第一章 狂い始める物語(2)
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「……二年、かからなかったなァ」
随分と独り言が増えた気がする。何故だろうな。
誰かに聞かれでもしたら執事という職を失う可能性がある。それはなんとしても避けねぇとな。
本当に人生は何があるか分からねぇなァ。俺がこんなクソみたいな職を続けたいと思う日がくるとは。
あのガキ……いや、ルーク様に剣を教え始めて約一年と半年。
今日初めて――俺は負けた。
これが笑わずにいられるか? 声を上げて笑いたい気分だ。
だが、今の俺は執事。そんな姿を誰かに見られるわけにはいかねぇ。
だから口を押さえて必死に込み上げてくる感情を噛み殺す。
「本当に……本当にやりやがった……ッ! いや、そんなもんじゃねぇ。俺の想像を遥かに超えていきやがった……ッ!」
あぁ、ダメだ。
どうも感情が漏れ出ちまう。
手を抜いたなんてことはねぇ……いや、それどころか殺す気でやったさ。
いつだってルーク様との模擬戦では、本当に命のやり取りをしているかのようなヒリつきを感じていた。剣を握って間もないはずなのに、マジで勝ちにきてやがんだ。
それは初めて模擬戦をやったときからずっとさ。
僅かでも気を抜けば足元を掬われる。それは剣士としての勘だった。
だから俺はいつも模擬戦の時は真剣よ。教え子のガキと対峙してるんじゃなく、殺さなきゃならねぇ敵と対峙している。それくらい真剣にやらなきゃならなかった。
元王国騎士団副団長って看板はそう軽くねぇ。
はっきり言って、老いたとはいえ俺は今でも王国屈指の剣の腕があると自負している。
その上で、ルーク様は俺に勝った……本当に勝ちやがったんだッ!!
「あぁ……たまらねぇぜ」
心の奥底が熱く震えるのを感じる。
ルーク様が歴史に名を残す、なんてことはもはや必然。
違う……そんなものじゃ断じてねェッ!! 神話だッ!!
俺は神話にその名を刻む男を最も近い場所から見られるんだッ!!
なんて……なんて幸運なんだ俺ァ!!
「――アルフレッド様」
その時、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。メイドの声だ。
この程度で動揺する俺じゃねぇ。なんの問題もなく、即座に意識を切り替えた。
「どうしましたか?」
「はい、アルフレッド様にお客さまがお見えになっております」
「……私に?」
瞬時に思考を巡らせる。俺に客だァ? まるで思い当たる節がねぇ。
良い方向にも、悪い方向にも様々な可能性を考えるが……結局、答えは見つからない。
「旦那様より『会ってきなさい』との言伝を預かっております」
「そうですか。確かに承りました」
「ではご案内します。お客さまはすでに部屋でお待ちですので」
私の言葉を聞き、メイドは一度お辞儀をしてから歩き始めた。
ったく、誰だってんだ。俺は忙しいってのによォ。
ルーク様の今後の訓練内容を考えなきゃならねぇんだ、俺ァ。
心底そう思うが、旦那様の言葉がある。会わないなんて選択肢はありゃしねぇ。
俺は少しだけ重い足取りで歩き始めた。
§
――エルカ・アイ・サザーランド。
それが私の名だ。
この名はかつて知らぬ者がいないほど王国に轟いていたと自負している。
なぜなら私は――王国騎士団団長を務めていたのだから。
これは私の誇りだ。――まあ、昔の話だがな。
女というのは、純粋な筋力では決して男には勝てない。魔法が使えるならまた話が変わってくるのだろうが、生憎とそっちはからっきしだ。
それでも私は、長い王国の歴史でも数少ない女の身でありながら王国騎士団団長という座まで上り詰めた。多少、誇ってもいいだろう?
