第2章 大芸大というところに その3

     ◇


 映像学科というか、芸大の授業は、一般の大学と比べてまったく違うらしい。

 まずは一般教養。

 多くの普通の大学では第二外国語を必須としているが、大芸は一部の学科を除いて存在していない。歴史や文学のような講義を必ず取らなければならないということもない。講義自体も、テストがなくて出席点だけとか、単位をくれることが前提となっているかのような緩さだった。

 これは高校までの〝普通の〟勉強が苦手だった学生たちにとって、まるで天国のような環境だ。

「日本語もあやしいのに、これ以上外国語やら増えたらきつかもんね~。だからここの大学にしたとよ!」

 本人の名誉のために名前は伏せるが、とある女子の言葉である。

 しかし、だ。

 こと専門科目となると、さすがにみっちりと専門知識をたたまれていく。

「キャメラには複数の種類がある。フィルムだと8ミリ、16ミリ、35ミリ、70ミリ。ビデオだと8ミリ、S─VHS、ベータ、VHS、ベータカム、Uマチック、DV、最近ではここにHDVという規格が加わって」

「シーンを構成するのに複数のカットを使う場合、キャメラと被写体の関係において越えてはいけない線が存在する。これをイマジナリーラインと呼ぶんだが」

「ガラスや水面を撮影する際に発生する反射、これを取り除くには偏光フィルターを使用するのだが、その際2・5のフィルターファクターを持っていることを忘れてはならん。なので露光を2と1/2絞り増やして」

 ついこの間まで、構文がどうとか二次方程式がどうとか教わっていたはずの学生たちも、こんな調子の講義をひたすら受けることになる。

 はっきりいって、わけがわからなかった。

 英語直訳の読みづらいハンドブックや、数値やグラフがひたすら並ぶ教材を手に、入学したての1回生はまず強烈なカルチャーショックを食らうらしい。

 ……なんでカメラじゃなくて、キャメラなんだ?


 今日は、映像関係の科目の中でもかなり重要な、シナリオの授業が行われる日だった。

「それではシナリオ創作論の授業を始める」

 白髪にサングラスの、どこかすごのある老教授が教壇に立つ。

 知らなかったのだけれど、名前でググったら邦画のベテラン監督で、何度も賞をとっているような人物だった。

 実際、またもや僕の前に座っていた映画に詳しい女子──かわがわなんかは、キラキラした目で教壇のおじいちゃんを見つめている。

(すごい人なんだろうなあ……)

 70はとうに過ぎたふうぼうながら、口調もなめらかに元気よくばんしよを続けていく様は、かなり迫力がある。

(こっちも、まあ、すごいっちゃすごいけど)

 かたや、僕の席の横では、

「ずご~~~~ぐ~~~……ん……が~~」

 開始5分で眠りこけている、目つきの悪い学生がひとり。

つらゆき、さすがに怒られるぞ。いびきはやめときなよ」

 見かねて、揺り動かして起こす。

「ん……? もう授業終わりか?」

「なに寝ぼけてんだよ、これからだよ」

「おう……そっか」

 貫之は黒板に書かれた文字をザーッと右から左に目で適当に追うと、

「ん、じゃあまた後でな」

 そう言って顔を伏せて、さっきよりかは多少遠慮した寝息を立てはじめた。

「知らないぞ……もう」

 ため息とともに、僕は黒板の方へ視線を戻した。


 つらゆきは昨日の深夜、突然僕の部屋を訪ねてきた。

「すげえバイト見つけたぞ。とにかく驚くほど金がいいんだ」

 目をキラキラさせて、僕をやたらとそのバイトに誘う。

「目薬の投薬実験ってやつでさ。1週間通いで30万よ、30万! 写真学科の先輩が教えてくれてさ」

 投薬実験、目薬、法外な報酬、先輩の紹介。ヤバさまんがん8千点ってやつだ。

「やめときなよ。絶対ダメだろ、そのバイト」

「大丈夫、安全だって! 念書も書くんだから!」

「ちょっと見せて、それ」

 貫之から念書を受け取り、目を通す。

『何が起きても何も言いません』みたいな文言が最初に書かれていて、見るだけで頭痛がしそうだった。

「とりあえず僕はパスしとく」

「なんだよつまんねえ。じゃあ俺1人で行ってくるわ」

 こうして貫之は出かけていき、帰ってきたのは朝方だった。そりゃあ眠いだろう。

「ただいま」

 眠たさを隠そうともしない貫之は、不満たらたらという顔で、朝食中の僕らにてんまつを話して聞かせた。

 集合場所に行ってみたら、バイトの人員は十分足りていたらしく、あぶれたやつらはきゆうきよその派遣会社から荷運びの軽作業へ回されてしまったらしい。

 そっちはいたって普通のブラックバイトだったらしく、ひたすら重い物を運ばされた挙げ句にバイト代は7500円だったそうだ。

「とりあえず俺は寝る」

「何言ってんだよ、9時から必修の授業あるんだって」

「じゃあ授業で寝るわ」

 貫之の目がヤバいことにならなかったのは良かったけれど、その引き替えに蓄積した肉体疲労は、1限目の受講をきわめて難しくしていた。


(まあ、ばんしよオンリーみたいだし、あとで話して聞かせてやればいいか)

