3 私は君の居場所も知りたい

 地上四十二階建て、高さ一六五メートル、地下には駐車場。

 ライゼンベルタワー横浜。

 天条寺家当主から、灰瀬母子の新たな住居として与えられたのが、このタワーマンションだ。

 マンション名には特に意味はないらしい。なんじゃそりゃ。

 オートロックやコンシェルジュ常駐、ジム完備には驚かなかったが、二十四時間ゴミ出しOKにはさすがの僕もびっくりした。

 しかも各階にそれぞれゴミ捨て場があるという……。

 この便利さに慣れたら、もう一般のアパートやマンションには戻れないかもしれない。

「お、恐ろしい……今さらながら、恐ろしい家を与えられたもんだよ」

「ウチのゴミは家の裏手のゴミ捨て場にポンポン捨てて、業者にまとめて持って行ってもらってるねえ」

「……上には上がいるな」

 薄々気づいていたが、白河家は桁違いのお金持ちらしい。

 ゴミ出しのことはともかく。

 僕と白河がやってきたのは、灰瀬母子の豪華な新居だ。

「……って、今日出会った男子の家に来るか? まさか、ここまでついてくるとは」

 僕は一人で逃げたかったが、白河を追い払うわけにもいかず、ずるずるついて来られてしまった。

「今日じゃないでしょ。この前、ホテルで顔合わせてるし」

「ほとんど初対面みたいなもんじゃないか……?」

「しょうがないじゃん」

 むうっ、と白河は頬をふくらませる。

 顔はまるきり大人の女の人なのに、表情は中二どころか小学生みたいだ。

「わたし、コンビニで電子マネー使っちゃったから。もう買い食いがバレてるかも。怒られるから、帰りたくない」

「クラスの人たちじゃなくて、そっちが怖かったのか」

 最終的には家に帰るんだから、どっちみち親に怒られるだろうに。

 白河は先延ばしにする気満々のようなので、仕方なく僕はエントランスからマンション内に入り、エレベーターで四十二階へ。

「ふーん、最上階なんだ?」

「父親は僕らに気を遣ったんだろうけど、微妙なんだよな……時間かかるし、もしエレベーターが動かなくなったら、階段で上り下りするのは地獄だよな」

「下のフロアも一室買っとけばいいんじゃない?」

「このマンション、一番安い部屋でも億近いんだけど」

 そんな、〝これ包んでくださる?〟みたいなノリで買えるシロモノじゃない。

 スマホで自宅のドアを開け、家の中に入った。スマートキー、マジ便利。

 引っ越してまだ数日なので、他人の家みたいな匂いがする。

 廊下を少し進んで、リビングへ。

 広さはなんと二〇畳以上、三〇へいべいを超えている。

 ちなみに前のアパートの居間は八畳だった。

「へー、なかなかいい家だね。なんもないけど。ミニマリストってヤツ?」

「引っ越してきたばかりなら、こんなもんだろ」

 父が家具家電まで手配してくれたので、前のアパートのものはほとんど処分した。

 まだ生活感が希薄なせいで、殺風景に見えるんだろう。

「見晴らし最高だね。ウチは一軒家だけど、マンション暮らしもいいかも」

 白河は、味気ないリビングにすぐに興味を失ったらしい。

 開放感がありすぎる大きな窓の前に立ち、カーテンを開けて外の景色を眺めている。

「よくカーテン開ける気になるなあ」

 我が家では、リビングのカーテンは昼も夜も閉めっぱなしだ。

 だって、この部屋、高すぎるから。

 リビングの窓は特に大きく、眼下の景色がよく見えすぎる。

 ここから見えるのは横浜駅近くの海沿いの街並で、特に夜景は綺麗だが、やはり高すぎて、眺めていると頭がクラクラしてくる。

「せっかく景色いいのに、灰瀬は見ないの?」

「ここから落ちたら一〇〇パー死ぬからなあ。それを思うと、見る気になれない」

「落ちることなんて一〇〇パーないでしょ?」

「ないよ」

 そもそも、このマンションはベランダに出られない。

 下のほうの階は知らないが、この四十二階は強風も吹くし、万が一の転落を防ぐためにベランダに限らず窓は開かない構造になってる。