今は王都で私が気に入った者のみを集め、剣術を教える道場を開いている。
アルに会いに来たのもその為だ。本当はもっと早くこの話を持ちかけたかったが、うまくいくかも分からない道場経営、しかも私情を多分に含んでいる。
私はどんなに剣の才があろうと、気に入らない者に教える気は無い。逆もまた然りだが。
こんな見通しの立たない話を持ちかけるなんて筋が通らない。
だから、こんなにも時間がかかってしまった。
「……元気にしてるだろうか」
アルが副団長を辞めた日のことを今でも鮮明に覚えている。
本当に頑固な奴だった。一度決めたら絶対に曲げない。意志の固すぎる男なんだ、アルは。
最後に会ったのはいつだったか。もはや覚えていないほど昔ということか。
しばらく懐古に浸っていると、ガチャリと応接間の扉が開かれた。
「待たせたか? 元王国騎士団団長、エルカ・アイ・サザーランド殿」
「いえ、こちらこそ突然の訪問を快く受け入れていただき、感謝の言葉もありません。ギルバート卿」
ギルバート家に悪い噂がある訳では無いが、かと言って良い噂もありはしない。
良くも悪くも、この家は貴族らしい貴族のはずだ。
貴族というのは、基本的に王国騎士団のことを良く思っていない。
魔法が使えない無能の集まり、くらいにしか思っていない者がほとんどだ。――だというのに、これはなんだ。
何か、剣に対する価値観が変わったというのか。
「長旅ご苦労。歓迎するぞ」
「ありがとうございます」
三流もいいところだが、一応私は貴族の家柄だ。
追い返されることはないだろうと思っていた。ただ、多少の小言を言われることは想定していたのだが……実際は思わぬ好待遇。どういうことかと腹を探ってしまう。
「紅茶でいいかね?」
「はい、ありがとうございます」
傍に控えていたメイドがティーカップに紅茶を注いだ。心地の良い香りが広がる。
それからも少し言葉を交わしたが、悪意はまるで感じなかった。
「さて、私がいても仕方ないな。すぐにアルフレッドを連れてくるとしよう」
「感謝致します」
そう言うと、ギルバート卿は扉を開けて出ていった。とはいえ、部屋に一人というわけではない。私の傍にはメイドが控えている。
……やはり、おかしい。
そもそも魔法大国であるミレスティア王国は、魔法に長けた者が集い建国したという歴史がある。だから、一流と言われる貴族の家系は程度の差こそあれ魔法に適性があるのだ。
つまり、魔法はほとんど貴族のものというわけだ。
平民にも極稀に魔法に適性のある者がいるが、それは極めて特殊な例外だ。
魔法が使える者と使えない者。魔法が王国を支えてきたという歴史がある以上、この差別だけは絶対になくならない。
……と、思っていたのだが。
先ほどのギルバート卿からはそれを全くと言っていいほど感じなかった。
それどころか敬意すら感じたほどだ……本当に意味がわからない。
――コンッ、コンッ
ぷつぷつと湧く疑問の泡。
そんなことを意に介さないかのように扉をノックする音がこだまする。
すぐに控えていたメイドが扉を開けた。
「お待たせしました」
あぁ、本当に懐かしい。その姿に積年の思いがこみあげてくる。
ただ、久しぶりに見る彼は随分と様変わりしているようだった。
「……プっ」
恭しく頭を下げるアルを見て、思わず零れてしまいそうになった笑い声を何とか堪えた。
「ここからは私が。あなたは戻りなさい」
「かしこまりました。アルフレッド様」
メイドがこの場を後にする。もうここにいるのは私とアルの二人だけ。
無言のままアルは対面のソファに座り、当たり前のように煙草に火をつけ煙を吐き出した。――そして、
「……よォ」
「プっ、あははは。随分と執事が板についたようじゃないかアル。一体誰が信じられる? この男がかつて、戦場で『鬼』と恐れられた元王国騎士団副団長だということを」
もう限界だった私は、腹を抱えて笑ってしまった。
「ついこの前までたどたどしい言葉遣いで四苦八苦していたというのに」
「いつの話してやがんだァ? 何年も前の事を昨日の事のように話すんじゃねぇよ」
