Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(2)

     2


 時計の秒針がカチカチと時を刻んでいる。

 その秒針とり合うように、カチャカチャというタイピング音が、カーテンを閉め切った部屋で鳴り響いていた。音を発するのは、骨のように細い指。

 髪が白く、死んだ魚のような目をした男が一心不乱にタイピングしている。

「……経緯……ゲーム配信……のバッドマナー……。……とは、死体撃ち……」

 男がぶつぶつとつぶやくたび、画面には電子の文字がつづられる。

 ブログ名【燃えよ、ぶい!】──そこに男の願いが込められている。

 誰の注目を浴びるでもなく、誰からいさめられるでもなく、男は取りかれたようにブログを書き綴る。内容はVTuberかいわいの炎上事件ばかりだ。

 とある男性VTuberがFPSゲームでヒートアップした際、死体撃ちや暴言吐き、仲間へのマウント発言をきっかけに炎上した。その件に関する記事を書き終えた男は、ギターの弦を引っかき回すような耳鳴りを覚え、ノートパソコンを勢いよく閉じた。

 締め切ったカーテンの向こうをにらみ、立ち上がる。男はゴミで荒れ果てた汚部屋をまたいで窓辺に近づいた。そして窓を開け放つ。

 さんさんと照りつけるし。青空──。

 死相の輪郭があらわになる。一夏に青春をささげた男子高校生の姿は、そこにはない。


 ──かるごう、十七歳。

 休学という名の不登校に甘んじ、惰性で生きる名ばかりの高校生。

 信じたアイドルに裏切られ、肩を組んで信仰をうたった戦友にも見捨てられた。

 現在はブログのアフィリエイト収入を頼りに一人暮らしをしている。

 仰いだ青空に池袋五番線の架線の幻影が映る。それはすぐ溶けるように消え、同時に耳鳴りもんだ。

「また……あの季節が……」

 夏は嫌いだ。せみの死骸が、短い栄華だったクソナメクジを皮肉るように、道路に散らばっていくからだ。業はその耳鳴りが幻聴だと気づき、ほっと胸をなで下ろす。

 ただ、せ返るような季節が着実に近づいているのは避けられない事実──。

「……くっ」

 その熱気を忘れられるよう、エアコンを最大風速にして業はベッドに倒れ込んだ。

 日が高くなるにつれて陽光は強まり、エアコンの風すらまるで熱風のように感じる。目をつぶり、その異常感にじっと耐えながら暗闇の中で息をした。

 この部屋は、崩壊して密閉された方舟はこぶねのようだった。

 光を浴びず、風も通さず、炎上というしゃくねつごうさらされ続けるこの世の地獄。

 業はこれまで、その灼熱に耐え続けていた。夏が過ぎ去り、秋が訪れ、冬に思い出が凍りついてもずっと──。


 振り返れば、かなえの炎上は必然だった。

 堅調に人気を伸ばしていた彼女だが、ソロライブの敢行により一夜にしてVTuber界で注目を集めすぎた。

 結果、彼女の魂の前世、すなわち、バーチャル界に進出する前の姿が特定された。

 ネットには、普段は沈黙を貫く見張り番的存在──通称〝特定班〟なる存在がいる。

 彼らの原動力はさだかではない。特定の人物に嫉妬のような感情を抱いたとき、その力とスピードを遺憾なく発揮する。そして数時間ないし数十分のうちに電子の海に散らばる対象の情報をかき集め、のべつまくなしに晒し上げてしまうのだ。

 彼女の魂(=中の人)がリアルでボーカル活動をしていたときのプロフィールや素顔、鍵のかかっていないサブアカウントが、一晩を待たず白日の下に晒された。

 そこには、ただ顔バレした程度に収まらない、乃亜の魂の醜態があった。

 たとえば彼氏への愚痴。この程度ならまだわいいものだ。ツイートを遡れば口汚い下ネタの数々。パパ活を匂わせる発言。アイドルオタクに対する偏見とぼう中傷。

 乃亜の脇が甘かったと言われればそれまでだ。

 だが、もし前世が特定されなければ──。

 特定班のひんしゅくを買わなければ──。

 SNSでトレンド入りしなければ──。

 ソロライブ序盤が中継されなければ──。

 クラウドファンディングが達成しなければ──。

 そもそもファーストソロライブが企画されなければ──。

 ファンの筆頭としてその名をとどろかせた、乃亜推しカルゴの存在がなければ──。

 あるいは、彼女の方舟は沈むことはなかったかもしれない。


 当初、業は諦めていなかった。

 炎上なんて時が過ぎれば鎮火する。女のうそを許すのが男だ、と人気漫画のキャラクターも言っている。それをみ込めずして何がトップオタか。

 夢叶乃亜が隠していた裏の顔──。

 そこにあった醜態で最も大きな火種だったのは、オタクへの偏見だった。

 パパ活を匂わせる発言は、匂わせ程度で確証はない。しかし、オタクに対する暴言は本人の発した言葉。言い逃れはできない。まぎれもなく、彼女の活動スローガンがはりぼてであることが証明され、ファンへの裏切りが露呈したのだ。