「白河の家は一軒家なんだよな。洋館か武家屋敷か、どっち?」

「その二択? 灰瀬はお金持ちに偏見があるんじゃないの?」

「イメージが貧困なだけだよ」

 なにしろ、十四年の人生でお金持ちと言える人との付き合いはなかった。

 いきなり上の階級に放り込まれたのだから、偏見の一つや二つはあるに決まってる。

「普通の二階建ての家だよ、ウチは。えーと、10LDKだったかな」

「どんな悪事をはたらいたら、そんな大きな家に住めるんだ?」

「悪事前提か! この家だって、普通の稼ぎじゃ買えないでしょ!」

「それはそうだ。人のことは言えないな」

 ちなみに、このマンションの部屋は3LDKだ。

 僕と母だけなので、贅沢なことに部屋を一つ余らせてしまっている。

「ああ、そうだ。一応、お茶くらいは出さないと」

「お茶請けは和菓子の気分かな♡」

「さっきスイーツもアイスも食べてたような……」

「灰瀬に一口あげたじゃん!」

「なんでキレてるんだよ、情緒不安定かよ」

 育ち盛りとはいえ、カロリーという言葉を忘れすぎじゃないか。

 我が家も多少なりとも客を迎えたことがあるが、白河はトップクラスに図々しい。

 というか、白河が我が物顔すぎて──

「女子と二人きりでドキドキ、みたいな感じがひとかけらもないな」

「おっ、ケンカか? いいよ、どうせ誰も見てないし、お嬢様の野蛮なトコ見せよう」

 白河は、シュッシュッと軽くパンチを繰り出してくる。

 意外とサマになっていて、ミニスカートもひらひら揺れていて、それはドキドキする。

「わ、おい、ガチで当たってるって」

 お嬢様パンチを手で受け止めて──これって、普通に手が触れ合ってるような?

「い、いいから、僕はお茶を淹れてくるよ」

「逃げたな。わたしの勝ちだね」

 勝ち誇る白河から逃亡し、キッチンでペットボトルのお茶をグラスに注いで。

 リビングに戻り、煎餅と一緒にテーブルに置いた。

「おー、本当に和菓子だ。お煎餅なんて久しぶりだなあ」

「僕はこのスフレプリンをいただくよ」

 放送室から慌ただしく逃げたせいで、食べるどころじゃなかった。

 僕はプリンを、白河は煎餅をバリバリと音を立てて食べ始める。

「うん、美味しい。あっさりしてて食べやすいな。コンビニスイーツもレベル高い」

「でしょ。このお煎餅も甘塩っぱくて美味しい」

「ただの海苔煎餅だよ。まあ、口に合ったならよかった」

 なにをしてるんだろうな、僕は。

 我が家に許嫁を自称する女子を連れ込んで、お茶とお菓子を振る舞ってる。

 父に認知される前なら、考えられもしなかった展開だ。

「というか、いろいろ食べたばかりなのに。煎餅なんて食べてたら、デブるぞ?」

「デブる! 女子にそんな容赦ない言い方、斬新すぎ!」

「そっちが猛スピードで距離を詰めてくるからじゃないか?」

「どんなに距離が詰まっても、その言い方はない!」

 きっぱりと言い切られてしまった。

 まあ、贅肉のかけらもなさそうな相手だから言えることではある。

「あのね、これでもわたし、一七四センチで五十一キロなんだよ?」

「そんなあっさり女子が自分の体重を……って五十一?」

「お疑いなら、体重計を持てい! ここで量ってあげよう!」

「…………」

 僕は、食べ終えたプリンのカップを置き、白河の身体を上から下まで眺め回す。

「な、なに?」

「……いや」

 白河は背は高いが、確かにかなり華奢だ。

 それでいて胸は大きく盛り上がって──そこはいい。

 胸部の脂肪の重さは馬鹿にできないらしいが、そこを差し引いても──

「白河、ちょっと待ってて」

「え、ダメ、体重計は許して。さっきのは冗談。わたしは五十一キロ。最後に量ったときは間違いなくそうだったんだから、もう一度量らない限り、五十二キロ以上の白河白亜はこの世にいないんだよ」

