第1話 山と海と、猫の町……?(前)
「きゃあ!」
「光莉っ⁉」
「ひーちゃんっ⁉」
咲人と千影は尻もちをついた光莉に慌てて近づいた。
「いたたた……お尻打っちゃったよぉ〜……」
若干涙目になっている光莉のそばの茂みから、なにか茶色い塊がピョンと跳ねた。
よく見ればそれはトラ柄の猫。大きさからして成猫だろう。人馴れしているのか、逃げる様子もなく、光莉のすぐそばで呑気に前脚を舐め始めた。
「なんだ、猫だったのか……」
咲人がトラ猫を唖然としながら眺めていると、
「か……可愛いぃいいい〜〜〜! 見て見て、猫ちゃんだっ!」
尻もちをついたままの光莉が目を輝かせた。
「こんにちは。さっきは驚いちゃったぞ〜?」
光莉は手の甲を嗅がせた。トラ猫はクンクンと顔を寄せて嗅いだあと、今度は光莉の人差し指を嗅いで、ペロペロと舐める。
やはり人馴れしているらしいが首輪はない。
咲人は、楽しそうに猫と戯れている光莉を見て、ようやく安心した表情を浮かべた。
「この子、野良かな?」
「たぶんね」
「人懐っこいね? ——可愛い〜♪」
「ここは猫町なんだ。人馴れしているのはそのせいかも」
「あ、それ知ってる」
猫町と聞くと、光莉はさらに目を輝かせる。
「江ノ島とか奈良町が有名だよね?」
「うん。ここは江ノ島や奈良町に比べると、全国的に有名じゃないけど。じつは二人が喜ぶかと思って秘密にしてたんだ——」
すると、いつの間にか咲人の足元にも一匹、三毛猫がいた。三毛猫は目を細め、咲人の足にスリスリと身体を擦りつける。心を許してくれているみたいだ。
「みんな人間に慣れてるみたいだね——」
と、咲人が三毛猫の頭に手を伸ばす。
すると三毛猫は急にビクッと身体を縮め、ピョンと跳ねて千影のほうへ逃げた。
「頭は撫でさせてくれないか。千影、そっちに——」
「ひゃっ、猫……⁉」
急に千影が飛び上がった。三毛猫は千影の反応に驚いて逃げてしまった。
「え? 千影……?」
「あ……」
「……もしかして、猫が苦手とか?」
千影は、しまった、という顔をした。
「へ……平気です!」
いや、どう見ても平気そうではない。
そもそも「平気です」という言い方が、苦手であることを物語っている。
「もしかしなくても、猫が苦手だったり……?」
咲人が改めて訊ねると、千影は首を横に振った。
「大丈夫です! けして苦手というわけではありませんので!」
やはり無理して笑っているように見える。
しかし、よくよく思い返してみれば納得する節もあった。夏休み前、監査委員を務めていたときは「ワンワン」と言っていたし——
「そっか、千影は生徒指導部の犬だから……」
「あの、えっと……だからと言って犬派とかではありませんよ? そこで勝手に納得しないでくださいね……?」
千影はジト目で咲人を見た。
そんなやりとりをしていると、光莉が先ほどのトラ猫となにかを喋っていた。
「にゃにゃにゃん? にゃー?」
「ニャー、ニャー」
「にゃんにゃにゃー……にゃん」
なにか会話が成立しているようだが、いったいなにを話しているのだろう。
「光莉、その子はなんて言ってるの?」
「えっとね、『腹減った、なんか食い物よこせ、こんニャろー』って」
「口悪いなぁ……」
咲人は呆れたが、たしかにトラ猫が「こんニャろー」と言っているような気がしてならなかった。
* * *
双子子駅からキャリーケースをゴロゴロ転がして行った先に商店街があった。『フタネコ商店街』というらしい。
大正ロマンを彷彿させるようなレトロな町並みで、結城市では見られない古い公衆電話や郵便ポストがある。猫をモチーフにした店の看板や家の表札もあり、レトロと猫を合わせたような町全体の雰囲気づくりが徹底されていた。
「うわぁ! 映画村みたい!」
光莉は小さな子供のようにはしゃいでいた。
「どこに行ってもフォトスポットだーっ! ——あ、あれ可愛い!」
光莉はとても気に入ったらしく、いつも以上にテンションが高い。ウロウロとあっちを見たり、こっちを見たりして楽しそうにしている。
一方の千影は、さっきから咲人の腕を取ったままキョロキョロと落ち着かない。
それもそのはず。町のいたるところに猫がいて、千影からすると見張られている気分なのだろう。
(千影も喜ぶと思ったんだけどなぁ……)
咲人はなんだか申し訳なくなってきた。
「あっ! なにかな、あれ!」
光莉が、建物と建物の隙間に、なにかを見つけて指差した。
近づいてみると、それはずいぶん古い銅像で、
光莉は口元に人差し指を当てて、いつもの考える仕草をした。
