Case.1 ‐方舟へみちびく女‐(3)

     3


 業はうなされながら、あの夜のことを思い出していた。

 スクリーン越しに舞台の端から端まで跳ねて舞う妖精。方舟へと導く幻想の天使。信望する仲間とともに、賛歌を歌う女神。これほど最高の夏は二度とない。

 ──はぁっ……はぁっ……。乃亜ちゃんが……。

 青に変わる信号。動き出す雑踏。切羽詰まった様子で息を切らす淡い絹糸の髪の少女。あの日の晩は、どうに苦しみながらどうやって帰ったのか。──ピコン。

「はっ──」

 スマホの通知音に気づいて目を覚ます。

 異様な喉の渇きを覚え、ごうはシンクに飛びついて水道水を喉に流し込んだ。部屋は夕暮れ時の西日で真っ赤に染まり、ここは本当に燃え盛る方舟なのかと錯覚した。

 落ち着きを取り戻した業はスマホの通知をのぞく。Discordへのフレンド申請だ。

 業は炎上ネタのタレコミ用に公開しているアカウントを持っていた。

 主に、ボイスチャットの用途で使われるDiscordというこのツールに連絡が来ることは珍しく、数少ないタレコミはほとんどTwitterのDMからだ。

 不思議に思った業だが、二回のタップですぐ承認ボタンを押した。

 即行で相手から音声通話がかかってくる。

「……」

 有無を言わさぬ相手の所作に、応答ボタンを押すかどうかを迷う。

 業のような弱小アフィリエイターにわざわざちょっかいを出す物好きは少ない。それでも取り扱うネタがネタだ。情報拡散に加担したことを恨む者もいる。

 炎上したVTuber本人か、はたまた信者か。

 相手は無地の黒いアイコンで名前も『海』の一文字。捨てあかだろう。しかし──。

「おれはあの夜に死んだ……」業はつぶやく。

 攻撃的な相手からの連絡はむしろ望むところ。それすら記事のネタになる。さらに大きな火種を油塊に注げる。

「はい」

 応答ボタンを押し、スマホを耳に当てた。

『──あっ……。カルゴさん……ですよね?』

 透き通ったれんな女の声。予想外の声に思わず固まる。その名は捨てた。

「どちらさま……?」

『わたし、かがみ──あ、違う』

 女の声にはあせりが混じっていた。配信者特有の雰囲気があり、声もはつらつとしていて聞き取りやすい。だが、間違いなく女は焦っている。かすかに乱れた吐息がその証拠だ。

 その息遣いにどこか既知感を覚えた。

『うん、と……。〝ミーナ〟で思い出してくれますか?』

「……」

 業はすぐに通話を切った。

 直後、また『海』から着信が来た。業はすぐ拒否ボタンを押す。またかかる。業はアカウントをブロックした。これで二度とかかってくることはない。

 あとで公開済みのIDも消し、このアカウントを手放そう。

 ミーナ──を推していたノア友の一人。ソロライブを共にした戦友……。だが、業にとってはもう戦友ではない。ノア友は全員裏切り者だ。

 ファンを名乗る連中が「一生応援してます!」「永遠の推し!」と口をそろえて吐き出すきょうせいは、ただの虚言だ。ごとだ。あきれるほどうわ性なリスナーたちの姿勢を、VTuber本人と同じくらい痛感した業はもう、彼らを信じられなくなっていた。

 それにしても、どうしてミーナがいまさら接触してきたのか。


 ──ピンポーン。ピンポン。ピンポンピンポンピンポン。


 続いて襲ってきたのは、悪夢のように鳴る部屋のチャイムだった。

 何事かと動揺した業は玄関の覗き穴から外を見やる。

 玄関の前には、あの少女が立っていた。丸眼鏡を掛け、キャスケット帽を頭に載せたじゃた姿。そこからプラチナブロンドの髪がこぼれ落ちている。ドアスコープに収められてもなお小顔で、美々しい容姿がまぶしいほどだ。

 その雰囲気は一年前のまま。間違いない、ミーナだ。

「なんであの女……おれんちまで特定してんだ……っ」

 たんの詰まった声で罵る業。名義も変えたのに、通話アプリのアカウントまで見つけてくるし、アパートまで特定しているとは……。業は炎上というセンシティブなネタを扱うだけあり、特定班の標的にされぬよう、身の振り方はわきまえてきた。

