一章(2)
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僕の通っている高校──
しかし、ただの進学校じゃない。
全国的に見ても高めの偏差値を記録している優秀校。その上、日本を代表する大手企業の一つである西豪商事が二十年ほど前に設立した高校なので、ネームバリューがある。
進学実績もかなりいい。わかりやすいところで言うと、東京にある日本で一番有名な某大学の現役合格者数が、昨年度は十人を軽く超えていた。現役で二十人超えの合格も期待されている。年々レベルが上がっているということで、評判がいい。そんな高校。
西豪高校は、日本を牽引する大手企業が作った今をときめくエリート進学校なのである。
……とまあ、ここまでが外部からの評価。
この学校の実態は、もっと無意味で劣悪でどうしようもなく救いようのないものだ。
それは、一人の女子生徒が退学を決めた程度で変わるもんじゃない。僕が謎の女子生徒と屋上で話した翌日も、この学校は反吐を撒き散らすような醜い運営を続けていた。
「はい。一時間目の授業始めるぞ」
起立。気をつけ。礼。日直の号令であいさつが執り行われると──数学教師はもはや定型句となっているセリフを僕ら生徒に向かって言うのだった。
「はい。昨日出した課題が終わってない奴、立て」
生徒のほうも言われ慣れている。教室内ではすぐにガタガタと椅子を引く音が響いた。
教室内を見渡せていたはずの視界が、人間で埋まる。
教師の言葉を聞いて立ち上がった生徒の数は、三十七人。
即座に人数が特定できたのは、小学生でも暗算で解けるような単純な計算だからである。
四十、引く、三。四十人のクラスで、立ち上がらなかった生徒、つまりは、きちんと課題をやってきた生徒が三人しかいないのだ。
教師はゆったりと教室を横断しながら、冷たい声色で言う。
「……はぁ。それじゃ、いつもどおり端の席から終わってない範囲を言ってけ」
こうして今日も、西豪高校の名物の一つ、未提出課題の報告会が始まった。
教室前方に座る生徒から一人ずつ、課題の負債を報告していく。先週の小テストの直しが終わっていません。問題集は十三ページから今回の四十七ページまで終わってません。数Iは七十ページから最後まで終わってません。皆、慣れた口調で申告する。
教師は教室を練り歩きながら、生徒から報告が上がるごとに嫌味を吐く。
「お前さ、課題が終わらないなら部活やめろ。顧問にもやめろって言われたんだろ。なんでサッカーなんてやってんだよ。やることやんねえのに部活なんて許されると思うなよ」
教師に言われる嫌味の内容は様々だ。マシなのはこういう部活や趣味の批判。
「お前は数Iの六十ページからもまだ未提出だろうが。大概にしろよ。一年の範囲ならすっとぼけてれば無くなると思ってんの? ざっけんじゃねえ殺すぞ。……はい、次」
普通はこういう罵倒や殺害予告。
「授業後の課題もできない。去年の夏休みの課題も終わってない。人間として終わってるだろお前。親の顔が見てみたいわ。子どもがこんなんじゃ、親もさぞ無能なんだろうな」
最悪の場合、生徒やその親の人格否定。
「なに堂々としてんだよ。いつまでも舐めたことしてんじゃねえぞ馬鹿がッ!!」
そんな感じの暴言と一緒に机をガンッと蹴り飛ばされることもある。
……ああ、本当に、なんて無意味で無価値で腐りきった光景なんだろう。今日はあと何回これと同じような光景を見ればいいんだろうか。考えただけで吐き気がする。
「チッ。さっさと机を直せよ。邪魔だろうが。……はい、次」
さて、当然ながら、僕も課題をやってきていない側の人間である。
五分もしないうちに順番が巡ってきて、立っている僕の前にも教師が来た。