「あははは、そうか。もうそんなに経つのか。時間の流れとは恐ろしい」
「んで? 俺になんの用だエルカ。単に昔馴染みの顔を見に来たって訳じゃあねェんだろ?」
「全く、お前は相変わらずだな。いい加減言葉を飾るということを覚えろ」
「んなこと俺にできるわけねェだろうが。性に合わねェよ」
「フフ、だろうな。お前が変わっていなくて安心したよ。――ならば単刀直入に言おう」
私は一度言葉を区切り、そしてすぐに続けた。
「私の弟子を育てる為にお前の力を貸してほしい」
アルとの会話で遠回りしても意味がない。だから、私も腹を割って話そう。
「一人の孤児を拾ってな、成り行きで剣を教えている。『アベル』というんだが、とてもいい目をしている。きっとお前も気に入るはずだ」
これは私の本心、嘘偽りない言葉だ。
「へぇ……才能は?」
「なに?」
「才能はあるのか?」
聞きなれない言葉だった。
アルフレッドという男を知る者であればあるほど、その言葉に耳を疑うことだろう。
アルは平民出身だ。それも極めて貧民に近いほどの貧しい家庭環境だった。誰も剣を教えてくれる者などいない。
だが、アルはそこから這い上がった。途方もない努力を積み重ねることで。
飢えた狼のような目をした男だった。ただ無骨に剣を振ることで己の道を切り開いてきたのだ。才能がどうなどと口にすることはただの一度もなかった。
……この瞬間までは。しかし、聞かれたからには答える他ない。
「剣の才能は……ないな。珍しく魔法の適性はあるようなんだが、貴族でない以上、属性魔法は使えないだろう」
苦しいな……自分が手塩にかけている弟子を、才能がないと断言してしまうのは。
だが仕方ない、事実なのだから。
それにアベルという少年が持っている本質が、才能などというつまらないものでは決してないということもまた事実だ。
「ただ――」
だから、私は力強く言葉を続けた。
「恐ろしいほどの“精神力”を持っている。本当に……恐ろしいほどの。まさしく『化け物』だよ」
そう、私がアベルに見いだした恐るべき力――それは、あのイカれた『精神力』だ。
今思い出しても身震いしてしまう。
「どうだ? 興味がわかないか?」
私はアルに問いかけた。
本当はアベルのことをもっと詳しく入念に話したい。
語りたいエピソードが山ほどあるんだ。しかし、生憎と今はそんな時間がない。
だから問いかけた。アルなら絶対に興味持ってくれると確信して。
……しかし、私の想像していた反応と少し違った。
アルの目は恐ろしく空虚だった。
ソファにもたれ掛かり、天井を見上げながら煙草の煙を吐き出した。
「なあ、エルカ。俺たちはよくこんな話をしたな。剣が先か、心が先か。覚えているか?」
「……あぁ」
私の問いかけに答えることなくアルは語り始めた。
「剣の腕が立つから心が強いのか。それとも、心が強いから剣の腕が立つのか。お前の答えはいつも同じ。心が先……だよな?」
「そうだ。正しき心が先にあり、剣はそれについてくるものだ。少なくとも私はそう信じている」
私がどんなに才能があろうと弟子にしないことがあるのは、この信念があるからだ。
「俺もそう思う」
アルのその言葉を聞き安心した。やはり、アルは昔と何も――
「……いや、そう思っていた」
心臓を握りしめられるような感覚がした。
「……どういうことだ?」
「簡単な話だ。考えが変わったんだよ」
「……剣が先、とでも言うのか」
「いや、ちょっと違ェな。――剣と心は全くの無関係、ってのが俺の答えさ」
アルのその目には、およそ人間らしい感情が見当たらなかった。
「それは違うッ!!」
私は思わず声を荒らげてしまった。
「まぁ、聞けよ」
バンッ、とテーブルを叩いて立ち上がった私を、アルは至って落ち着いた様子で宥めた。
私も友人との問答で取り乱した自分を恥じた。
「ちょっとこっち来い」
アルは不意に立ち上がり、窓際へと向かった。
何を、と思うが、黙って従う。
「見ろよ」
言われるがままに窓の外を覗き込む。そして、私の目に映ったのは美しい中庭と一人の少年だ。金髪金眼のとても端整な顔立ちをした少年。