 それゆえ、この突撃戦を仕掛けられたことにはじくたる思いだ。

「ねえ! カルゴさん、いるんですよね? 出てきてくださいっ」

 そう言って力強くドアをたたかれる。ドンドンドン。平日の夕方、郊外のアパート付近には仕事帰りの会社員、買い物帰りの主婦、学校帰りの小学生の影も増えつつある。

「さっき通話の声もこの部屋から聞こえてきましたっ! お願いします、出てきてください! カルゴさん!」

 業は観念して扉を開けた。

「やめろ……! 静かにしろ。頼むから」

 ここで以前の名義を叫ばれても困る。

 都内某所で暮らす未来なき若者に対する世間の冷たさなど、業もよく知っている。

 どうせ彼らは無関心だ。だとしても、その名で呼ばれることがなによりつらい。

 玄関を挟んで対話。──のつもりだったが、ドアを開けた瞬間、少女は無遠慮に部屋へ押し入ってきた。

「お、おい……」

「はぁ……。よかった……。ありがとうございます、カルゴさん」

 ミーナはあいわらいを浮かべ、しれっと靴を脱いでゴミしきに上がり込んだ。足が蒸れているのか、玄関から続くキッチンには湿った足跡がくっきり刻まれた。

「ありがとうございます、じゃない。なんでおれのアパートを知っている?」

 業はそんなミーナをめつけて言う。

「去年ご実家へ行ったことがあるんですよ、わたし」ミーナは息を整えて振り向く。「お母様に聞きました。わたしを見て、うれしそうに教えてくれましたよ」

 業は手で顔を覆う。

 あの日、気が動転して卒倒した業に肩を貸したのは他の誰でもない、ミーナだ。そのまま実家に送ってくれたのである。

 そのときの容姿端麗な少女が、お先真っ暗な息子を訪ねて現われたら、親も気を悪くするはずがない。

「だったらさっきの通話は? なんだ、この〝海〟って」

「本名から取りました。がらす。ミは海って書きます」

 図らずもミーナ──海那の本名を知り、業は唖ぜんとした。海那がSNSでアイコンをカラスにする理由もこれではっきりした。みょうの小鴉。安直すぎる。

「違う。どうしてかけてきたって意味だ」業は威圧するように問う。

あらカザン」

「うっ……」業はうなった。

 その名が【燃えよ、ぶい!】を執筆する業の活動名義だ。

 海那は顔のこわばりを解いて言う。「……カルゴさん、わかりやすいです。アララトってノアの方舟はこぶね辿たどり着いた山ですよね? 執筆開始時期も乃亜ちゃんが引退したあとだし、幻の【Ark!】もあったから、察しのいい人は気づきますって」海那はしみじみ言う。

 業は開き直り、かつての戦友を罵るように言う。

「バレたっていいさ。乃亜推しカルゴの後日たんに誰も興味なんかねぇよ」

「わたしは……興味ありましたけど……」

 小恥ずかしそうに頬を赤らめる海那。そんな態度で、心を開くとでも思っているのか。業がどれほど苦痛を味わい、醜態をさらしてきたか。

「それに、わたしだけじゃなくて気にしていた人はたくさんいたと思いますよ」

うそはもうたくさんだっ!」業が声を荒げる。「おれがDiscordでいくら呼びかけても、誰一人反応しなかったじゃないか。俺のことを気にしていたんなら──」

 業の悪態に、海那も眉をり上げた。

「……あのですねぇ、みんなもショックだったんですよっ……」

「っ……」業は思わぬ反撃に息をんだ。

「推しにあんな姿見せられてっ、炎上をの当たりにしてっ、どうやって立ち直ったらいいかわからなくてっ……苦しんでいたんですよっ……!」

 海那も半ば涙目になって訴えた。

「逆に、カルゴさんこそなんなんですか!」海那は語気を強める。「推しが炎上して苦しいってときに、ファン同士で交流なんてしていられると思いますかっ! どんな気持ちで参加すればいいんですかっ!」

 業は意表を突かれた。指摘されて初めて、そのファン心理に気づく。自分自身が周囲も認めるトップオタだったこともあり、余計に業は虚を突かれた。

 海那は悲しげな表情を浮かべ、震える声で言った。

「カルゴさんは……本当に乃亜ちゃんを推していたんですか……?」

 追い打ちをかけるその言葉が業の胸をえぐる。推していたのか? 本当に。

 カルゴは推しの醜態を見ても傷つくどころかさらに応援を加速させた。当時は信仰の強さゆえと解釈したが、普通ならそこで落ち込んでしかるべきだ。推しの醜態を見せられ、落ち込み、向き合えなくなる。これがファンだ。だったらかる業は──。

「……」

 海那の追及をしゃくしきれず、業は言葉を詰まらせる。

 むなしく時間だけが過ぎた。まだ、彼女が現われた目的を聞いていない。けれど、その前にはもう、心にできた穴が、穴だったかどうかすらわからなくなるほど掘り返された。

「……すみません」海那はつぶやく。「けんしに来たわけじゃないんです」

 しょうぜんと立ち尽くす業を見て、海那は後悔していた。本当は、自分のほうが誰かの支えなしでは、立っていることすらやっとだというのに。

 一方の業は、海那を追い返す気力もなくなり、「ああ」とあえぐばかりだ。

「カルゴさん──いえ、荒羅斗カザンさんに、わたしを炎上させてほしいんです……」

 海那はあらたまって業の目をじっと見て言った。その瞳はあの日のように、小刻みに震えていた。

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