「シュレディンガーのナントカみたいな話だな。そうじゃない。それなら、もっと食べるべきだな」

 僕はキッチンに行き、背伸びしてシンク上の吊り戸棚を開く。

 中にはいくつかの箱が積まれていて、僕の目当ては一番上の箱だ。

「くっそ、ここの棚、高すぎるんだよ。設計ミスじゃないのか、これ……」

「ほっ」

「…………っ!」

 いきなり背中に、ぐにゅっと柔らかなものが押しつけられた。

「灰瀬、どれ取りたいの?」

「……い、一番上のヤツ」

「これだね。ほい」

 いつの間にか僕の背後に忍び寄った白河が、後ろから戸棚に手を伸ばしていた。

 一七四センチなら、一番上の箱も軽々と届くらしい。

「ん? なにこれ? くらどう〝黒糖黒蜜まんじゅう〟……」

「…………っ!」

 白河は僕に後ろからくっつき、肩も掴んできて、まんじゅうの箱を覗き込んでる。

 ぐいっと二つのふくらみがさらに押しつけられて──

「し、白河、ちょっと……その……」

「え? あ、ああ。ごめん、つい」

 白河は、ぱっと僕の背中から離れた。

 胸を押しつけてからかってきたんじゃなく、親切で手伝ってくれたらしいが──無防備すぎだろ。

「えーと……こ、このおまんじゅう、全部食べていいの?」

「そ、そうは言ってないだろ」

 白河も少し赤くなってるので、こっちまで余計に恥ずかしい。

「その黒糖黒蜜まんじゅう、僕の好物なんだよ。僕がすぐに全部食べちゃうから、母が隠すんだよな」

「へ、へぇー。灰瀬の好物、食べてみたいな」

「まあ……そのために取りに来たんだけどさ」

 そしたら、突然後ろから二つのおまんじゅうが──って、品がないな。

「けっこうカロリーお高めだから、体重増やすにはいいんだよ」

「別にわたし、体重増やしたいわけじゃないんだけどなあ」

 そう言いつつ、白河は黒糖黒蜜まんじゅうの箱をガン見してる。

 箱に印刷されたまんじゅうの写真だけでも、よだれが出るほど美味しそうだからな。

 とにかく、さほど広くないキッチンに二人でいるのはよくない。

 リビングに戻って、白河とソファに並んで座る。

 僕だけ床に座るのもおかしいので、距離が近いのは仕方ない。

「あ、これ美味い! ヤバい! 手が、手が止まらないよ、灰瀬!」

「ちなみにそれ、一つ二〇〇キロカロリーあるから」

「後で言わないで!」

 白河は、既にぱくぱくとまんじゅうを三つもたいらげてる。

「お土産に二、三個持ってってもいいよ」

「本気でわたしを太らそうとしてる?」

 じいっ、と割とマジで睨まれてしまう。

「といっても、わたし食べても全然太らないタイプなんだよね」

「女子に恨まれるから、ヨソで言わないほうがいいな」

 僕は気を利かせて、白河のグラスにお茶のおかわりを注いでやる。

「はぁ……お菓子もあるし、お茶のおかわりも自動で出てくるし、もうここん家の子になりたい」

「そういえば、結婚するなら僕が白河家に婿入りするのかな?」

「灰瀬、なんか許嫁の話がどうでもよくなってない?」

「さすがに、そこまでは言わないけど」

 続けて白河とドタバタしすぎてるせいで、許嫁のインパクトは薄れてる。

「まあ、別に難しい話じゃないんだけどね。というか、既にだいたい説明したっていうか。どうせ、近いうちに灰瀬にも──あ、そうだ」

「ん? な、なんだ?」

 白河が、さらに僕のそばに移動して、じーっと大きな目を向けてくる。

「一つ、訊いておかないと。灰瀬、カノジョいるの?」

