一章(3)
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午後の授業、もとい、パワハラが終わって放課後となった。
どれだけ学校のことが嫌いでも、どれだけ学校に不満を抱えていても、感情をぶつける先がどこにもない。今日も今日とて、僕は課題の催促から逃れるために屋上を訪れていた。
屋上では相変わらず、死ぬ勇気のない僕には越えられない鉄格子が並んでいた。
入り口横の壁を背に腰を下ろして、ポケットからタバコを取り出す。どれだけ憧れようが、どれだけ女々しいと言われようが、結局のところ僕にできるのはこれくらいなのだ。
定位置でタバコを咥える。火をつけながら、昨日の刺激的な出会いを思い出してみる。
あの女子生徒は、今の僕を見たらなんて言うだろうか。「また性懲りもなくタバコを吸ってるんですか」と言うだろうか。あの意地悪な笑みを浮かべながら。
まあ、もう話すこともないだろうし考えるだけ無駄か。
煙を吐く。指先でトントンと筒を叩いて、先端部の灰を落とす。
再びタバコを咥えたところで、キィと、隣で扉が開く金属音がした。
反射的に身を隠そうとしたが、その必要はないとすぐに気づく。
噂をすればなんとやら。現れたのは、例の女子生徒だった。
僕の想像とは違って、彼女は会釈をしながらこう言った。
「どうも、先輩。お昼ぶりですね」
「……二度と来ないんじゃなかったのか?」
「気分が……いや、状況が変わったんですよ」
女子生徒はそれ以上の説明をせず、ゆっくりとした足取りで僕の横にあるフェンスの前へと向かった。昨日と同じように網目を掴んで、外界に憧れる囚人のような顔つきで遠くのほうを眺める。また、学校が嫌になって逃げてきたんだろうか。
彼女は僕がいるとわかっていながらここに来たはずだ。
ならば、話しかけたとしても怒られたり気持ち悪がられたりはしないだろう。
僕はタバコを口から離して、軽い世間話としてこう聞いてみた。
「そういや、君、昨日持ってた退学届は書いたのか?」
「ああ、はい。あのあと書きましたよ。ほら」
女子生徒は再び僕に退学届を見せてきた。
昨日は空欄だった生徒氏名のところに「
星宮胡桃。この子はそんな名前だったのか。まったくもって意味のない思考だが、退学届から名前を知る経験をしたことがあるのは僕だけだろうな、なんて思った。
「さっき状況が変わったって言ったけど、退学に関してじゃないのか?」
「んー……まあ、そうとも言えますし、そうじゃないとも言えますね」
なんだその曖昧な表現は。気になるけど……こういうのはデリケートな話だ。踏み込んで聞くのはやめたほうがいいか。話したければ彼女のほうから話すだろうし。
「そうか」
それだけ返し、僕は沈黙が気まずくならないようタバコを口に運んだ。
目を閉じ、熱を感じ、ふぅっと煙をふかす。
先端部の灰を落としたところで、星宮胡桃にじっと見つめられていることに気がついた。
なにか言いたげな視線。ちょうど、学食で会ったときと同じような感じだ。
「僕の顔になんかついてるか?」
「ベタなこと言わないでください。気持ち悪いです」
「……ごめん。じゃあ、なんだよ。なんでこっち見てくるんだ」
そう聞くと、星宮胡桃は別れ話を切り出す彼女みたいに、意を決した感じで口を開いた。
「先輩。私からも質問があります。先輩って、いつもあんな感じなんですか」
「あんな感じって、どういうことだ?」
「学食にいたときの話ですよ。上位クラスの生徒と下位クラスの生徒が揉めているのを見たとき、めっちゃ不機嫌になっていたじゃないですか」
やっぱりあのときの独り言、聞かれていたのか。
「先輩はこの学校の不条理に触れるたびに、ああやって怒っているんですか」
「んー……あんまり意識したことなかったけど、そうかもな」
「そんな生き方していて、疲れないんですか」
星宮胡桃の声色には「やめたほうがいい」というニュアンスは含まれていなかった。純粋に疲れたりしないのか気になって聞いているようだった。
誰かにこんなことを聞かれたのは初めてだ。でも、僕の中で答えは決まっていた。
「疲れるよ。でも、仕方ないんだ。そこに関してはもう諦めてる」
星宮胡桃が疑問を全面に出したような表情をしていたので、僕は少しだけ口を滑らせてみることにした。この子には話してもいいと思ったというのもある。
「あんまり理解されないんだけど、僕は昔から繊細なんだよ」
「繊細ってどういうことです?」
「叱られているクラスメイトと同じ空間にいるのが嫌だった。駅のホームで知らない誰かと誰かが喧嘩しているのを見るのですら嫌に思っていた。怖かった」