「もしかして、この二人は双子かな?」
すると千影も興味を持ったのか、顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「たしかにお顔が似てるね。この猫はなんだろ?」
「飼い猫じゃないかな?」
「双子と、猫? フタゴ、ネコ……
「うーん……町の名前に掛けてるんじゃないかな?」
そうやって光莉と千影が銅像を観察しているあいだ、咲人はどうしたら千影を喜ばせられるかを考えていた。
今三人が向かっているのは、咲人の叔母、木瀬崎みつみの知り合いの別荘。そこ自体は写真で見た限り当たりだったし、そこから少し歩けば登山ができる山があって、千影の好きな山登りもできる。
ここが猫町であることは仕方がないとして——
(午後から山に登るし、山の空気を吸ったら千影の気分も変わるかな)
と、これからのことを思い浮かべて、咲人は静かにやる気を漲らせた。
——そんな三人の姿を、たまたま通りかかった白髪の老婆が遠目で見ていた。
「あれは、双子……」
老婆は残念そうな表情を浮かべ、静かに目を閉じた。
「……災いが起きなきゃいいねぇ……——」
* * *
「うわぁ! 写真で見たときより素敵ですね!」
「ちーちゃん、ちーちゃん! 海が見えるよっ!」
別荘に到着してからの千影は明るかった。光莉と一緒にキラキラとした瞳で三方ガラス張りのリビングを見回すと、海の見える窓辺に並んで立った。
「咲人くん、海が綺麗ですよ!」
「最高の景色だよ!」
咲人も二人の横に立って外を眺めた。
「ほんとだ、すごく綺麗な景色だ」
別荘が坂道を登った先の小高い場所にあるため、海を見下ろすようなかたちで望むことができる。手前には朱色の瓦屋根の民家が並んでいて、たしか鳥取県の石州瓦もこんな色だったなと咲人は思い出した。
そうして、三人は素晴らしい景色をひと通り楽しんだのち——
「じゃ、別荘の中を探検しよーっ!」
光莉のあとに続いて千影、咲人と続く。
まず、探検隊が向かった先はバスルーム。トイレと風呂場が半透明のガラスで仕切られた開放感のある凝った設計だった。
(こういうの、オシャレだけど……)
ガラスで仕切られただけのトイレと風呂場は、言わずもがな、女子二人に対し男子一人はだいぶ気を使う。恋人同士だから、そのあたりはまずまず合わせられるだろうが、それでもやはり堂々と振る舞うのは躊躇われるようなつくりだ。
照れ臭そうな咲人を見て、光莉がにしししと笑って耳打ちしてくる。
「うちとちーちゃんは、こういうの気にしないよ?」
「っ……!」
完全に心の中を見透かされ、咲人の顔がさらに赤くなった。
すると、浴槽を見ていた千影が「あれ?」と蛇口が二つあるのに気づいた。
「片方は水で、もう片方はお湯ですかね——」
そう言いながら蛇口をひねると、次第に優しい匂いが漂った。
「わっ! これ、温泉ですか⁉」
千影が驚いたように咲人を見る。咲人は微笑を浮かべた。
「うん、単純温泉だって」
硫黄泉ではないので、温泉独特の刺激臭はない。源泉は、この近くの温泉と同じところから引いているそうだ。
「アルカリ性で美肌効果があるらしいよ」
「本当ですかっ⁉ 私、温泉が大好きなんです!」
テンションが上がっている様子の千影を見て、咲人はほっと胸を撫で下ろした。
(やっぱりこの別荘は当たりだったな……)
そして光莉もまた風呂場の広さを見てニコニコ……いや、ニヤニヤしている。
「三人で入れる広さだね?」
「ちょっ……ひーちゃんっ⁉ それはさすがにダメッ……!」
千影は急に顔を真っ赤にして慌てた。
「えー? なんでー?」
「せっ……節度!」
「真面目だなぁ、ちーちゃんは……」
光莉はやれやれと苦笑いを浮かべるが、咲人は安堵のため息を吐いた。
(良かった、千影まで一緒に入ろうとか言ってくるんじゃないかと思っていたけど……)
今のところブレーキ役がしっかりと機能しているようだ。アクセル全開の光莉に暴走モードの千影が加わったら、それこそ「えらいこっちゃ」である。
そこでまた光莉がニヤついた。
「でも、昨日の夜はさぁ——」
「あーあーあーーーっ!」
千影が真っ赤になってあたふたした。
「なんで咲人くんにバラしちゃうの⁉」
「だって〜……面白いから♪」
「ちょっとひーちゃん⁉」
「あのさぁ咲人、昨日の夜ちーちゃんがねぇ——」
「ダメだってばっ! あのエッチな話は無しぃーーーーーーっ!」
エッチな話って言っちゃったなぁ——バスルームに響き渡った千影の叫びに呆れながら、咲人は気まずそうに、赤くなった頬を掻いた。