「は? カ、カノジョ?」

「カノジョがいたら、許嫁の話は秘密にしとかないとまずいでしょ?」

「……破談じゃなくて、秘密にするのか」

「そんなのは子供の事情だからね」

 くすっ、と笑う白河。

 大人びている彼女が言うと、奇妙に感じられる台詞だ。

「…………カノジョなんかいないよ。先回りして答えるけど、いたこともない」

 別にどうでもいいことだ。

 中二なら、カノジョいない歴と年齢がイコールなのは普通だろう。

「はい、それで?」

「それで、ってなんだよ?」

「次は、わたしのカレシの有無とか過去の男関係とか掘り下げるところじゃない?」

「白河、カレシはいる? 過去にいたことはある? いたなら、初めてのカレシはいくつのとき?」

「おいおい、ズバズバ訊くじゃないか、ボーイ」

 誰がボーイだよ。ボーイだけど。

「そこまで訊かれたら、簡単には答えられないなあ。ねえ、灰瀬?」

「ん?」

 白河は、だらしない姿勢でソファに座り直し、膝を立てるようなポーズになって。

 真っ白な太ももが付け根のあたりまで見えてしまいそうだ。

 おまけに、ちらっと下着も──

「身体に訊いてみたら? わたしが経験豊富なら、テクニックを見ればわかるでしょ?」

「なんだ、ビッチか……」

「おいこら、灰瀬! 君、言いたい放題すぎるぞ!」

「そういう性格なもんで」

 ちらちらと白河の太ももを見てしまいそうになりつつ、答える。

 そろそろ姿勢を正してほしい。

「ふふん……

「え?」

「だから、十人。経験は充分かな?」

 白河は、またくすくすと笑い、ようやく立てていた膝を下ろしてくれた。

 ちょっと惜しいような気もするが……ほっとしたかも。

 でも、十人……十人か。

 白河白亜は大人っぽい美人だ。

 可愛い女子には男が途切れず寄ってくるのが当たり前だし。

 だから、全然意外性はない……ないんだが、なんとなくモヤっとする。

「灰瀬はわたしの過去なんか気にしない──興味がないかな?」

「……今のところは特に」

 少し間を空けて答えてしまったが、割と本心かもしれない。

「そうか。でも、灰瀬は〝許嫁〟ってものがピンと来てないでしょ?」

「来るわけないだろう」

 そんなもの、フィクションでしか聞かない単語だ。

「許嫁になるってことは──白河白亜が、灰瀬譲のものになるってことだよ」

「…………」

「なんか変な顔してる、灰瀬」

「悪かったな、変な顔で」

 そんな恐ろしいことを言われたら、変な顔にもなるだろう。

「悪いが、僕は人を所有する趣味はないんだ」

「もちろん、譲くんが白亜さんのものになるってことでもあるよ」

「僕も所有されるのか!?」

「婚姻は双方向的だからね。灰瀬の黒糖黒蜜まんじゅうはわたしのもの、わたしのお菓子もわたしのもの」

「一方的な搾取が!」

 まったく双方向でもないし、不公平すぎる。

「それが嫌なら──生まれついてのお嬢様で、なんでも手に入れてきたわたしが、強引に灰瀬譲くんをわたしのものにしてもいいよ」

「…………」

 目が本気だ──そして、人間一人を所有することにためらいのない目だ。

「あのな、僕は人をものにするとかされるとかは──」


「ただいまー!」


「げっ……!」

 突然、玄関のほうから甲高い声が響いてきた。

 僕はドキリとして、思わずソファから立ち上がる。

 まさか、このタイミングで一番起きてほしくない事態が……!