この繊細さはたぶん家庭事情に原因があるのだが、まあ、それは話さなくていいか。
「僕は──他のみんなは知らないが僕は、この学校の圧迫感に耐えられない。毎日のように誰かが怒鳴られていて、常に上位クラスの生徒が幅を利かせているこの学校の雰囲気が、どうしても合わない。他の生徒たちのように、心を殺すことができないんだ」
そもそも、他の生徒と違って僕は勉強に対してコンプレックスを抱えていない。
勉強は人並みにできればいいと思っている。
それなりに勉強して、それなりの大学に進学して、それなりの企業に就職する。
誰にも文句を言われない正しい人生って、そういうものだと思うから。
だから、貶しや罵倒や蹴落としばかりのこの学校の校風についていけない。
言うならば、入学してから一年以上経った今も、僕は洗脳されていないのだ。
勉強が人間性を計るためのものだと思えない。
勉強がすべてである。成績が悪い者には生きる価値がないと、どうしても思えない。
「繊細だから、流せないんだ。いつもああいう場面では無性に腹が立っている」
「一年のころからずっとですか」
「ん。まあ、そうなるな。これから先も、きっとこのままだろ」
星宮胡桃は僕の目を見ながら、ずっと真剣に話を聞いてくれていた。
その態度に甘えて、少し語りすぎてしまった。なんか恥ずかしくなってきた。
星宮胡桃から目を逸らして、気を紛らわせるため筒を咥える。
つまらない僕の身の上話をしたので、返事など微塵も期待していなかったのだが、
「……先輩」
タバコ三呼吸ぶんの沈黙のあと、星宮胡桃からこんな言葉が返ってきたので驚いた。
「もし、先輩のそんな気持ちを解消できるとしたら、どうしますか」
「……どういう意味だ?」
そう聞き返すと、星宮胡桃は何度か口を開閉させた。
でも結局、僕の問いには答えず、代わりにこんな話を始めた。
「私、この学校でやり残したことがあるんです」
急になにを。退学する前にやっておきたいことがある、という意味だろうか。
「なんだよ。青春とかならこの学校に期待しないほうがいいぞ。うちは男女交際禁止だ」
「…………。ええ、知ってますよ」
こちらを見ている彼女の顔には「茶化さないでください」と書いてあるようだった。
僕は肩を竦めて、冗談だという意を示す。
「悪かった。ちゃんと聞くから言ってみなよ」
星宮胡桃は呆れたように嘆息してから、僕の目を見てはっきりと答える。
「私がやり残したことは、復讐です」
その一言を聞いて、僕は一瞬、息が浅くなった。
星宮胡桃の言葉が、抜き身の刀のような鋭さで胸奥に入り込んできた気がしたのだ。
「……復讐って、あの復讐か?」
「はい。勉強の復習じゃないです。やり返すという意味の復讐です」
「いや。いやいやいや。ちょっと待てよ。物騒すぎるだろ。誰になにをする気だよ」
「復讐の相手は、この学校の教師ども。それから、この学校の法律とやらに従っている人間全員です。具体的になにをするかは、まだ決めていません」
さっきの僕と違って、星宮胡桃は冗談を言っているわけではなさそうだった。
なにをするかは決めていない、なんて言うわりに本気ではあるらしい。彼女は自分の拳を見つめながら、胸の奥に秘めていたのであろう後ろ暗い本音を語り始める。
「この学校に入学して、教師にたくさん暴言を吐かれて、人間じゃないみたいな扱いを受け続けて、それで心が耐えきれなくなって、私は自主退学を決めました」
「……うん」
「でも思ったんです。これって敗北宣言と同じだって。悪いのは暴言を吐く教師どもなのに、おかしな差別法なのに、なんで私が逃げなくちゃいけないんだろうって思いました」
意思の籠もった瞳が、夕暮れをバックにゆらりとこちらへと向き直る。
「悔しい。私が逃げ出して、原因の教師どもがのうのうと生きているのが許せない。だから私は、この学校に復讐がしたい。どうしても爪痕を残したいんです」
「…………」
「この学校で苦しんでいる人がいたって知らしめてから、学校をやめたいんです」
星宮胡桃と僕の間に、風が吹く。
なんとなく、彼女の声色には意志が乗り遅れているような気がした。
爪痕を残したい。苦しんでいる人がいたって知らしめてから、学校をやめたい。
嘘だ。
爪痕を残す。苦しんでいる人がいたって知らしめてから、学校をやめる。
そう言っているようにしか聞こえない。
放っておけばすぐに事件でも起こしそうだ。星宮胡桃の纏う雰囲気は、赤の他人であるはずの僕を不安な気持ちにさせるほどにシリアスで重厚なものだった。
