第1話 山と海と、猫の町……?(後)
光莉隊長率いる別荘探検隊は二階に上がった。二階にはベッドルーム、ゲストルーム、そしてもう一つトイレがあった。
とりあえず、姉妹が風呂に入っているあいだに使えるトイレがあることにほっとした咲人だが、ここにきて新たな問題が発生した。部屋割りである。
ホテルのような寝室にあるベッドはキングサイズが一台。さらにゲストルームはセミダブルが二台ということで、計算の上ではベッドの数は足りているのだが——
「じゃ、三人でこのおっきなベッドを使おっか?」
「そうだね。ここなら三人でも十分な広さだし——」
「待て待て待て……」
咲人は思わずストップをかけた。
「ベッドが三台あるんだから、一人一台ずつ使えばいいんじゃない?」
「えぇ〜……うち、寂しいよぉ〜……」
「お風呂は恥ずかしいですが、一緒に寝るくらいなら……」
光莉と千影が上目遣いで咲人を見つめる。
「人目を気にしなくていい旅行だし、一緒に寝ちゃうのも有りじゃないかな?」
「いや、ダメだって、羽目を外しすぎたら……」
「そうですね……」
と、千影は残念そうな顔で寝室の奥のカーテンを開けに行った。
(うーん……一緒に寝るくらいは、有りなのかな……?)
真面目な千影が許容するくらいだから、おそらく「寝る」に深い意味はない。三人で並んで眠るだけ——千影はそのつもりで言ったのに、過剰に反応しすぎたかもしれない。
咲人が複雑な心境でいると、光莉の目つきが鋭いものに変わった。
「想定の範囲内だよね?」
「え?」
「ここに来る前から、ある程度のことは予想できていたんじゃないかな? ……もちろん、大人の意味の『寝る』のほうで」
咲人が動揺した瞬間、タイミングを合わせたように、光莉がグッと身を寄せてきた。
「ねえ、咲人——」
甘い呼び声が耳元をくすぐる。
「……責任なんて感じる必要ないんだよ?」
頬にあたる光莉の息に、咲人はドキッとした。
「うちらだって想定の範囲内。だから、なにがあっても一人で責任を感じる必要なんてないよ? 無責任に楽しいことをしようよ? 我慢しちゃったらもったいないよ?」
そのコッソリとした言い方に、咲人の心臓は大きく高鳴っていた。
こういうときの光莉のささやきは、咲人の耳には甘美に響く。モラルや常識といったものが馬鹿らしくなるほどに本能を刺激してくるのだ。
もちろん光莉はそのことをわかってやっている。
咲人の理性がどこまで耐えられるか——いや、理性が壊れた先を見たいとでも言っているかのように、甘い言葉でからかいながら誘惑する。
が、一定の線引きをしている咲人は、その手前でなんとか踏みとどまった。
「コラ……」
軽く叱るようにして光莉の左頬に右手を置くと、彼女の肩がピクッと震える。
「な、なにかな……?」
「……本当は緊張しているんだろ?」
途端に光莉の顔がカーッと真っ赤になり、慌てて咲人から目を逸らした。
咲人は少し前からわかっていた。
光莉のこの耳元でのささやきは、彼女なりの照れ隠しなのだ。
「ヤダな、そういうお見通しなの……恥ずかしい……」
「だろ? 俺も心の中を覗かれるのはちょっとな……」
「そう思うなら、うちのモヤモヤをスッキリさせてよ……」
「君のモヤモヤって?」
「わかってるくせに——」
そう言って光莉は、咲人の心臓あたりに人差し指を置いてなぞった。
「我慢ばっかりさせないで……」
「ごめん。でもそれは——」
「うちらを守りたいからだよね? でもね、たまには羽目を外さないと——」
そう言って、光莉は咲人の首の後ろに手を回すと、目を瞑って唇を差し出してきた。
光莉——と言う前に、咲人ははっとして首を捻った。
光莉からのキスは咲人の頬に当たった。唇ではなかったことに不満を覚えた光莉が、咲人をむっとしながら睨む。
「ちょっと咲人、キスぐらい——」
「いや、だって……」
——じぃ〜〜〜〜〜〜……
千影が真顔で二人の様子を見ていた。じっくり観察する感じの目つきだった。
「千影、どうしたの……? なんで観察してるの?」
「あ、どうぞどうぞ、私に構わずに続けてください」
