第一話 ギルド・バ・ボダサエダ(ギルドを追放された)(4)
いくら待っても、殴られる衝撃が来ない。
え――? と薄目を開けたレジーナは、次の瞬間、驚愕に目を見開いた。
「なによ、これ――?」
目の前にあったのは、光り輝く幾何学模様の魔法陣。
不思議な色に発光した障壁魔法がレジーナの目の前にあり――自分の鼻を潰すはずだっただろうヴァロンの拳を、真正面から受け止めていた。
目の前の光景に驚愕したのは、ヴァロンも同じだったらしい。
「な――!?」
突然現れたこの防御障壁は一体誰のものなのか――。ヴァロンが流石はSランク冒険者の勘で辺りに素早く視線を走らせた、その時だった。
「おい、とうもろこしのカス頭」
低く、ドスの利いた声――その声が一体どこから発せられたものか、一瞬レジーナは測りかねた。
その声に気圧されたように、拳から鮮血を滴らせながら、ヴァロンはよたよたと後退った。
「女さ手ば上げるよんたクズ、アオモリだばどご探してもいねど。お前、自分がなにやってらがわかっているのか?」
「な、何を――!?」
言っていることはわからないが、とにかく馬鹿にされていることはわかったらしい。ますます赤黒く変色した顔でヴァロンが喚いた。
「んだよコラァ! 障壁なんていつ出した!? お前か! お前が――やったのか!!」
「だったら何だ」
「ふざけやがってェ! いっ、一体何の手品だァ――!?」
今度はオーリンに矛先を向けたヴァロンが思い切り拳を振りかぶった。
うわ! とレジーナが悲鳴を上げる直前、再び雷鳴のような声が響き渡った。
「【
その瞬間、オーリンの目の前に再び光り輝く防御障壁が現れ、ヴァロンの拳を真正面から受け止めた。ゴリ……! と身の毛もよだつ音がヴァロンの拳から発し、うぎゃあっとヴァロンが耳障りな悲鳴を上げた。
「な――なんだお前は!? いっ、いつ詠唱した!? この防御障壁はどっから出してるんだよ!?」
砕けた右手をかばいながら、血相変えてヴァロンが喚く。
それを見ながら、レジーナはぽかんとオーリンの背中を見ていた。
一体この人は今何をしたの、何を――!?
通常、ある魔法を発動するにはある程度の長い詠唱が必要で、即時展開は不可能だ。それ故、その詠唱をする時間を稼ぐのがパーティの他のメンバー――戦士や剣士の役割である。攻撃は強力だが即応性を持たない魔導師は、戦闘中でも攻撃の届かない後方に控えているのが一般的な常識だ。
だが、今の障壁は間違いなくオーリンが出したもの――。
それは間違いないのに、オーリンが詠唱をした形跡はない。
なにか一言――わけのわからない言葉を呟いているだけだ。
「ふざけやがってふざけやがってふざけやがってェ! 俺をキレさせたらどういうことになるか教えてやらァッ!」
もはや冒険者でもなんでもない、ゴロツキそのものの声を張り上げて、ヴァロンは腰に帯びた剣を抜き放つ。
途端に、その剣がぼうっと発光したかと思うと、凄まじい高熱を発して燃え始めた。
王都内で魔法剣を抜くなんて――! レジーナは正気を疑う声でヴァロンに向かって叫んだ。
「ちょ、ちょっとヴァロン! 何考えてるのよ! ギルドメンバー同士の喧嘩は御法度で――!」