なにか言ったほうがいいのだろうか。僕がここで彼女を止めたほうがいいのだろうか。
迷った末に僕は、ぱっと頭に浮かんだ言葉を口にした。
「教師に暴言を吐かれていたとしても、上位クラスの生徒に馬鹿にされ続けていたとしても、それは成績が悪い僕らに落ち度があるとも言えるだろ」
「まあ、それはそうですね」
「この学校に入学するって決めたのだって自分だろ。それなのに復讐するのか?」
「ええ、しますよ」
星宮胡桃は静かに頷く。
「どれだけ成績が悪くても暴言を吐いていい理由にはならないです。高校の選択だって、きちんと学校説明会のときに『我が校は暴言と差別による教育を徹底しております』と説明されていれば、こんなところに入学なんてしませんでした。学校側が悪いです」
「たしかにそうだけど……」
「そもそもの話、私が気に食わないから復讐をする、それで十分じゃないですか。正当性なんてものはミンチにして犬にでも食わせておけばいいんですよ」
そう言われてしまうと、僕は黙るしかない。
「私がやりたいのは真っ当な反抗ではありません。私怨と偏った正義による報復です」
星宮胡桃は、意地悪く口角を吊り上げる。
「思ってもないようなこと言わないでくださいよ。先輩だってこの学校が嫌いなくせに」
「……すまん」
無理だ。お手上げだ。僕には止められない。
復讐、私怨、偏った正義。聞こえてくる単語がどれだけ不穏でも、なにも言えない。だって、真っ当な反抗は他でもない僕がやって、失敗しているから。
「私はこの学校を変えたいんですよ。私と同じような人間が二度と現れないように──」
「…………」
「先輩みたいな人がもう二度と現れないようにしてから、学校をやめたいんです」
星宮胡桃が語っているのは、途方もない夢物語だ。
ちっぽけな存在である僕らがどれだけ行動したって、自己を犠牲にしたって無駄だ。
人は変わらない。世界は変えられない。
……わかっていた。わかっているつもりではあった。
でも、それでも。一瞬だけ、彼女と一緒になって考えてしまった。
課題に追われて成績が伸びず。
成績が伸びない理由を甘えだと罵られ。
教師からの暴言と圧迫感のある日常に神経をすり減らし。
現状を変えようとして立ち上がったものの、状況が悪化する。
挙げ句、ストレスの発散のためにタバコをふかすようになる。
そんなゴミみたいな存在が生まれなくなるのは、きっと幸せなことなんだろう。
思わず、呟いてしまった。
「……もしこの学校が変わるのなら、それはいいことだろうな」
無責任なことを口にしている自覚はあった。それでもこんなセリフを言ってしまったのは、僕が星宮胡桃に憧れてしまったからだ。
本当に僕みたいな人間を生み出さないようにしてくれるんじゃないか、と。
言い換えるのであれば、僕のことを変えてくれるんじゃないか、と。
そう、期待してしまった。
僕は大人じゃなかった。まだ青かったのだ。
先の発言に責任など微塵もなかった。
だから、星宮胡桃にこう言われて、さっと血の気が引いた。他人事だと思っていた現実が突然自分のものになって、急速に脳が冷えていくような感覚がした。
「そう思うなら手伝ってくれませんか」
「……は?」
「私の復讐を、手伝ってください」
顔を上げる。日没前の最後の輝きを放つ太陽を背に、星宮胡桃が微笑んでいた。
「ちょうど、共犯者がほしかったんですよ。今日は、そのお話をしに来たんです」
「え、いや、待ってくれ。共犯者って」
「真っ当な方法で反抗したというお話を聞いたときから気になっていたんですが、今日の学食での不機嫌さを見て確信しました。あなたならちょうどいいです。この学校のことが嫌いで、なおかつ自力で反抗するだけの行動力がある。いい。とってもいいですね。私の求めていた人材にぴったりです」
「だからちょっと待てって! なに言ってるんだよ。やめてくれ」
ぐいぐいと詰め寄ってくる星宮胡桃を、両手を突き出す形で制止する。
そんな僕に対し、星宮胡桃は唇を尖らせながら「ふむ」と思案するそぶりを見せた。
しばらく固まっていたが、急にポンと手を打って、
「あっ、そうだ。ちょっと待ってください。いいもの見せてあげます」
そう言って、星宮胡桃は自分の後頭部に両手を回す。真っ黒な髪の中に手を入れて、そのままの姿勢で、なにかを弄るようにもぞもぞと指を動かし始めた。
「……なにをしてるんだ?」
「ふふっ。見てればわかりますよ」
しばらくすると、星宮胡桃の髪からなにかが落ちてきた。床でカランと、金属のような音がする。見るとそれはヘアピンだった。髪の中から細いヘアピンが何本か落ちてきた。