「…………」
「…………」
一瞬の膠着。目が合う。教師は虫を見るような冷たい瞳で僕のことを見据えていた。
「夏目さんは結構です。どーぞ、お座りください」
教師に嫌味ったらしくそう言われたので、僕はおとなしく腰を下ろすことにした。
頭上から視線を感じたが、それが皮肉っぽいことを言わなきゃ気が済まない教師のものなのか、贔屓と勘違いした他生徒のものなのかはわからなかった。
……まあ、知りたいとも思わないけどな。
その後も生徒たちは未提出の範囲を告げ、暴言を吐かれ、机を蹴り飛ばされていた。
授業の時間は未提出課題の報告会として刻々と消費されていく。いつもの光景だ。
「はい。それじゃ、今日の課題は四十七ページから五十ページまで。課題の借金がある奴は放課後に残ってやるように。勝手に帰ったらマジで殺すからな。ちゃんとしろ」
言っておくが、別にこの数学教師が特別なわけではない。
この教育が西豪高校というエリート進学校におけるスタンダードなのだ。
ここでは、僕を除いたほぼすべての生徒が、ほぼすべての教師から暴言を吐かれ、人格を否定されながら学校生活を送っている。
そして、誰もがその状況を異常だと認識できなくなっている。
西豪高等学校に入学してから一年と二ヶ月。
未だに僕は、この異常な学校生活に慣れることができずにいた。
*
当然ながら、この劣悪な環境には理由がある。
進学校として評判がいい西豪高校は、県内の高校の中で特殊な立ち位置を確立していた。
それは、『県内最上位レベルの滑り止め高校』。
この近辺に住んでいて、有名大学の付属高校など最難関と呼ばれるような高校を受験する者は、みんなウチの高校を不合格だったときの保険として受験するのだ。
その結果、西豪高校という進学校は、最難関高校の狭き門を抜けられなかった敗北者たちが流れ着く場所のようになっているのだった。
親に勉強をさせられ続け、自分ができる側の人間であると思い込み、親の期待を一身に受けて難関高校を受験し、そして落ちた。そんな生徒がウチにはたくさん在籍している。
ここは、コンプレックスの塊が山程いる学校なんだ。
この学校の教師陣は、生徒たちのことを一切信用していない。受験に失敗するような生徒が自発的に勉強すると思っていない。成績を上げるなどとは、微塵も思っていない。
だから、暴言を吐く。叱咤し、無理やりにでも勉強させ、一人でも多くの生徒をいい大学に進学させようとしている。私立高校としての評判を上げるために。
多くの生徒たちは、受験失敗という敗北の記憶があるせいで、教師たちの暴言に違和感を抱けない。勉強ができないのは悪いことで、罵られても仕方がないことだと思っている。
生徒を信用していない教師。自分を信用できなくなった生徒。
二種類の立場の人間が、西豪高校という閉鎖空間に歪んだ価値観を創造している。
クラスが、廊下が、通学路が、常に陰鬱さと圧迫感で満ちている。
ここは、そんなクソみたいな学校なんだ。
*
昼休み。僕は約一年ぶりに学食に向かっていた。
僕はいつもブロックタイプの栄養食を昼食にしているのだが、今日は珍しく寝坊をしてしまい、登校前にコンビニに寄って買うことができなかった。
購買に行くも、四時間目の授業が長引いたせいで、食べ物類はすべて売り切れ。
寝坊して朝食を食べていないのに昼食まで抜くとなると、さすがに体調に支障が出る。
悩みに悩んだ末、僕はずっと避け続けていた学食に向かうことにしたのだった。
はぁ。背に腹は代えられないとはいえ、今日はついてない。
校舎の一階。学食の前にある券売機には、長蛇の列ができていた。
この際、並ぶのは仕方ない。券売機の列に並んで自分の順番まで待機する。
ぶっかけうどんの食券を購入してから、僕は学食の中に入った。
