第一話 【アナザーワールド・アナザーガール】(3)

   *


「……ん?」

 目の前にその車が停まったのは、学校から少し歩いたところ。

 交通量の多い大通りから、一本路地に入ったタイミングでのことだった。

 ホワイトパールのワンボックスカー。

 どうしたんだろう、こんな何もない道端で。危ないからちょっと離れて歩こう……。

 なんて思っていると、運転席から慌ただしく女性が降りてくる。

 年の頃は二十代半ば? あっさりした顔立ちの、ジャケットを着た女性だった。

 そしてあろうことか、彼女はわたしの目の前に駆け寄ってくると──、

「──技術室ちゃん、ですか!?」

「……え!?」

「あなた、今ネットで話題の、技術室ちゃんじゃないですか!?」

 ──絶句した。

 予想外すぎる展開に、完全に言葉を失ってしまう。

 え、これ何? どういうこと!?

 どうしてその名前で、わたしを呼ぶの……!?

「……」

 怖い。この状況、すごく怖い!

 大声でも出そうか。

 夕暮れ時の路地には、他にも通行人の姿がちらほら見て取れる。

 彼らに助けを求めた方がいいんじゃ? 悲鳴とか上げた方がいいんじゃないの!?

「……ああ、突然すみません!」

 わたしが怯えているのに気付いたのか、目の前の女性はジャケットの内ポケットに手を入れる。そして、カードケースのようなものを取り出し中から一枚紙を抜き出すと、

「わたし、こういうもので……!」


 株式会社 プロダクションモモンガ

 マネジメント課 主任 さいとう まどか


 ──名刺だった。

 会社名や所属が記されている小さなカード。

 生まれて初めて受け取ったけど……これはいわゆる名刺だろう。

 ただ、聞いたことのない会社だ。プロダクションモモンガ……。

「ご挨拶遅れてすみません。わたし、声優事務所でマネージャーをしていまして……斎藤円と申します」

「せ、声優事務所。斎藤さん……」

「それで……そうだ! ここからは、直接本人と!」

 思い付いた顔になると、その女性は──斎藤さんは、ドアが開いたままの運転席からタブレットPCを引っ張り出す。

 そして、何やら手早くそれをいじり、

「──紫苑!? 見つけた、技術室ちゃん!」

 画面に向かって、そんな風に呼びかけた。

「あとは、紫苑が直接本人と話して! その方が早い!」

 誰かと通話でもしてるのかな? でも「シオン」?

