第2章 大芸大というところに その2
◇
結局、早朝までバイトは続き、朝6時にシフトが終わって僕たちは解放された。
「おつかれさま!」
朝日に目をしばたたかせていたところ、ナナコが元気よく声をかけてくれた。若いな……。いや、今は僕も若いんだけど。
「そっちこそ。大変だったね……」
「ううん、ごめんね、いきなり初日で引っ張り込んで。疲れてない?」
申し訳なさそうにするナナコ。
とはいえ、彼女の方がずっと重労働だったはずだ。
にこやかに接客する傍ら、発注もして陳列もしてホットスナックも切らさずに働いていたのに、そのあいだずっと彼女ははつらつとしていた。
「全然。どうせ下宿にいてもヒマだったし」
「そっか、ならよかった~」
ホッとしたように言うナナコ。
さっきの言葉にしてもそうだけど、基本的に気遣いができるいい子なんだよな……。
若干ヤンキーというかギャルっぽいけど、普通に美人だし。
「
「ん……特に無いけど」
「じゃあさ、1時間だけカラオケ行かない?」
突然の提案だった。
「あんま歌うの得意じゃないんだよなあ」
「あ、じゃあお金はあたし払うからさ、聴いてるだけでもいいよ」
10年前もヒトカラは普通にあっただろうけど、なぜか2人で行くことにナナコはこだわっていた。
「ナナコは好きなの、カラオケ?」
「めっちゃ好き!!」
即答だった。
ここまで言われたら、断る理由もなかった。
大学からほど近い
24時間営業の店がそこしかなかったので、迷わずそこへ入る。
「ジョイミュージックのカラオケでよかった~。ここ、曲数ちゃんとそろってるんだよね」
部屋に入って早々、ナナコは歌本で曲を探し始めた。
「どういうの歌うの?」
「フツーにJ─POP歌うよ? あとまあ、アニソンも結構歌うかな? 例えば……」
いくつか続けて曲の番号を入力しながら、ナナコは楽しげに曲名を挙げていく。
「1人では来ないの? カラオケ」
「んー、なんかさみしくない? ひとりで歌うのって」
「まあそりゃ……」
「うまくてもへたでも、みんなで楽しいのがカラオケじゃない。あたしはそう思ってるんだ」
言うだけあって、機器の操作は相当手慣れていた。エコーとリバーブを切って、ガイドメロディの設定も消していく。
(あれ? エコー切るのってうまい人がやるやつじゃ)
一瞬、胸がドクンと高鳴った。
先日のシノアキとの一件が思い出される。
これってひょっとして、ナナコも伝説級に歌が
◇
(うっわぁ……)
曲のあいだ中ずっと、僕は腰を抜かしたままだった。
いきなり声量たっぷりの歌い出しにビビらされ、ビブラートに身を震わせ、耳元でささやくようなウィスパーボイスにドキッとさせられ、どこで息継ぎをしているのかわからないほどの肺活量に
それらを台無しにする音程の狂いっぷりがなければ、きっと心の底から感動していたに違いない。
一言で言うと、ナナコは歌が下手だった。
しかもいっそ豪快なほどのレベルで。
1曲目のアニソンはオーディションで選ばれたとある新人歌手の持ち歌で、テクニカルな難曲として有名だった。
最初はよりによってそれを歌うか!?と驚いて、次に相当自信があるんだろうと思ったんだけど……。
もちろんただのカラオケだ。好きな歌を愛情たっぷりに歌えば、へただったとしても盛り上がるだろう。
(いや……しかしこれは)
しかしナナコのへたさというのは、ステータスでいうなら、5つのうち1つだけ飛び抜けて数値が低いというやつで、なんというかこう、残念さだけが残る感じなのだ。
「はー、久々に歌ったらやっぱ気持ち良かったな~」
歌い終わって、ナナコは
「ナナコ、声量すごいね」
とりあえず褒めるポイントが難しいので、一番問題の少なそうなところを突いた。
「そうだった? あたしの実家、おばあちゃんが
小さい頃からずっと
「今でも歌えるの、民謡?」
「歌えるよ。ふねぇ~をーひき~あ~げぇ~……」
いきなりガチンコの民謡が始まって、その声量にまた驚く。
でも、相変わらず音程はズレまくっていた。
「まだ続けてもよかったんだけどね。でも
おばあちゃんの言葉の選び方が涙を誘う。
「歌、好きなんだ?」
聞くと、大きく
「うん、大好き。だからこうやって、ときどきカラオケに来ちゃうんだけど……いつもは1人でさみしいから、つい誘っちゃった」