「前回の反抗は方法が悪かったんですよ。大丈夫です。今回は私が導いてあげますから」
カランカランとピンが落ちるたび、星宮胡桃の顔が不敵な笑みに染まっていく。
「だから──大丈夫。大丈夫です。本能に従って頷いてくださいよ、先輩」
仕上げと言わんばかりに、星宮胡桃は両手で後ろ髪をかきあげた。
舞い上がった髪が重力に引かれて、ふわりと落ちる。星宮胡桃が首を左右に振ると、乱れていた髪はほぐれ、緩やかなウェーブを描きながら自然な形へと戻っていった。
そこで初めて、僕は目の前で繰り広げられていたこの一連の動作の正体を知る。
「君、それ……」
さっきまで真っ黒だったボブカットの内側が、白く輝いている。
これは、アッシュグレーのインナーカラーだ。星宮胡桃は髪の内側を染めていた。どうやら今までは、染めてある部分だけをヘアピンで後頭部にまとめて、隠していたらしい。
「どうです? 驚きました?」
意地悪く笑う星宮胡桃を見ていたら、語られずともこの髪色の意味がわかってしまった。
なるほど。そういうことか。校則が厳しいこの高校で、こっそり髪を染めている。
これは僕で言うところのタバコだ。彼女の反抗の象徴なんだ。
「先輩。もう一度言います。私、先輩のことが欲しくなってしまいました」
本来の姿となった星宮胡桃が、座っている僕に手を差し伸べる。
「一緒にこの学校を変える義賊になりませんか」
「学校を変える……義賊……」
ああ、痛い。痛々しい。例えるなら、いつまでもモラトリアムを抜けられない大人みたいな。星宮胡桃が発したのは、そんな等身大以下の痛々しさがあるセリフだ。
……でも、それは、青い僕にはこれ以上ないくらいに魅惑的な落とし文句だった。星宮胡桃の誘いは、僕に世界を変えられると錯覚させるほどの説得力と非現実感で満ちていた。
ごくりと、口に溜まっていた唾液を飲み込む。
変えられるかもしれない。
成績が悪いというだけで生徒の人格を否定する教師どもを、学力だけでヒエラルキーができるような気持ち悪いこの学校を、めちゃくちゃにできるかもしれない。
鬱憤を晴らせるかもしれない。どれだけがんばってもタバコの煙と一緒に吐き出せなかった恨みを、辛みを、すべてぶちまけることができるかもしれない。
あの教師にも、復讐ができるかもしれない。
「ほら、先輩」
星宮胡桃が催促するように右手を強く突き出してくる。
可能性が頭を巡る。鼓動が速まる。世界が極彩色に染まっていくような感覚がする。
僕は、星宮胡桃の右手に手を伸ばして──指先同士が触れる直前で、引いた。
「……無理だよ。復讐するような度胸がないから、僕はここでタバコをふかしているんだ」
「あら、そうですか。それは残念です」
星宮胡桃は食い下がることなく、あっさり肩を竦めて身を引いた。
僕のスカウトなんて端から本気じゃなかったのかもしれない。少し、残念に思った。
まあ、なんでもいい。僕の回答は正解のはずだ。
西豪高校というクソみたいな進学校と、ここで働いているクソ教師どもに恨みはある。
でも僕は、生きていく上で極力、間違ったことはしたくないんだ。
星宮胡桃の語る復讐なんていう行為は、間違いなく間違ったことだ。うまくいく気はまるでしないし、仮にうまくいったとしてもその先に幸せがあるとは思えない。大掛かりな復讐を実行すれば問題になるだろうし、いつか絶対に後悔する。
そりゃあ、現状の僕はこのクソ高校のせいで数多の間違いを犯しているし、それならもういっそと思って、未成年喫煙という法に背いた行為にも手を出してしまっている。
でも、復讐なんていう大きな間違いにまで足を踏み入れるような勇気はないのだ。言うならば、心が怒りに震えていても、こっそりタバコを吸う『程度』に収まっている。
僕はそんな中途半端な人間なんだよ。
「……はぁ。悲しいなぁ。とっても残念です」
星宮胡桃の口元から、露骨なため息が漏れ出る。
「あーあ、先輩を仲間に引き入れたかったのになぁ……」
「ごめんね。君の提案は魅力的だけど、ちょっと現実味に欠けるんだ」
「そうですか。とーっても残念です。この写真が出回ることになるなんて……」
「……写真?」
「はい。これ見てください。えへへ。よく撮れているでしょう?」
星宮胡桃が見せてきたスマホには、僕の写真が表示されていた。
……タバコを片手に口から煙を吐いている僕が、そこには写っていた。
「い、いつの間にっ……!?」
「先輩がタバコをふかしながら自分語りしているときに、ちょちょいと。てへ」
舌を出してウインクをする星宮胡桃。顔はかわいいがやっていることはかわいくない!
