Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(1)

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 外では音すら立てず、小ぬか雨が降りしきっていた。

 ニュースによると翌週には梅雨前線がさらに北上し、関東でも本格的に、じっとりとした雨季の到来に拍車をかけるというのだ。

 まるで蒸し焼き。梅雨とは本来、そういった大気の嫌がらせにへきえきしたあと、明けたときの夏日陰を満喫するための期間ではないだろうか。祖国にも「転石こけむさず」という古いことわざがある。このことわざは正反対な二つの解釈ができる二律背反な言葉だが、そもそも苔とは対価であり、縁起のいものなのだ。

 つまり、このままじっとして〝配信を始めない〟という選択もありなのでは……。

 パソコンモニターの前で彫刻のように固まっていた少女は、しばしうなり声をあげながらそんな言い訳を考えていた。配信待機画面に表示されたイラストは、なんともこの雨季をいやらしく利用した二次元美少女によっていろどられている。

 どしゃぶりの雨に降られ、女子制服がむごたらしくれ、透けている。ランジェリーのりんかくが見えるかどうかのきわどさが、エロガキを釣るにはほどよいわくさを秘めていた。

 驚いたことにアンダーウェアを着ていない。

 この濡れ透け少女の魂である自分が同じ状況に陥ることはまずないだろう。

 そうやって待機画面に映された、いやらしいバーチャルの自分にツッコミを入れているうちに、配信を始めろという催促がプロデューサーから届いた。

 恐れおののき、あわてて開始ボタンを押す。

『みなさん、こんばんはっ……! かがみモアです。聞こえますか〜?』

 両腕にみののようなファーを掛け、はだけた胸元から谷間を強調したVTuberが画面にあらわれた。コンセプトはニュージーランドで絶滅した巨鳥。そのVTuberの頭部からは木のつるが伸び、その先端にがさのように〝鏡〟が備えつけられている。デザインしたママの話ではドリームキャッチャーからインスピレーションを得たそうだ。

 いったいどうしてカナダの民族装飾とニュージーランドの絶滅鳥を混合させようと思ったのだろう。地球の反対側という距離から、その鏡がモアを守ってくれるとも思えない。

 ○ざわ……ざわ……

 ○このまま始まらなくても眼福

 ○こんもあ!

 ○ベササノママのイラスト最高すぎん?

『聞こえる? よかった〜。では、はじめますね。モアラーのみなさん、こんばんは〜』まずは天気の話題を入れ込む。『……いやー、蒸し暑い夜が続いてますね〜。わたしの住んでるところだと、とくに湿気がひどくて、もうクーラー使っちゃってます』

 公園ではち合わせた老人同士の会話の鉄板だが、VTuberをはじめてからというもの、この会話術についてなんと老練な技だろうとひそかに敬服していた。

 ○おなじく。除湿機ないとしぬ。

 ○わかりみが深い

 ○エアコンのクリーニング早めにしといたほうがいいよ

 ○いまの時期クリーニングの予約混むよね

 ○やろうと思えば百均グッズで掃除できるが?

 鏡モアの【雑談! 初見さん歓迎/コメント拾うよ!】──の配信枠は、同時接続者数が百人前後のささやかなものだった。

 それゆえチャットの流れもおとなしい。鏡モア自身、けっしてじょうぜつとは言いがたい話しぶりで、リスナー同士が好き勝手に話題を展開することもままあった。

 モアはむしろ、博識なリスナーが現われ、意外な雑学を投げかけられるたび「ええっ」とか「おお」とか言えば配信が回るので、その登場を心待ちにしているまである。

 だが、その甘えは失態を招くこともあった。

 ○まぁ一番は除湿より冷房だけどな。除湿は電気代かかる

 ○弱冷房除湿なら電気代安いよ

 ○今北。なんの話?

 ○そういや今日はモアちゃんから告知があるとか?

『……あっ』モアはあせりを覚えた。『告知。そうでしたっ……実は、ありますっ!』

 いつもの癖で、天気ネタを冒頭に入れ込んでしまった。

 昼頃には自らTwitterで「今日の配信で告知がありますっ」と意気揚々にツイートしていたことを思い出す。──実のところ、こういった失態ポンは日増しに増え、それがモアのストレス源となる人物を憤慨させていた。一方で、このぽんこつぶりがあいきょうの一つとしてリスナーの欲をかきたてるのも事実である。

『……告知は……。えっと、うん……最後、にしようかな?』

 ○焦らずゆっくり話せばいいよ

 ○水分補給もしっかりね

 ○今日は何時までやるの?

『ありがとうございます! みなさん優しいんですね。──えと、あ、そうだった。今日は一時間枠の予定ですよ〜』

 ○こんもあ〜。サムネ盛りすぎじゃない?w

 ○一時間りょかーい

 ○終了予告できるのえらい

 今回の配信の理想的な流れはこうだった。配信のはじめに今日は一時間枠だと告げる。そして配信の最後に告知があると事前に言う。天気ネタに頼るのは、そのあとだ。

 鏡モアはまったく逆の順序を踏んでいた。

 それゆえ話題の流れがぷっつりと切れ、コメントも一気に静寂に陥ってしまう。

 眉間をんで仕切り直し、モアは秘策を展開することにした。

『そ、そうでした。今日の雑談では一週間分のマシュマロを消化しようと思いま〜す』

 言ってモアは画面左側にスクリーンショットの切り抜きを置く。

『えー、まずはこれ』表示されるピンクの枠。『〝モアちゃん、こんばんは。いつもお疲れ様です。ところで尊敬するVTuberさんはいますか?〟──ということですが質問ありがとうございますっ。えー、尊敬……尊敬する人は……そうですね。いました』

 ○クソマロかもん

 ○あ、俺のだ

 ○いました?

 ○過去形

『わたし、元々とあるVTuberさんに憧れてVTuberになろうと思ったんですよ。でも、引退しちゃって……。寂しいですけど、その方のおもいとか活動姿勢とか……いつかわたしが受け継いでいけたらなって思ってます』

 ○引退はしゃーないね

 ○推しの引退はきつい

 ○まさかつながり目的で始めたとかじゃないよね……?

『繋がり目的? い、いえいえ、そんなっ……。というかその方、女性VTuberですから。やましいことは全然……っ』鏡モアが首をぶんぶんと振り、バーチャルのガワも不自然なほど揺れる。

 ○えー誰だろ

 ○男かとおもった

 ○この際、異性の好みとか聞いてみたいかも

『異性の好み、ですか……』モアは言葉に詰まる。

 ふとあの日々がなつかしくなり、いまの自分が、思い描いた理想のVTuberからどんどんかけ離れているようななさを覚えていた。配信前には必ずといっていいほど後ろ暗い感情が湧き上がり、素直に『鏡モア』を受け入れられないのだ。

 この配信が終わればまた悪夢はやってくる──。

 モアはふと、配信でおかしなことを言わなかったかと不安が押し寄せた。

 無難な切り返しを考え、すぐさまそれを口にする。

『異性の好みは……まっすぐで、優しい人かな? あはは、普通すぎますかね』

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