「おーい、ママのお帰りですよぉ!」

 とりあえず玄関に走ろうとして──一歩遅かった。

 バン、と勢いよくリビングのドアが開き、中に入ってきたのは──

「あれ?」

 もちろん、我が母だった。

 ショートの黒髪、銀色のピアス。

 紺色の上着、同色の膝丈タイトスカートという格好だ。

「ゆず、転校したてでもう女の子連れ込んでんの? なに、そのスピード感?」

「そ、そうじゃなくて!」

「灰瀬、お母さんから〝ゆず〟って呼ばれてんだ? なんか可愛いね。わたしもゆずゆずって呼ぼうかな」

「可愛さを増量するな。そんなことより──母さん、ずいぶん早いね?」

「明日から久しぶりに現地でアテンドって言っといたでしょ。今日は早めに上がっておいたの。でもまさか──あらら?」

 母さんは、ずかずかと歩いてきて、白河の前に立った。

 白河もつられたように立ち上がる。

 母は、そんな白河をちらりと見て──

「この人、制服着てるけど……コスプレ?」

「はい、譲くん、制服のほうが興奮するらしくて」

「ウチの息子がおっさんに!?」

「待て待て!」

 白河はわざとらしくスカートをつまんで、制服を見せつけるようにしてる。

「この人、同級生だよ! こんな見た目だけど、中二だって!」

「えっ!?」

 母は、びっくりして白河を頭から爪先まで舐めるように見る。

 やはり、ホテルでの僕と同じく大人のお姉さんだと思ったんだろう。

「そ、そうなの……ああ、ごめんなさい。コスプレとか言っちゃって」

「いえ、こちらも悪ノリしてしまいました。無駄にすくすく育っちゃったんですよ」

 白河はそう言うと、すっと表情を引き締めて優雅に一礼した。

 まったく落ち着きがないように見えて、たまに育ちの良さが出てくるみたいだ。

「はじめまして、白河白亜と申します。天条寺のおじさまにはお世話になっております」

「え? 白河……あっ! そういうことぉ!?」

「ちょっと待って、母さんには許嫁の話通ってんのか?」

「ええ、聞いてるわ。どのタイミングで言えば、ゆずを驚かせるかなって悩んでたのよ」

「もっと別の次元で悩んでくれないか?」

 僕に話を通す前に突っぱねるとかさ。

 上流階級の仲間入りはしたくない、というのは母も僕と同じ気持ちだと思ってたのに。

「ああ、私、譲の母親の灰瀬理代子といいます。古風な名前でしょう?」

「ウチの中学って、古風な名前の子も多いですよ。わたしは、ちょっとイキってる名前つけられましたけど」

 確かに、〝白亜〟はキラキラネームではないにしても、古風とは言えない。

「白亜っていい名前だわ。ねえ、ゆず?」

「僕に振らないで」

「他に振る相手いないでしょ。ああ、知ってると思うけど、私はごく一般人です。NTSって会社に勤めてて」

 おいおい、なんかお見合いみたいになってきたぞ。

「NTS……旅行会社にお勤めなんですね、お母様」

 そう、NTSは業界最大手の旅行会社で、母は長年そこに勤めている。

「あら、お母様だなんて。ええ、旅好きが高じて趣味を仕事にしちゃって」

 てへ、と舌を出す母。

 おかしいな、中二の同級生のほうが母より落ち着いて見えるぞ。

「旅行業界はこの三年近く厳しかったけど、やっと本格的に動き出したから、もう忙しくて! なんだかんだで、旅行好きは多いのよ」

「そうですね、飛行機やホテルがどこも満員ってニュースで見ました」

「でしょ! 今が稼ぎ時なのよ!」

 母は、だいぶエキサイトしてる。

 仕事の話になるとすぐに興奮するのが困ったところだ。

「ここ数年は企画のお仕事がメインなのだけど、海外ツアーの添乗員もやってるから。本当はそっちのほうが好きなの。何日も家を空けることになるから、ゆずには悪いけど」

「学校もありますし、子連れで行くわけにはいきませんね」

「そうなのよ、この子と歳の近い従姉がいるから面倒を見てもらってたりね」

「母さん、そんな話はいいから」

 初めて家に来た相手に、家庭の事情を話しすぎだ。

「わたしも旅行は好きなんです。頻繁には行けませんけど、普段と違う空気を吸えるだけでも嬉しくて」

「ええ、旅って雰囲気を楽しむものだから。白亜ちゃん、わかってるわね。今度、一緒に旅しちゃう? プロが企画を立ててあげるわ」

「行きまーす! あ、灰瀬も連れてってあげようか?」

「なんで僕がオマケなんだよ」

 母と白河が意気投合してるの、なんか怖い。

「もういいから、白河も帰ったほうがいいよ。門限とかあるんじゃないの?」

「わたしが門限を守るタイプに見えるの?」

「偉そうに言うな! 白河がどんなタイプかまだ読み切れないよ!」

 積極的にルールを破るタイプには見えるが。

「おっ?」

 そのとき、白河が変な声を上げた。

 左腕を上げ、腕時計を見つめてる。

 アップルウォッチだ。気づかなかったけど、腕時計が振動したらしい。

