第1話 仙台さんの価値は五千円以上でも以下でもない(2)
◇◇◇
「仙台さん、やめて」
五分くらい。
もしかすると十分くらいだったかもしれない。
時間を計っていたわけではないからよくわからないが、それくらいの時間が
「仙台さんっ」
さっきよりも強い声で言う。
痛い。
やめて、という言葉に従わなかった彼女は、ぎりぎりと肉に歯が食い込むほど私の足の指を嚙んでいる。
「命令以外のことしないでよ」
視線の先に、彼女のつむじが見える。
抗議するように仙台さんの頭を
「やめてって言ってるじゃん。終わりにして」
仙台さんが顔を上げ、ソックスを手に取る。
「足、貸して。はかせてあげる」
乾燥していることが当たり前の部分が濡れている感覚というのは、あまり気持ちのいいものじゃない。ずっと舐めていてほしいわけではないからソックスをはくことに異論はないけれど、どちらが命令しているのかわからない言葉には異論しかない。
「はかせなくていいから、こっちも脱がせて」
そう言って左足を仙台さんの太ももの上に乗せると、彼女は黙って従った。
「で、
「まあ、それなりに」
仙台さんは雑誌に載っているモデルほどじゃないにしても、整った顔をしている。そんな人の舌であっても足を舐められる感触は面白いものではなかったが、仙台さんが私の足を舐めているというシチュエーションはかなり面白かった。
「宮城って、変態だよね」
「命令通りに足を舐めるほうが変態でしょ」
「学校で宮城に足を舐めろって命令されたって言ったら、みんな宮城のほうが変態だって言うと思うけど」
「そしたら、仙台さんが命令通りに足を舐めたって言うから。みんなにどっちが変態か決めてもらえばいいんじゃない?」
「宮城のほうが最低で変態でしょ」
「仙台さんだと思うけど」
今日、彼女に命令したことを学校でバラされたら、ギリギリ二軍の落ちこぼれから最底辺へ真っ逆さまに落ちていく。今あるそれなりに普通の生活は確実になくなる。でも、それは仙台さんだって同じだ。
だから、最低で変態だってかまわない。
どうせ、仙台さんだってここでは最低で変態の仲間だ。
「じゃあ、私と宮城、どっちが変態か、明日学校で聞いてみようかな。……なんてね。この部屋でしたことを学校で話すのは契約違反だし、言わないから安心して」
最初に決めたいくつかのルール。
五千円を払って仙台さんを私の好きなように扱うための決まり事はいくつかあって、その中には放課後にあったことは誰にも話さないというものがある。
だから、さっきのことはみんなが見ることのない秘密の遊びで、私はもちろん仙台さんも誰かに言うはずがない遊びだ。
「宮城、他に命令は?」
「ない」
言い切って、私は立ち上がる。
冷たい。
部屋は暖かいけれど、足がぺたりとついた床は暖かくはない。でも、さっき私の足を舐めた彼女の舌は、熱くて、柔らかくて──。
私は小さく息を吐く。
「なにか飲む?」
テーブルの上、空になったグラスを見て尋ねると彼女は「いらない」と短く答えた。
「夕飯、食べてく?」
帰る。
私は彼女がそう答えると知っている。これまで何回かした同じ質問は、すべて同じ答えを返されていた。だから、今日だけ違う答えが返ってくることはないはずだ。それに、食べると答えられても困る。
それでもなんとなく問いかけた結果、私は初めて「食べる」という言葉を耳にすることになった。
「なにこれ?」
「カップラーメン。見てわからない? もしかして、お金持ちの仙台さんはカップラーメン見たことがないとか?」
「カップラーメン見たことがないくらいお金持ちだったら、今の高校じゃなくてごきげんようって挨拶するような学校に通ってるんじゃない?」
ブランド品を身に着けているというわけではないが、品の良さそうなものを持ち歩いている。おそらく、夕飯にカップラーメンが出てくるなんてことはないはずだ。手作りの夕飯を食べているに違いない。
家族に愛されていそうな仙台さん。
本当なら話をすることすらなかっただろう仙台さん。
──吐き気がする。
私は、二人分のお湯を沸かす電気ポットをじっと見る。
「それに、カップラーメンくらい食べたことあるし。あっ、もしかして宮城家って貧乏?」
「仙台さんに週に一、二回五千円払っても困らないくらいお小遣いもらってるけど、それが貧乏なら貧乏なのかもね」
からかうように言った仙台さんに、素っ気なく答える。
夕飯にカップラーメンを出すような家だけれど、それは我が家にお金がないからじゃない。金銭面で言えば、裕福と呼ばれる部類に入る。
「……まあ、貧乏とは言えないね。で、夕飯これなの?」
「お弁当のほうがいいなら買ってくるけど。それとも、家に帰って食べる? 私はどっちでもいいけど」
母親がいないから。
そして、私に料理を作る才能がないから。
夕飯がカップラーメンである理由は、その二つだけだ。
それなりに料理ができる父親はいるけれど、仕事が忙しくて子どもが起きているような時間に帰ってくることはほとんどない。娘をそんな環境下に置いている罪悪感からか、父親は高校生に渡すにしては明らかに多すぎるお小遣いをくれる。
「これ食べてく」
容器の内側の線までお湯を入れて。
キッチンタイマーを三分にセットして。
二人でラーメンを
一人で食べても、二人で食べても、カップラーメンはカップラーメンで味は変わらない。それでも、一人で食べるよりはマシに感じる。
「ごちそうさま。遅くなったし、帰るね」
容器の上に割り箸を並べて置くと、仙台さんが立ち上がった。
「うん」
彼女とは、共通の話題がない。
クラスで属するグループが違うし、趣味も違う。
話すことがなければ黙って食べるしかなくて、カップラーメンなんてものはすぐに食べ終わる。だから、夕飯を一緒に食べたという実感がないまま、仙台さんは帰ってしまう。
「四巻、買ったら読ませてよ」
仙台さんのブレザーとコートを取りに二人で部屋へ戻ると、彼女が本棚を見ながら言った。
「今度来るときには読めると思う」
「じゃあ、来週かな」
もう来ない。
今日私がさせたことを思い返すとそう言われても仕方がなかったけれど、彼女はこの関係を終わらせるつもりはないらしい。
仙台さんは変な人だ。
お金が欲しくて命令をきいているようには見えないから、彼女がなにを考えているのかよくわからない。私なら他人の足を
「送るね」
コートを着て、いつものように二人で玄関を出る。そして、エレベーターで一階まで下り、エントランスまで歩く。
「じゃあ、またね」
仙台さんが立ち止まらずに手を振る。
「バイバイ」
遠のいていく背中に声をかける。
二年生でいられる期間は残り少ない。
この冬が終わって春になり、三年生になってクラスが替わっても、仙台さんは五千円で買われてくれるのだろうか。
私は、やけに早く梅雨が終わった七月に始まったこの関係の行く末を考えながら、エレベーターに乗り込んだ。