
これ見よがしの臨戦態勢には触れず、クロアは澄まし顔で言った。
「ということは、あたし達が生きて帰ってくるって信じてくれてるわけだ? ルンさんも人誑しだね~」
「ていうか、その装備は何なの?」
「相手はクラウさん達でも手こずるような大物だよ? こっちもコマンドーのつもりで臨まないと。ちなみにこのジャベリン、魔力に反応する改造版だからね。どんな魔族もこれでイチコロだよ!」
一体いくら使われたんだろう。そんな不安を、ルンは咳払いで誤魔化した。
「それで、オルガンティノさんは何て?」
「二つ返事で引き受けてくれたよ! 『昨日の借りを返せる』って、おじいちゃんがやる気満々で!」
親指を立てて得意満面のトーナに、同行したセリアルが契約書を差し出して続く。
「他にも一六人の方と契約できました。二等団員の方が一〇人で、残りが三等団員です。報酬は一律、一〇〇万バルクです」
「ありがとう。後はそいつらが、約束すっぽかして逃げたり、空き巣みたいな真似をしないことを祈るだけだね」
「トーナさんが『地の果てまで追いかけて殺す』と脅していたので、多分その心配はないと思います」
苦笑しながらの報告に、ルンも同じように笑って、契約書を受け取る。
西の街が盗賊に荒らされて、置いていった財産が奪われては、住人達が当初の約束を忘れて文句を言ってくるかもしれない。今後西の街に保険を売り込むなら、彼らの好感度を稼いでおくことも重要だ。
そんな企みから考案したのが、無人となった西の街の警備だ。人員はオルガンティノ一家を筆頭とする自衛団の腕利きどもで、報酬は一〇〇万バルク。期限は明日の朝までで、それまでにルン達が戻らなければ、その後はクロアの護衛として彼についていくように伝えてある。鼻持ちならない西の街の連中の資産をここまでして守ってやる義理などないが、これで連中の信用を買えるのであれば安いものだ。
「それと、治療保険の報酬前払いの件なんですけど……」
セリアルが何やら心配そうに切り出した。
「本当にあんなに払って良かったんですか? みんなびっくりして最初受け取ってくれませんでしたけど……」
治療保険の加入者全員に、最大一〇回分の治療を提供するため、セリアルと一緒に手伝ってくれていたアルバイトの子達にその分を前払いしておく。そんなトーナの提案に二つ返事で快諾したのはルンだったが、セリアルの物言いが気になった。
「トーナちゃん、いくら払ったの?」
「一〇万ドルポンとくれたぜ」
「ベネットの真似しなくて良いから。え、まさか一〇〇〇万あげたの⁉」
「だからそう言ってるじゃん」
不満顔のトーナを前に、血の気が引いていく。
「払い過ぎだよ! 治療保険入ってる人の分だけ払うんだよ!」
「だってルンさん、一〇〇〇万くらいって言ってたじゃん」
「多くても一〇〇〇万って意味であって、そのまま払ってなんて言ってないよ!」
死亡保険と一緒に治療保険に加入した人もいれば、そうでない人もいる。その精査は必要だが、トーナは数学が得意だから、とりあえず顧客名簿を持たせて送り出したのだが、彼女の大雑把な性格が勘定から抜けてしまっていた。
「え、ていうか金残ってるの……?」
治療保険の報酬に自衛団への報酬と、この辺りは自腹で何とかなりそうな金額だったからクロアとの取引には勘案していないが、これだけの大盤振る舞いに加えて魔改造ジャベリンまで買っているとなると、さすがに赤字の心配が出てくる。
「明日からりゅーのすけとりゅーこに魚獲りを練習させよう!」
満面の笑みで開き直るトーナの言葉で、全てを察した。
「ま、まぁ、メリディエスの魔族を倒せば報酬もありますし、私も頑張りますから!」
セリアルがそう言って励ますと、
「え、セリアルは留守番じゃない?」
「え⁉」
思わず声を上げたセリアル。トーナと一緒にルンの方を向いて、答えを求めてくる。
「俺もセリアルちゃんには残ってもらうつもりだったよ。さすがに相手がヤバそうだし」
この辺りの魔族を相手にするのとは勝手が違う。クラウ達でも歯が立たないような相手だ。万一のことを考えれば、セリアルを危険に晒すわけにはいかない。