「確かにタイムリミットみたい。お迎えが来るって」

「ああ、車で迎えに来るのか」

「学校サボったこともバレてるみたい」

 白河は僕の耳に顔を寄せてささやいてきた。

 母に、サボリがバレないように気を遣ってくれたらしい。

「電子マネーのこともバレてるかなあ……怒られんの嫌いなんだよね……」

「好きな人はいないだろ」

 とにかく、お迎えは来てしまうのだから、観念するしかない。

 まだ話し足りない顔の母を置いて、僕はマンションの外まで白河を連れて行った。

「母さんが騒がしくて悪かった。うるさいんだよ、あの人」

「全然。もっとお話ししたかったね。旅もマジで行ってみたいなー。わたしのお義母さんになるんだし、旅で親睦を深めるのはアリじゃない?」

「義母と書いてかあさんと呼ぶのは早すぎると思うんだ……」

 どのみち、母は最近特に忙しいんだし、個人旅行は難しいだろう。

「あ、来た。あれ、ウチの車」

「レクサスだ。ロールスロイスとかベンツとかじゃないんだね」

「やっぱ、お金持ちに偏見あるね、灰瀬。普段使いには国産車が一番なんだよ」

「ウチはそもそも自家用車がない家庭なんでね」

 タワマン地下には駐車場もあって、毎月法外な料金を巻き上げられるらしい。

 母はそこまでして車に乗る必要性を認めないそうだ。

 そうこうしているうちに、白河家のレクサスがゆっくり近づいてきて止まった。

「じゃあ灰瀬、今日はありがと。よかったよ」

「よかった?」

「一緒にスイーツ食べてて楽しかったから。結局、一緒にいて、好きなものを笑いながら食べられるかってところが大事だから」

「そんなことのためにスイーツ爆買いしてたのか……」

 僕のほうも、退屈だけはしなかったけれど。

「ねえ、灰瀬。さっき言ったよね、許嫁は本人の意思を無視して決まるもんだって」

「ああ、とんでもない時代錯誤だな。上流階級は人権って言葉を知らないのかな?」

 どうも、僕らの許嫁問題には白河の意思が介入してる疑いがあるけれど。

「確かに許嫁なんて、古臭いシステムだけどね。でもさ」

「うん?」

「わたしは否定するばかりじゃダメだと思うんだよ。自分と関係ないところで決まることなんて、人生ではいくらでもあるんだから」

「まあ……そうだけど」

 僕だって、〝父親の認知〟から現状が大きく変わってしまった。

「許嫁だって、相手のことを知って、好きになれるように努力するのもアリじゃない?」

「それは……あくまで、白河の考え方だろ。でもなるほど、努力か──」

「うん? なに、灰瀬? あ、そら、ちょっとだけ待ってて」

「はい、白亜お嬢様」

 白河は開いていた助手席のドアから車内を覗きつつ、言った。

 答えたのは、運転席にいた若い女性だ。

 着ているのは、なぜか男物のスーツ。

 茶色の長い髪を後ろでまとめていて、角度によってはショートカットにも見える。

 ぱっと見だと、イケメンの男性のようだ。

 前髪が長くて目が隠れがちで、失礼ながら怪しげな雰囲気もあるような……。

「あの人、白河家の使用人? 使用人さんって本当にいるんだな」

「昔ほどじゃないよ。今は三人しかいないし」

「現実的だな」

 まあ、三人も使用人がいれば充分に凄いけど。

「それより──ああ、運転手さんを待たせると悪いかな?」

「御空は運転手じゃなくて付き人。運転から身の回りの世話、護衛までこなせるんだよ」

「……なるほど」

 御空という人、ただ者じゃなさそうな雰囲気だ。

「そうじゃなくて、灰瀬。なんか言いたいこと、あるんじゃないの?」

「ああ、そうだった。たいしたことじゃないんだけど」

 僕は長身の白河を見上げるようにする。

 許嫁の話は冗談じゃないみたいだし、既に白河の猛スピードに巻き込まれてるなら──

「今度は、

「え」

 白河は、きょとんとして僕を見つめてくる。

 そして、たちまち──

「ホント!? ホントにわたしの家に来てくれんの!? そんなにわたしに興味津々かー!」

「ちょっ……!」

 白河はぱぁっと顔を輝かせて、僕の手を両手で握り締めてきた。

 今にも抱きついてきそうなほどの勢いだ。

「いいよ、灰瀬。そのスピード感、嫌いじゃない!」

「…………」

 僕、そんなに喜ばれること言ったか?

 ただ──許嫁がいたって、死ぬわけじゃない。

 だったら、流されるだけじゃなくてこちらから飛び込んでもいい。

 猛スピードに巻き込まれるだけじゃなくて、こちらもを合わせてみよう。

 むしろ、そのほうが危険は減るかもしれない。

 白河が努力しているなら、僕もただ拒否するんじゃなくてこの事態に立ち向かう努力はするべきではある。

 まさか、白河の家に行っても命を取られることはないだろうし……と思ったんだけど。

 僕、もしかして早まっただろうか?

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