 ファーストソロライブの日、一時はYouTubeのチャンネル登録者も三十万人を超えた彼女だが、直後には一気に減少へと転じて三万人ほど減った。動画には低評価が軒並みつけられ、『星ヶ丘ハイスクール』の運営が閉じるまでコメント欄も荒れに荒れた。

 いままでノア友を名乗っていた者すら反転アンチと化す事態だった。

 そんな逆境においてもまだ、業は諦めていなかった。

 夢叶乃亜は業がすべてを捧げた女だ。船長の失態で沈みゆく方舟だとしても、その方舟を持ち直さなければ、自らも死ぬのは必定だった。

 非公式のDiscordサーバーで、業はノア友に呼びかける。


 ○カルゴ 2021/9/12

 :乃亜ちゃんの件、落ち着いたらまた一緒に応援していきましょう!

 ○カルゴ 2021/9/30

 :みなさん! 乃亜ちゃんが戻ってきたときのために、盛大にお出迎えするための贈呈品企画を考えてみました。

 ○カルゴ 2021/10/24

 :そうだ。乃亜ちゃんが復帰するまで非公式のファンイベントをやりませんか? オンライン歌合戦でもいいし、ゲーム大会でもいいと思うんですが……。


 カタツムリのアイコンによるメッセージがむなしく続く。

 熱狂の夜を共にした戦友でさえ、誰一人反応しなかった。業は独りになった。

 それから、沈黙をつらぬく星ヶ丘ハイスクールの運営と接触する策を講じた。

 メールや運営への直通電話はほかのアンチとまぎれて気づいてもらえない。まず、相互フォロー状態にあるTwitterからダイレクトメッセージを送った。これも反応なし。めげずに業は夢叶乃亜の名前や関連ワードでさまざまなSNSから検索をかけた。

 それは、炎上で沸き立つぞうごんに自ら手を突っ込む行為だ。火傷やけどを負いつつも、運営のサブアカウントを見つけた。そこへDMを送ってみたところ、炎上から三ヶ月がってようやく反応があった。


│ 乃亜ちゃんはいつ復帰されるのでしょうか?│

            2021年11月3日 午後11:41

│ 活動再開は困難であると運営チームは判断しております。│

            2021年11月4日 午前0:03


 無情にも、運営スタッフから推しの死を宣告された。


│ そんな……。でも、せっかくソロライブも開いて、オリ曲も発表して、これからって時期じゃないですか。活動再開を待ち続けるファンもいるんですよ。俺みたいに! また夢を見させてください。乃亜ちゃんの【Ark!】最高でした。信じて待っています!│

            2021年11月4日 午前0:18

│ご期待に添えず、誠に申し訳ございません。

 活動再開につきまして当運営で綿密に話し合い、何度も議論を重ねましたが、経営的判断でやむなくプロジェクト中止を判断いたしました。

 謹んでおび申し上げます。

 ここからは公式の見解と切り離してお伝えしますが、我々もカルゴ様の熱量は感じており、これまでの多大なご声援に大変感謝しております。誠にありがとうございました。│

            2021年11月4日 午前2:55


 ──経営的判断。

 その言葉が、炎上から二ヶ月、すがりついていた業の信仰をどろどろに溶かした。

 運営は、炎上そのものを苦痛には感じていなかった。あるのは収益につながるかどうかの合理的判断。情熱とは無縁のビジネスライクな思想。──資本主義キャピタリズム

 以来、業はVTuber業界における火種を求め続けた。

 精神的なショックで髪は真っ白に染まり、散髪もせず、だらしなく伸ばしていた。

 業はよく方舟の夢を見る。夢叶乃亜の偶像が船首に付けられ、沈黙をつらぬきながらも沈没する夢だ。親には心療内科を勧められたが、業はあの日々を医療の力でかき消されたくなかった。その始末の付け方は、自分が自分でなくなるような気がした。

 業は日夜、VTuberの炎上ネタを集め、【燃えよ、ぶい!】でき上げる。

 そのばいえん狼煙のろしかもわからない黒々とした煙が、いつか女神に届くことを信じて──。

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