「はいよ、まいどあり」
厨房に立つおばちゃんに券を渡すと、ほどなくして注文どおりの料理が出てくきた。
ごく普通の食事が載ったトレーを受け取って、座席のあるスペースへ移動する。
どこに座ろうかと周囲を見回して、さて、避け続けていた理由に直面する瞬間がきた。
西豪高校の学食には、暗黙のルールが存在している。
それは「テラス席と日当たりのいい奥の座席は成績上位クラスの生徒が使い、日当たりの悪い手前の座席は成績下位クラスの生徒が使う」というものだ。
ルールの製作者はおそらくいないのだろう。上位クラスの人間が日当たりのいい場所を我が物顔で独占し、下位クラスの人間が申し訳なさそうに端の席に寄る。そうやってできた本当の意味でのスクールカースト。学校全体を支配するヒエラルキーの産物だ。
「…………」
暗黙のルール──差別的な法律とも言えるそれは、今日も健在だった。
中庭のテラス席と日当たりのいい席にはうるさく騒ぐ連中がいて、校舎内側の薄暗い席には疲れきったサラリーマンのような表情で飯を食っている生徒が多くいる。
上位クラスの者は、なにかをこぼして下位クラスの者のテーブルを汚しても掃除しない。調味料は独占するし、片づけが面倒なら下位クラスの席に食器を置いて帰っていく。
そして、それらの暴挙に反抗する下位クラスの生徒は一人もいない。
本当に、いつ見てもろくでもない光景だ。
教師が成績主義の価値観を作り、生徒がその価値観に従い自分たちに優劣をつける。
結果、西豪高校内では、成績の良し悪しがそのまま上下関係のようになっている。
成績上位クラスの生徒は、下位クラスの生徒に横暴を繰り返す。
下位クラスの生徒はすべてを諦める。あるいは人間としての尊厳が失われているのに「上位クラスに上がって見返してやる」などという幼稚で意味不明な考えに陥るようになる。
成績によるクラス分け。競争心の刺激。そこから生まれる差別。西豪高校の闇だ。
そして、その闇が最も顕著に出ているのが、この学食の光景だと思う。
「…………」
数秒迷ってから、僕は日当たりの悪い席に向かうことにした。
学力で人間性が格づけされるなんて非常に馬鹿馬鹿しいとは思う。暗黙のルールなんて無視して日当たりのいいほうに座ったって別に構わないと、頭では思っている。
でも、そうやって抗うだけの気力を、僕はもう持ち合わせていないのだ。諦めている。諦めざるを得ないから、諦めているふりをしている。だから、逆らわない。
それに、堂々と上位クラス側に座っているのをクラスメイトに見つかったりしたら面倒なことになる。これ以上、教室で除け者にされるのはごめんだ。
最奥の席に座って、いちおう合掌。うどんをすすり始める。
素早くおとなしく食事を済ませて、ここを出よう。明日からは寝坊しないよう気をつけて、コンビニに寄ってから登校する。この場所のことは忘れる。それでいいだろう。
なるべくストレスを感じないように工夫して生きるんだ。
そう思いながら箸を進めていたのだが、食事の半ば、ちょっとした事件が起きた。
「あれ? ねえねえ、ウチら全員分の椅子なくない?」
「座るとこないの? いいじゃん、こっちの椅子使っちゃえば!」
そんな大きくて下品な声が聞こえてきた。
視線を上げて周囲の様子を窺うと、上位クラス側の女子五人グループが、足りない席を補うために、日当たりの悪いほうから椅子を一つ取っていったのが見えた。
これだけなら飲食店でもよく見るような光景だ。
でも、彼女たちの行為には一つ問題があった。
持っていった椅子の前に、手のつけられていない料理が置いてあったのだ。
それは、そこで食事を始めるつもりだった人物がいるということを意味するわけで。
「あれ? あ……えと……」