 例のあの子と同じ名前……なんて思っていると、彼女がタブレット差し出してくる。

「すみません。少しだけ、この子と話をしてもらえると」

「は、はあ……」

 うなずいて、おずおずとそれを受け取った。

 そして、わけもわからないままディスプレイに目をやると、


『──やっほー』


 彼女が映っていた。

『おーほんとだ、技術室ちゃんだ! わー、実物かわいいー!』

 わたしの顔を見て、うれしそうにそう言う女の子。

 色の入ったショートヘアーに整った顔。

 画面越し、バストアップに切り取られてもはっきり感じられるオーラ。

 ──香家佐紫苑。

 ついさっきまで、スマホで眺めていた彼女がそこに映っていた。

『ごめんねー急に』

 彼女はそう言って、申し訳なさそうな表情を作ってみせる。

『ちょっとトラブルがあってさー、どうしてもお願いしたいことがあって』

「……え、こ、これなんですか?」

 タブレットから顔を上げ、わたしは斎藤さんに尋ねる。

「動画ですか? でも、なんでこんな……」

『いやいや、動画じゃないから』

 ディスプレイの中の香家佐さんが笑う。

『通話だよこれ。あなたと話してるの』

「え、ええ!?」

 タブレットを取り落としそうになった。

「通話? えっと……あなたは、香家佐紫苑さん……ですよね?」

『うん、そうだよ』

「その、本物ですか?」

『本物だよー。信じられないなら、ここでなんかキャラの声やってみようか? あ、ダメだ、今空港だし、やったらめんどうなことになるね』

 空港……。

 確かに言われてみれば、香家佐さんの後ろには発着ロビーらしき背景が映っている。

『でもほら……これ! 高校の学生証! 名前のとこ、じま紫苑って書いてあるでしょ。わたしの本名ね。ウィキペディアにも載ってるから、あとで見ておいて』

「は、はあ……」

 なるほど。本人らしい。

 めちゃくちゃな流れだけど、今通話してる相手は香家佐紫苑さん本人らしい……。

「……って、なんで!?」

 もう一度大声が出た。

「どうして、わたしが香家佐さんと通話を!?」

『あー、それなんだけど……ていうかその前に、あなた本名は? なんて呼べばいいかな。技術室ちゃんじゃあれでしょ?』

「あ、ああ……山田です」

 うっかり、言われるがままに本名を教えてしまった。

「山田と言います……」

『おっけー良菜ね。これからはそう呼ぶよ。で、今良菜バズってるでしょ?』

「そう、ですね」

『その動画、わたしたちも見てさー。マジで声似てるからビビっちゃって。コメントにもあったけど顔の作りまで似てるし、すごーい!って』

 いや、さすがに顔は似てないと思うけど。華やかさが段違いすぎる。

『それでちょっと、話したいことがあってねー』

「はい……」

 おずおずとうなずきながら──そこでわたしは気が付いた。

 ……これ、怒られるんじゃ?

 あんな風にバズっちゃったことを、キレられるんじゃない!?

『わたしにそっくりとか、舐めてんの?』とか。

『わたしの経歴に傷がついたらどうするの?』とか。

 そうだ、そうに違いない!

 その上で、名誉毀損とか損害賠償とか……法的対応の話になるんだ!

「そ、その! わ、わたしそんなにお金とか持ってなくて!」

 わたしは慌てて香家佐さんに主張する。

「ご迷惑をおかけしたのはすみません。でも、貯金もちょっとしかなくて! だから、賠償みたいな話になっても、すぐにお支払いは……」

『え、何? 何の話?』

「いえ、ですから今回の動画で、ご迷惑をおかけした件のお詫びについて……」

『ああいやいや、そういうので声をかけたわけじゃないって』

 ディスプレイの向こうで、香家佐さんはあははと笑っている。

『さっきも言ったけど、わたし今北海道の空港にいて。飛行機止まっちゃったんだ』

「は、はあ」

『斎藤さんも一緒に来る予定だったんだけど、急用が入ったからわたし一人でさー。完全に身動き取れないのね。だから、良菜にどうしてもお願いしたいことがあって』

「お願い?」

『うん。世界中で、良菜にしかお願いできないこと』

 真剣な顔で、そう言う香家佐さん。

 そして──彼女はわたしに。

 何もない地味なわたしに、とんでもない話を持ちかけたのです──。


   *


「──お疲れ様です。すみません、今日紫苑が、トラブルで間に合いそうになくて」

 斎藤さんが他の方に挨拶するのを、呆然と聴いていた。

「そうなんです、北海道のイベントで。向こう悪天候らしくて」

 並んだ四本のマイク。

 壁沿いに配置されたソファ。

 正面にしつらえられた、薄型のディスプレイ三台。

 そして──そこにいる、沢山の声優さんたち。


 ──アフレコスタジオ。


 アニメの声を収録するその空間に、わたしは放り込まれていた。

 現実味がなかった。

 自分が置かれている状況を、リアルに感じることができない。

 わたし……何やってんだろ。

 こんなすごい場所で、すごい人に囲まれて……。

 ……夢なんじゃない?

 もしかしてこれ、うたた寝してるわたしが見てる夢なんじゃ……?

 けれど、

「──なので、代役を立てることになりまして──」

「──っ!」

 聞こえた斎藤さんの言葉。

 その中に含まれる『単語』に、わたしは一気に現実に引き戻される。

 ──代役。

 そう。人気声優、香家佐紫苑の代役。

 そんなあまりにも重たい役目を背負って、わたしはこの場に参加しているのだった──。

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