私はこの少年を知っている――ギルバート家の嫡男、ルーク・ウィザリア・ギルバートだ。
しかし、この少年がどうしたというのか。
「もうすぐ時間だ。いつも通りなら、ルーク様はこれから『型』を始める。それを見て、感想を聞かせてくれ」
「何? 剣術をやっているのか?」
「あぁ、頼まれてな。だいたい一年半くらい前から俺が剣を教えている」
「……ほう」
なるほど、ギルバート卿が私に敬意を払っていたのはこのことが起因していたのか。
だが、それでもアルの意図がわからない。剣を握って一年半などたかが知れている。一体何を見せたいというのか。
思案を巡らせながら少年を見ていた。すると、少年が動く。
そのまま剣を取り出した。
そして――あまりにも美しい剣捌きに心が震えた。
恐ろしく洗練された『型』。
それはもはや剣術の枠を軽く逸脱し、精巧な芸術へと昇華されていた。
目を奪われるとはまさにこのこと。様々なことを考えていたはずの脳は、たちどころに感動の二文字に全て塗り変わった。
あまりにも美しい。
ここまで完璧な『型』は見たことがない。私自身を含めてもその答えは覆らない。
……いや、待て。
待て待て待て。感動のあまりすぐに気づけなかった。
これが……この剣捌きが――
「……一年半……だと?」
「そうだ。これが、これこそが――『才能』だ」
不意にアルを見る。そして、驚愕する。
とてつもなく不気味な笑みがそこには張り付いていたからだ。
悪魔を崇拝するものが、その悪魔と謁見したかのような。
そんな狂信者の笑みだ。
「アル……お前……」
「……あぁ、すまねぇ。もういい、座ってくれ」
未だに心がザワつく。力が抜け、倒れるように私は座った。
「どうだ? 感想を聞かせてくれよ」
「……凄まじい、の一言だ」
あんなものを見せられればそう言う他ない。これ以上の言葉が見つからない。
「だよな。だがな、ルーク様が善かと言われれば絶対にそうじゃない。もし平民がルーク様にぶつかりでもしようもんなら、躊躇いなく蹴り飛ばすだろうぜ? そういう御方だ、ルーク様は」
「…………」
なるほど……あの少年がお前を変えてしまったのだな……。
「才能ってなァ、神の気まぐれで配られてんだよ。そこに善人とか悪人とかねェのさ」
「それは……ッ」
否定したかった。しかし、その言葉は言えない。言えるはずがない。
目の前であんなものを見せられてしまえば。
「今思えば、俺がお前に勝てなかった理由も単純な話だった。お前には才能があって、俺にはなかった。それだけの話だったんだよ」
アルはとても遠くを見るような目をしてそう呟いた。
「…………」
違う、違うだろアル……お前はそんな男じゃなかった……。
「――改めて、お前からの申し出は断らせてもらうぜ。……悪ィな」
分かっていたさ、そんなことは。お前がすぐに返事をしてくれなかった時点で。
いや――お前の目を見た、あの時すでに。
「俺は近くで見てェんだよ。ルーク様が何を成すのか。それが善だろうが悪だろうが、俺は一番近くで見てェんだッ!! ハハッ、軽蔑したかよ、エルカ?」
「…………」
もはや何も言葉は無い。もういないんだな……あの頃のアルは。
「アベル……だったか? そのガキがルーク様と対峙することもあるかもしれねェ。その時にできるだけ抗ってくれることを、心から願っているぜェ」
その言葉を最後に、私はギルバート邸を後にした。
「……アベルを育て上げよう」
それに私の全てを懸ける。でなければ、あのルークという少年には絶対に勝てない。
心の奥底から熱い炎が吹き上がるのを確かに感じた。
§
エルカの言葉に背中を押され、アルフレッドはアベルという少年の第二の師となるはずだった。
しかしそうはならず、エルカとアルフレッドは異なる道を歩み始める。
その原因は言うまでもなく、『ルーク・ウィザリア・ギルバート』という男の理解を超えた“才能”だろう。――いや、真に恐ろしいのはそんな男が“努力”し始めたことか。
そう、この物語はすでに狂い始めていたのだ――。