「やかましいぞ腐れ女! 殺す! お前は絶対にブチ殺す、覚悟しろよ田舎者がァ――!」
「うるさいな――【
オーリンが呟いた瞬間、ドバッという音とともに、ヴァロンが構えた魔法剣から水が滴り、じゅう、という音を立てて火が鎮火した。
今度こそぎょっと目を見開いたヴァロンは口をあんぐりと開け、オーリンの顔と剣の両方に視線を往復させた。
「な――!?」
「どうしたSランク。俺を斬るんでねぇのか」
「あ――う――!」
激しく狼狽したヴァロンは、終始何が起こっているのかわかりかねているようだった。さっきまでの威勢はどこへやら、まるで怪物に出くわしたかのように色をなくした顔で呻き声を上げるだけだ。
「こ、この――! 俺をコケにすんのも大概に――!」
「【
その瞬間だった。まるで手品のように、ヴァロンの手から魔法剣が消えた。あっ、と声を上げたレジーナと違い、ヴァロンは一瞬、そのことに気がつかなかったらしい。一歩踏み込もうとして手の中にあるべき重さが消えていることに気づいたヴァロンが、何もない己の両手を見て声なき悲鳴を上げた。
「ほほう、悪ぐねぇな。これだば良ぐ斬れるだろう――」
オーリンは手の中に握られた魔法剣をしげしげと眺めて感嘆した。無論――その光景を目の当たりにしたヴァロンは、あ! と短く悲鳴を上げ、細かく震え始めた。
それを見ながら――。
レジーナは今日の朝に聞いたマティルダの言葉を思い出していた。
『オーリンには悪いことをしてしまったわ。本当なら彼の能力を活かせる場がこのギルドにあればよかったのだけれど――』
あのマティルダの言葉は一体、どういう意味だったのか。
あの言葉は、このイーストウィンドでは彼の力を持て余してしまうことになると、まさかそういう意味ではなかったのか。
オーリンにそれだけの実力があるなら。
オーリンが魔法を出す際に一言呟いている、あれが魔法の詠唱だとするなら。
導き出される結論は、畢竟、ひとつしかない。
レジーナは呆然と呟いた。
「無詠唱、魔法――?」
もし、オーリンの扱う魔法が、伝説に名高いあの無詠唱魔法だとするならば。
歴史にその名を残す大魔導師たちだけが扱えるというあの無詠唱魔法に、ごく近似するものであるとするならば――。
のしっ、と、オーリンは一歩、ヴァロンに近寄った。
ヴァロンは恐れをなしたように一歩退き、二歩退き、そして必死の笑みを浮かべた。
「お、おい、冗談だろ? お――俺になにしようってんだよ……!?」
ヴァロンは一歩、また一歩と下がりながら引きつった愛想笑いを浮かべた。
オーリンは無言で、もう一歩歩を進める。
「な、なぁおい、わ、悪かったよ――謝るよ。だ、だから、おい! こっち来るな――!」
「先に乱暴なごとしたのはお前でねぇのが。こんなもの振り回し腐って、いい気なって――殴られるのも覚悟の上だべ?」
無造作に魔法剣を傍らに投げ捨て、オーリンが一歩踏み出した。
ひぃ、とヴァロンは泣きそうな声で呻いた。
「謝るのなら俺じゃない。お前が殴ったこいつに詫びろ。二度とこんなことをしません、許してくださいと言え」
すごい、【通訳】のスキルを以てしても半分何を言ってるのかわからない――!
