第一話 【アナザーワールド・アナザーガール】(4)
*
『──今日、どうしても外せない収録があるの』
それまでの歌うような口調を一変させ。
真剣な口調で、香家佐さんはタブレット越しに説明してくれた。
『今放送中の深夜アニメの十話目。わたしもメインキャラで参加してるんだけど、スケジュールがめちゃくちゃ押しててね。今日全部録りきっちゃって、そのままダビングしないと放送に間に合わない。別録りしてる暇もなくて』
「な、なるほど……」
細かいことはわからないけれど、本当に切羽詰まってることだけはわかった。
今日中に、声優さんの録音を終えないと放送に遅れてしまう。
それは確かに、素人のわたしから見てもなかなかのピンチだ。
『本当久しぶりだよ、ここまでギリギリなのは。なのにわたし、ここで足止め喰らってて。このままじゃ、いつ東京に戻れるかわからないの。だから……どうしても、他の人に代役を頼まないといけない状況で』
言って、香家佐さんは唇をきゅっと噛む。
その表情に──彼女が悔しがっているのを、一目で理解した。
これまで九話分参加してきた、きっと思い入れもあるアニメなんだろう。
その収録に参加できないのは、不本意だし残念に違いない。
余裕のありそうに見える彼女のそんな顔色に……ああ、プロなんだな、なんて。こだわりがあるんだななんて、そんな場違いな感心を覚えてしまった。
──ただ、
『だから……良菜にお願いしたいなって』
「……んん!?」
彼女が続けたその言葉に──一発で理解が途切れる。
聞き間違いかも、と思うけれど。香家佐さんはもう一度口を開いて、
『わたしと声がそっくりな、良菜に代役を頼めないかと思って』
「無理ですよ!」
さっき以上の大声が出た。
「声が似てるだけでそんな……冗談で言ってるんですよね!?」
『本気だよ。だから斎藤さんに、技術室ちゃんの学校を探してもらったんだし』
「本当に大変でしたよ……」
ぐったりと車に背を預け、斎藤さんは言う。
「動画の背景に窓が映ってるから、そこから学校を特定して。それらしき生徒が下校するまで、正門前で待機して……」
「そこまでしたんですか……」
『だからお願い!』
言って、香家佐さんは手を合わせてみせる。
『あなたに頼むのが一番なの。どうかわたしの、代役になってください!』
「え、ええ……」
「……わたしからも、お願いします」
斎藤さんも、わたしに深々と頭を下げる。
「マネージャーとしても、非常に申し訳ない限りです。できることなら、無関係の方にこんな負担をかけたくはありませんでした。ただ、他に頼れる人がいないんです。どうか、お願いします……」
「で、でも! そもそもの話!」
それでも──わたしは必死で食い下がる。
「わたし、お芝居なんてしたことないですもん! なのにプロの中でアフレコをやりきるなんて、到底無理ですよ!」
少しだけ、動画を撮った経験があるからよくわかる。
お芝居は──本当に難しい。素人が気軽にやって、形になるようなものじゃない。
プロになれる役者は、全体のほんの一握りだと聞いたこともある。努力と才能と運が奇跡的に噛み合って、初めてそれを仕事にできるのだと。
ならわたしみたいな凡人が、そこに交ざれるはずがない。
しかもそれが、香家佐さんみたいな人気声優の代役ならなおさら。
『ああ、それは大丈夫』
ディスプレイの向こうで、けれど励ますような声で香家佐さんが言う。
『今日収録の話数は、わたしのキャラの出番がほとんどないの。お話の最後の最後に、一回咳払いするだけ』
「咳払い……」
『もちろんやり方とか注意点とかはあるけど、普通のお芝居よりは負担が軽いと思う』
「だ、だったら、その場にいる他の方にお願いすれば……」
『それはダメ』
はっきりと、香家佐さんは断言する。
『そうするのも考えたけど、わたしの声、咳払いでも特徴が出るから。他の人がやったら絶対に気付かれる。しかもその違和感は、セリフが少ない分特に目立つんだよ。良菜以外の人に頼めない』
「そう、ですか……」
『だから──ねえ』
真剣な目で、香家佐紫苑さんがわたしを見る。
強い意志のこもった瞳。スピーカー越しにもまっすぐわたしに届く声。
『この世であなたしかいないの、良菜。お願いします』
──それでも、断るべきだったんだと思う。
咳払い一つだろうと、そこで必要とされるのはプロの仕事だ。
わたしなんかが、安易に引き受けていいことじゃない。
周囲に迷惑をかけてがっかりさせて、頼むんじゃなかったと思われるだけだ。
あるいは……中学のときみたいに『無』なのかもしれない。まだ世の中や自分に期待をしていたあの頃みたいに、『何も起きない』のかもしれない。
さらっと咳払いだけ録って終了。以降、誰もそのことを思い出さない。
そしてわたしは、自分に何もないのを改めて痛感してしまう──。
……うん。やっぱり止めるべきだ。どう考えたって、首を縦に振るべきじゃない。
なのに──、
「……わかり、ました」
──無重力みたいな沈黙のあと。
気付けば──わたしはそう答えてしまっていた。
「やって、みます。やれるだけ、頑張ってみます……」
まだ、少しだけ期待していたのかもしれない。
わたしにも、何かできる機会が訪れるのを。
こんな風に誰かに頼られて、少しだけ『地味』からはみ出せるのを。
『ありがとう!』
声に熱をこめて、香家佐さんが言う。
『そう言ってもらえてうれしいよ。もちろん、報酬とかはちゃんと出すからね。じゃあ斎藤さん、あとは色々お願い。わたしも、なんとかそっちに戻れないか引き続き試してみるから』
「わかりました。くれぐれも気を付けて」
『了解! じゃああとで』
それだけ言い合って──通話は切れた。
そして、斎藤さんはこちらに向き直り、深く息を吐くと、
「……本当にすみません、ありがとうございます」
そう言って、もう一度頭を下げた。
「では、さっそくですがスタジオに向かいましょう! 台本は、このタブレットに入っているので車の中で目を通しておいてください。色々なレクチャーは、スタジオについてからにしましょう」
「わ、わかりました……」
ぎくしゃくとうなずくと、わたしは斎藤さんの言う通り。そのワンボックスカーにおずおずと乗り込んだのだった。