ナナコは照れくさそうに言うと、
「……下手だったでしょ、あたし」
いきなり自分から核心を突いてきた。
「えっ、あっ、いやっ」
突然の展開すぎて、思わずキョドってしまった。
「ダメなんだよねー。昔から好きで練習してるんだけど、どーしても音程のズレっぷりだけは直しようもなくて」
自覚していたのか……。
取り繕おうとしたのが逆に恥ずかしい。
「自分だと、どこを直せばいいのかわかんないから、ときどき人に聞いてもらいたくて……」
ナナコはチラッと、僕の方を申し訳無さそうに見る。
「……でさ、ちょっと
「お願いって?」
「あたしこの調子だからさ、下手なとこを直そうと思ってるんだけど、一緒に行ってくれる友達がどんどん少なくなっちゃって」
ナナコには悪いけど、聴いているこっちの音程も狂ってきそうな感はある。
「だから時々でいいから、こうやって一緒にカラオケに来てほしいんだけど……ダメかな?」
うっ……。
一瞬、言葉に詰まった。
ナナコはいい子だし、話してて楽しいけれど、このカラオケにずっと付き合うのはなかなかにつらいものがある。
とはいえ、ここで断るというのも人の道に外れる気がする。
「うん、いいよ。僕でよければ、全然」
「ほんとに? やった~! じゃあバイト上がりとかでまたよろしく!」
ナナコは心から
「うーん、今日もよく歌ったなあ……!」
カラオケボックスから外に出て、もう明るくなった空をバックにナナコが伸びをしている。
僕は頭の中で、聞いていた歌の狂った音程を正しいものに変換する作業を続けていた。
(ナナコの友達が、カラオケに付き合ってくれなくなった理由がよくわかった……)
やっぱりこれ、自分の歌い方にまで伝染するやつだ、たぶん。
「今日はありがとね、
「え? ううん、全然」
「なーんか、恭也の前だとすっごく歌いやすかった。緊張しないっていうか、自然な感じで歌えた感じがする……」
たしかに、音程はともかくとして、ナナコはのびやかに歌っていたように見えた。
「あたし、なんとかがんばってうまくなるから、そこまでちょっと我慢して。ね?」
そう頼まれてしまっては仕方がない。
他はばっちりなのだ。これで音程さえ合うようになれば、どうなることか。僕のささやかな歌唱力は、ナナコの歌唱力アップのために犠牲になったのだと思うことにしよう。
「あ、そうだ」
思いついた。
未来を知っているからこそ、できるアドバイスがあるじゃないか。
「じゃあ、ナナコが歌に自信ついたら、録音してネットにアップしよう」
「ネットにって……?」
きょとんとした顔でナナコが尋ねる。
「え、ユーチューブとか動画サイトにアップして、みんなに聴いてもら……」
言った先から、ナナコの顔色がサーッと一気に青ざめた。
「む、むむむ無理無理無理、無理に決まってんでしょそんなの! ただでさえド下手くそなのに、ネットになんかアップしたらボコボコに
「い、いやだから、うまくなったらってことだって」
「そんなのやだよ! だってユーチューブとか世界じゃん。そこにカラオケをアップするとか、自己顕示欲丸出しでキツいって、絶対!」
……そっか、10年前って、まだそういう時代だったんだな。
「じゃあさ、日本だけの動画サイトができて、もっとお手軽にカラオケとかアップできるようになったら、やってみたらいいんじゃない?」
「日本だけの……? そんなのないよね、今のとこ」
うん、今年の年末か来年ぐらいにはできるんだけど。
「仮の話だって。そしたら軽い感じでやってみたらいいんだよ。『歌ってみた』って感じのノリでさ」
「う……歌ってみた、かあ……」
ナナコはまだ僕の提案に渋い顔をしていたけれど、
「うん、それくらいなら……考えてもいいかな」
「よし、じゃあ決まりだ! それを目標にして、練習していこう!」
「ちょ、だから勝手に決めないでよ!!」
怒って否定するナナコ。
でも、その表情と言い方は、本当に嫌がっているという感じではなかった。
人前で歌うことが苦ではないのなら、いろんな人に聴いてほしいという欲望も、きっとあるはずだ。
少し未来、ニコ動ができて、動画や音声を公開するハードルが下がったら。
ナナコの歌だって、聴こうという人がもっと増えてくれるはずだし、そこで場数を踏めば、歌がうまくなるかもしれない。
ナナコの