レジーナが少し興奮している横で、ヴァロンがぽかんとした顔を浮かべてオーリンを見た。
「早くしろ」
その言葉の冷たさに、遂にヴァロンは短く悲鳴を上げた。そのままとりあえずというように地面に這いつくばり、ヴァロンは目の前の恐怖から逃れるように額を地面に擦り付けた。
「わっ、わかった! 謝る! 二度とこんなことはしねェよ! だ、だから、頼む、見逃してくれッ! ど、どうか、どうかお願いします――!」
仮にもSランク冒険者、仮にもあの素行の悪さで知られたヴァロンが、ガタガタと震えながら無様に背中を丸め、額を擦りつけて命乞い――。
この光景を見ている者がいたら大騒ぎになるに違いない土下座劇を睥睨しながら、オーリンはぱっとレジーナを見た。
「どうだ?」
「へ?」
「こいでいいが?」
「は、はぁ――まぁ、正直許せませんけど――」
「それならもう少しいじめるか?」
「あっ、いいです! もうそれでいいです! もう勘弁してやってください!」
本気でやりかねない表情のオーリンに言うと、オーリンの表情が緩んだ。
そのままヴァロンに背を向け、レジーナに向かって手を伸ばした。
「立つべし」
「は、はい、あの――」
「なんだ?」
「あ、あの、今の先輩の魔法、あれは一体――?」
「え? 何が?」
オーリンはキョトンとした顔でレジーナを見た。
えっ? とレジーナもオーリンの顔を見つめた。
「何がおがすぃが? 俺の魔法」
「えっ、ええ――? 気づいてないんですか?」
「何喋ってらんだお前、あれは単なる魔法だべ。魔導師なら使えて当たり前だべ。なもおがすぐねぇべ」
「だっ、だって! さっきの全然詠唱してないし! おかしいですよ! そんな魔法使える人間が一体この世界に何人いると思って――!」
そこまで言った瞬間だった。ゴウッ――! と、まるで花火が打ち上がったかのように、赤黒い光がレジーナたちの背後から発して周囲を照らした。
びりびりと肌を震わすほどの物凄い魔力の噴出を感じて、レジーナははっと目を見開いた。
「こッ……この野郎がァ――――!!」
レジーナが背後を振り返ったのと、半ば正気を失った絶叫とともにヴァロンが魔法剣を振り抜いたのは、ほぼ同時のことだった。禍々しいまでの魔力が込められた魔法の斬撃が、じゅう、と大気を焦がすような音を立てたかと思うと――凄まじい速度で土塊を巻き上げながらオーリンに迫ってくる。
レジーナが悲鳴を上げた瞬間だった。
ふーっと、オーリンが呆れたように長く細いため息をつき、右手をさっと前に差し出した。
「【
オーリンがそう鋭く令した瞬間だった。ヒュン――と、矢が風を切るような音とともに、巨大な魔法陣が眼前に展開したかと思った瞬間、その障壁にヴァロンの剣撃が激突した。
瞬間、太陽の光さえ圧するような白い閃光がレジーナの視界を白一色に染め上げ、途端に耳を聾する轟音と衝撃が臓腑を揺さぶった。
思わず目を閉じて耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んで、自分の耳にさえ届かない悲鳴を上げた後は――何がなんだかわからなくなった。
どれだけそうしていただろう。
ふと――目を開けたレジーナの目に飛び込んできたのは――まるで影そのものになって目の前に立つオーリンの背中だった。
「え――?」
それから、レジーナは周りの風景を呆然と見渡した。
王都の外れの田舎道は、惨たらしく黒土をめくりあげ、広範囲にわたって抉り取られていた。
だが、その破壊の衝撃をオーリンが盾になって受け止めたように、オーリンと、その背後でへたり込んでいる自分の周辺の地面だけが――まるで切り取られたかのように無事に残されていた。
何が起こったの、何が――。
もう何度目かもわからない疑問が頭に立ち上った時。
オーリンが肩越しにレジーナを振り返って、静かに言った。
「無事だな?」
その言葉の平和さに思わず頷くと、あ、あ……! という怯えた声がレジーナの耳に聞こえてきた。
「な、なんなんだよ、お、まえ……!?」
ヴァロンは、バケモノを見るような目つきでオーリンを見ていた。
まさか受け止められるとは思っていなかったのだろう一撃を呆気なく防がれたことで完全に戦意を喪失したらしいヴァロンは、魔法剣を取り落とさんばかりに狼狽えた。
「【
そうオーリンが短く言った途端、じゅう、という音が発し、ヴァロンの構えていた魔法剣が先端の方から変色し、見る間に赤黒く溶け出した。
「お、俺の剣が――!」
今度こそヴァロンが甲高い悲鳴を上げ、煙を上げて地面に滴った魔法剣の柄を毒虫の如くに手から払い落とした。
ゆら――と、そのさまを見ていたオーリンが、低い声で言った。