「なんでそんなもん撮ってるんだよ! おい頼む! 消してくれ!!」
「えー? 嫌でぇーす。消してあげませーん」
スマホを奪おうと飛びかかる僕の手を、星宮胡桃はひらりと身を翻して避ける。
それからまたあの意地の悪い笑みになって、
「ねえ、先輩? この写真が教師たちの手に渡ったらどうなるんでしょうね? 停学だの退学だのは当然あるとして、先輩はいったいどんな暴言を吐かれるんでしょう?」
「その写真、学校に提出するつもりかよ!? ふざけんなやめろ!!」
「ふふっ。教師たちに集団で人格を否定されて、心がズタズタになって。そしたら先輩は学校のことがもっと嫌いになって、復讐したくなりますよね。私と一緒にっ」
罪悪感など微塵も抱いていないような満面の笑み。悪魔だ。悪魔がいる。
喫煙していたことが教師にバレるのは厄介だが、僕としては教師経由で親に連絡がいくほうが面倒だった。あの父親は、僕の喫煙を知ってどう思うんだろうか。僕に対してなにか言うのだろうか。言うとしたらどんな表情でどんなことを言うのだろうか。
わからない。わからないのが、どうしようもなく怖かった。
少なくとも、喫煙した僕を庇ってくれるような父親ではないよな。それだけは確かだ。
ああもう、面倒なことになった。やっぱり間違ったことはするべきじゃないんだよ。
とにかく写真を消してもらわなければ。そう思って、打開策や折衷案がないかと必死に考えを巡らせてみはしたが、特になにも思いつかなかった。僕も髪にインナーカラーが入っている今の星宮胡桃の姿を写真に収めて脅すか? ……いや、喫煙写真に比べたら脅しの効果が薄そうだ。っていうか、脅してもこいつどうせ学校やめるしな。やるだけ無駄か。
結局、僕は恐怖に負けた。両手を挙げて星宮胡桃に降参の意を示す。
「望みを聞いてやるから、写真をばらまくのだけはやめてくれ」
「えー? なにかお願い事を聞いてくれるんですかー? うーん、困りましたねぇ。私の望みなんて先輩が仲間になってくれること以外にないんですけど……」
こいつ、わざとらしく悩むふりなんかしやがって。
「……わかったよ。しばらくは君の言うとおりにする」
「『君』じゃなくて、胡桃です、私の名前。ちゃんと胡桃様って呼んでくださいね」
「……はい。胡桃様の言うとおりにします」
「ぷっ、あははっ! ほんとに言った! 冗談ですって。キモいので胡桃でいいですよ」
胡桃が腹を抱えて笑っている。こいつ、相当性格が捻くれているらしい。
いやまあ、復讐なんて考える人間がまともなわけないか。
「あー、おっかしい。おもしろい人ですねぇ、まったくぅ」
「……そりゃどうも」
「ふふっ。それじゃ、これからよろしくお願いしますね、先輩?」
「……はい」
今度こそ、差し伸べられた胡桃の手を取る。
こうして僕は、胡桃とともに学校を変える義賊として立ち上がった。
……不本意だが、そういうことになってしまったのだった。