「いや、そう言われてもなぁ……」
間近で見られていると、非常に気まずいものがある。
「なんか、いいなと思いまして」
「……なにが?」
「ひーちゃんと咲人くんって、ときどき二人の中でしか通じない会話をするので……そういうのって、羨ましいなと思いまして」
そう言って、千影は羨ましそうな顔をした。
咲人と光莉は目をパチクリと合わせた。
「うーん……そうかな?」
「千影とも、そういうとき、あると思うんだけど……」
すると光莉は「ほら」と思い出すように言った。
「このあいだ咲人の部屋で、うちが寝てるときに咲人とちゅーしてたよね?」
「あ、うん……って、へっ⁉」
千影の顔がカァーッと赤くなる。
「ひーちゃんあのとき起きてたのっ⁉」
「あ……——てへっ♪」
光莉はわざとらしくペロッと舌を出した。
「ほら、ちーちゃんもコッソリいろいろしているわけだし、おあいこだよ〜」
「だからそういうのじゃないってーっ!」
「じゃあさ、うちにはわからない二人の中の会話をしてみてよ?」
「え? いきなり? えっと〜、えっと〜……」
千影は悩みに悩んだが——
「咲人くん、ちゅーしてくださいっ!」
「「ド直球⁉」」
いつも直球勝負の彼女は、姉のようにはできなかった。
* * *
別荘で昼食を取り終わったあと、三人は山に登る準備を整えて、別荘から山へと向かっていた。
咲人は、山ガールの格好に着替えた双子姉妹のあとに続き、彼女たちが話す様子を後ろから苦笑いで見ていた。二人は寝室での話の続きをしていた。
「簡単だって。こそっと耳元で呟けばいいだけだよ?」
「だって……内容が思い浮かばないんだもん」
「思ったままでいいんじゃないかな?」
「そうじゃなくて、咲人くんとひーちゃんのやりとりみたいなのがしたいの!」
光莉はやれやれといった顔で千影にアドバイスをする。
「擦るようにすればいいんだよ」
「擦るようにって、どうやって?」
「だからね……ゴニョゴニョ……——」
光莉がそっと千影に耳打ちする。
きっとロクでもないことを教え込もうとしているのだなと咲人が思っていたら、湯気が出そうなほどに千影の顔が真っ赤になった。
「えぇーーーーーーっ⁉ 私、そんなエッチなこと言えないよぉ〜〜〜っ!」
エッチって言っちゃったなぁと思いつつ、咲人はどういう顔をしたらいいのかわからずに山のほうを向いた。
これから登ろうとしている山は『
そんなことを思っていると、山の中腹になにか朱色の人工物を見つけた。
「あれって鳥居かな?」
「え? ——鳥居じゃないかな?」
「なにかを祀っているんでしょうか?」
そのとき——
「ひゃっ⁉」
千影がなにかに驚いて咲人に抱きついた。
「どうしたの⁉」
「猫が……その茂みからこっちを見ていて……」
千影の差すほうを見ると、
「山の中にもいるんだ……千影、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……! 急に見えたので驚いて……」
「そっか……じゃあ、そろそろ離してもらえるかな……?」
「あ、ごめんなさい……!」
咲人は、急に抱きつかれたほうに驚いていたが、やれやれと苦笑いを浮かべた。
そうしているうちに、大きな駐車場と、その脇にバンガローがある場所に着いた。
「あった。ここが『妹子山登山道』だ」
咲人がスマホの地図で場所を確認すると、電波が二本から一本になった。
「これ、山に入ったら圏外になりそうだ……」
「地図、持ってきたのかな?」
「いや、スマホの地図アプリに頼ろうと思ったんだけど……」
登山道だから、案内に従ってコースを散策すればいいだろうが、万が一に備えて地図はほしいところ。仕方がなく、咲人は地図を拡大・縮小して記憶した。
「あ……誰か、もう山に登ってるんでしょうか?」
千影が指差した先、バンガローのそばに軽自動車と軽トラが一台ずつ止まっている。
三人はバンガローに近づくと、扉の前に立って、窓から中を覗き込んだ。
「誰もいないみたいだな……」
咲人が言ったそのとき——
パァーーーン! ……ガアガア、ガアガア……——