 どうもこのおじいちゃん先生は、ひたすら書いて聴かせて覚えさせるスタイルのようだった。

「よし、じゃあシナリオを書くにあたっての必要な要素の話をしよう」

 ひたすら黒板に単語が並べられていく。

『シナリオ十箇条』と銘打たれたそれは、映画やドラマのシナリオを書く際の必要な要素の一覧らしかった。

『展開』『宿命』『宝物』『決意』『感動』『山場』『終演』『題目』。

 一気にそこまでを書ききって、先生はひとつひとつの説明を始めた。

「展開というのは言葉そのままの意味だな。どういう展開をしていくか、場面を転がしていくことを示している」

 現実にある作品名とシーンを挙げつつ、どこがその言葉にあたる部分なのかを説明してくれる。

 残念ながら、僕はよく知らなかったけど、前の方の熱心な生徒たちの席からは「ああ……」など納得したらしい声が漏れていた。

「さて、ここでみんなに考えてもらおうと思う」

 突然、先生は説明をやめてみんなの顔を見回した。

「ここに挙げた項目は8つだけだ。十箇条と銘打っているのにおかしな話だな?」

 ということはつまり……。

「残り2つ、だれかに答えてもらうとしよう」

 うわー、マジか。

(全然わからん……。何なんだろ)

 必要な要素って言われても、シナリオの技術用語なんてそれこそ起承転結ぐらいしか知らないし、今示されている十箇条も当然初耳だ。

「誰か──」

「はいっ」

 先生が誰かを指差すより早く、スッと、しゆんじゆんもしない1本の手が上がった。

「ほう、やる気があるな。君は……」

 長い巻き髪の美少女は、立ち上がると、

かわがわえいです。足りないものの1つ、それは『乱調』ではないでしょうか?」

 彼女の説明が続く。

「乱調というのは、思いがけない展開、主人公、ヒーローの失敗などを示しています。どんなにかんぺきな人間でも、そこに欠点や失敗が無いと面白みに欠けます。物語のちゆうでそれを示し、克服させることでドラマができると私は考えます」

 一瞬、教室が静まりかえった後、

「正解だ。申し分ない」

 先生がニヤリと笑い、黒板に『乱調』と追加した。

 教室の中が「おおーっ」と感嘆の声で包まれる。

(すごいな……。当てちゃったよ)

 ガイダンスのときのよどみのない自己紹介を思い出す。

「じゃ、残るひとつも答えられるかな?」

「もうひとつは他の人に譲ります。独り占めしても悪いですし」

「君はなかなかおもしろいな。意地も悪い」

「恐縮です」

 2人のやり取りにみんなが笑う。

 こうなってくると、次は恥をかくためだけに回答する流れだ。

 当たらなければいいなあ……と、心の中で手を合わせる。

「よし、じゃあそこの、後ろの方で寝てる君! 答えてみなさい」

 先生がまっすぐ、指を向けてきた。

 生徒たちの目が、一気にこちらへと向けられる。

「ん……え?」

 寝ぼけた声とともに、つらゆきが顔を上げる。

「どうした、きよう? なんか今呼ばれた気がしたんだが」

「気がしたんじゃなくて呼ばれたんだよ、ほら」

 黒板の方へ目を向けさせる。

「どうやら君は今から授業開始らしいな」

 先生の言葉に、教室中がまた笑う。

 貫之は自分に集まった視線にようやく気づくと、

「これ、あれか。何か答えろってのか?」

 のんな口調で今更そんなことを口にした。

「そうだよ、シナリオに必要な十箇条ってやつで、1個だけ足りないのを答えろって、お前が指されて」

「あ、そういうこと」

 ふんふんと軽くうなずいて黒板を眺める貫之。

 どう見ても、答えられるような状況じゃない。

「わからないかね? 降参だったらそう言いなさ……」

 先生の、半ばあおるような言葉は最後まで発せられなかった。

「『カタキ』」

 突然、貫之が何かを口にする。

「えっ?」

「ああ、そっか。漢字二文字で統一してるんすね。なら『敵役』かな」

 貫之は頭をボリボリとくと、相変わらずダルそうな声のまま、

「文字通り、作中で主人公の敵になるものっすね。人物でも組織でもいいし、トラウマとか内面的なものでもいい。ここに挙げられてる中だと、『宝物』を奪おうとする立場とかだとわかりやすいっすよね。物語の最終盤まで緊張感を持続させる、大切な存在だと思うんですが……どうっすかね?」

 みな、つらゆきの言葉にポカンとしてる。

「……まさに、これこそ『乱調』だったな。お見事、正解だ」

 その中で、先生がひとり大きくうなずいていた。

「うす」

 貫之は席に座ると、それ以上は何も言わずに、再び船をこぎはじめた。

(……貫之って、何者なんだ)

 改めて、目つきの悪い友人を見つめる。

 得体の知れない部分があるのは確かだったけど、突然指されたにもかかわらずにシナリオの要点を的確に言い当て、しかも「大したことでもない」とふるまうその姿は、明らかにただものじゃなかった。

(こいつも『プラチナ世代』の1人なのかな……ひょっとして)

 シノアキに感じた末恐ろしさと同じものを、お構いなしに寝倒しているこの男にも感じた。

「なんなのあいつ。ずっと寝てたくせに、ありえないわよ……」

 そして、もう1人。

 この場における主役の座を奪われたかわがわえいが、ガイダンスのときのシノアキへと同じく、貫之にも憎々しげな視線を向けていた。

(この子の異常なライバル心も……なんなんだ、マジで)

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