突然山間に鳴り響いた銃声と鳥の鳴き声に、咲人たちはビクッと反応した。
「今のって……銃声かな?」
「ああ、たぶん……」
「じ、地元の猟友会の人とかですかねぇ……?」
三人が狼狽えていると——
「——あんたら、そこでなにをしているんだね……?」
唐突に後ろから声をかけられた三人は、大きくビクッとなった。
声のしたほうを見ると、いつの間にか鎌を持った老婆が立っていた。
三人は思わず「ひっ⁉」となった。
しかし、よく見れば——
麦わら帽子に花柄のシャツ、それから腕カバーをし、下はもんぺと黒いゴム長靴の格好。今から農作業をする様子の、八十はゆうにすぎている腰の曲がった婆さんだ。
その婆さんは、麦わら帽子の鍔の下から、鋭い眼光で三人を見つめている。
どぎまぎとしながらも、咲人は口を開いた。
「あ、あの——」
「この山に入っちゃいけないよ」
急に言葉を遮られ、咲人はビクッとした。
老婆の口調は穏やかで静かな感じだが、この山に近づいてほしくなさそうな、重みのようなものがあった。登山を禁止する理由が気になる。
「でも、ここって登山道ですよね? 観光スポットだと調べて来たんですが……」
老婆は顔をしかめたまま言った。
「……熊が出たのさ」
「「「熊……⁉」」」
三人は驚き、青ざめた。
「昨日のことだよ。キノコ狩りに入った二人組が襲われたのさ。幸いなことに二人とも無事だったが……次はどうなるかわからないよ?」
老婆は低く脅すように言って山のほうを見た。
「ここいらの鉄砲撃ちが熊狩りに入っているからね、危ないから入っちゃいけないよ」
そういうことか。それなら仕方がないと、三人はお互いの顔を見合った。
「ちーちゃん、残念だけど……」
「そうだね……楽しみだったんだけどなぁ……」
「仕方がないよ、千影。そういう理由なら」
と、落ち込む千影を、光莉と咲人が慰める。
すると老婆は千影の顔をじっと見つめた。
「……そっちのリボンの娘っ子、ちょっといいかね?」
「え? 私ですか?」
「あんた、そっちの娘っ子の妹だね?」
「ええ、そうですが……?」
咲人はふと疑問に思って首を傾げた。
今のやりとりだけで、どうしてこの老婆は千影が妹だとわかったのだろう。
「覚えておくといいよ。——この山はあんたにとって、とても危険な山さ……」
「……? どういうことでしょう……?」
すると老婆はいっそう顔を強張らせた。
「この『妹子山』はね——」
パァーーーン! ……ギャアアアアアァーーー……——
老婆がなにか言おうとしたとき、再び銃声が鳴り響いたのだが——
「え⁉ 今の、悲鳴……⁉」
三人は驚いた様子で山を見た。
たしかに人の悲鳴に聞こえた気がした。
しかし、老婆はいたく落ち着き払った様子で、ふふふと笑った。
「聞き違いじゃないかね?」
「でも、今、人の——」
「聞き違いだよ」
「でも——」
「さあ、さあ、ここにいても仕方がない。あんたらは海に行くといいさ——」
老婆はそう言いながら踵を返し、ゆっくりと山のほうへ向かって歩き出した。
老婆がバンガローの角を曲がったところで、咲人たちははっとした。自分で危険だと言ったのに、老人一人で山へ入っていくつもりなのか。
三人は老婆のあとを追う。が——
「えっ⁉ いない……⁉」
老婆の姿が忽然と消えた。辺りを見回してみたが、やはりいない。三人は閉口し、その場から動けずにいた。ヒヤリとした感覚の中、ようやく口を開いたのは千影だった。
「さっきのお婆さんは、いったいなんだったのでしょうか……?」
「おばけ……とかじゃないよね? 非科学的だよね、そんなの……」
薄気味悪さを覚えた双子姉妹は、咲人の腕を掴んだ。
「いや、そんなはずはないよ……」
そう、おばけなどではない。なにせ「おばけなんてないさ おばけなんてうそさ」という歌があるくらいだ。つまり、おばけなんていないのだ。
咲人は怯える双子姉妹を安心させるように笑顔をつくっておいた。
それにしても——
老婆と会ったときから……いや、この双子子町に来たときから、咲人の中で、なにか奇妙な違和感のようなものが拭い去れないでいた。