案の定、椅子のなくなったテーブルに、一人の男子生徒が戻ってきた。一年生カラーの上履きを履いている彼は、箸を取ってくるため一瞬だけ席を外していたようだ。
男子生徒は周囲を見回して、自分の状況を察したようだった。目を離した隙に、使う予定だった椅子を誰かに取られた。学食内は混んでいて、他に空いている席がない。
ついでに彼は、椅子を奪った犯人が誰なのかもわかったようだった。
当然だろう。例の女子グループはいわゆる誕生日席を設けて五人で食事をしている。座席が等間隔で並んでいるはずの学食では、非常に目立っているのだ。
まあ、犯人がわかったからといってどうすることもできない。
下位クラスの人間は上位クラスの人間に逆らえないのだ。それがこの学校の法律だから。
かわいそうに。彼は運が悪かった。
さっさと食べて僕の席を空けてやるか。そう思い、僕は食事の手を早めたのだが。
驚くべきことが起きた。男子生徒が犯人の女子グループに声をかけたのだった。
「あ、あの。すみません」
女子グループが五人一斉に彼へと目を向ける。
「……なに?」
「それ、俺の椅子なんですけど」
返事をしたリーダーっぽい女子に、男子生徒は勇気を振り絞ったような声で告げる。
「はあ? 俺の椅子ってなに? 誰も座ってなかったけど?」
「え、いやでもトレー置いてましたし……」
男子生徒の言葉を聞くと、リーダー風の女子は下を見て彼の上履きを確認した。
それから「ふっ」と鼻で笑うと、嘲笑の顔のまま言う。
「君、一年生なんだ? まだちゃんとわかってないんでしょ」
「わかってないって、なにをですか?」
「この学校の法律だよ。……あの、すみませーん。ちょっと来てくださーい」
彼女が呼んだのは、近くで食事をしていた男性教師だった。
教師は億劫そうに腰を上げると、揉めている両者の間に入る。
「なんだよ食事中に……。どうしたんだ?」
「なんかこの一年生があたしたちに突っかかってきたんですよー」
「いや、俺がトレー置いて取っておいた席が勝手に取られたから……」
教師はため息を吐くと、男子生徒に向かってこんな突拍子もない質問をする。
「お前、どこのクラスだ?」
「俺のクラスですか? 四組ですけど……」
「はあ? 四組って下位クラスじゃねえかよ。問題を起こすなよ。ったく……」
「え、なんで? 俺が悪いんですか?」
「そうだよ。お前が悪いんだ。ちょっと来い」
教師は男子生徒の襟を掴むと、引っ張って学食の外へと連れ出した。
「じゃあねー」
女子グループは教師と男子生徒にひらひらと手を振る。
「そうだ。ウザいし、残ってるあいつのトレー返却しちゃわない?」
そして、実に楽しそうに食事へと戻っていった。
……呆れた。本当に、気持ちが悪い。
こいつら井の中の蛙とかお山の大将とか、そういうことわざを知らないんだろうか。いや知っているだろ。大変に成績がよろしい上位クラスなんだからさ。
わかってる。わかっているさ。ここで僕がそんな皮肉を叫んだところでなにも変わりはしないのだ。「でもお前、成績悪いじゃん」と笑われるのがオチだろう。
だって、こんなのは氷山の一角なのだ。
校内には上位クラスが占用している場所が他にもあるし、生徒会は上位クラスの人間しか入れないし、上位クラスの生徒は下位クラスの生徒を当然のように虐げる。
そして、それらの横暴をこの学校の教師が正すことはない。
彼らの主張は一貫してこうだ。「虐げられるのは成績が悪いからだ。嫌なら勉強しろ」。
西豪高校という閉鎖空間は、学力による差別と暗黙の了解で満ちている。
それらの集団規範は、この学校の厳しい校則と合わさり、一つの法律となっている。
誰が呼んだか「
この最高峰の進学校にとってもぴったりで、ため息が出るくらいに素敵な差別法だろ?
「……馬鹿馬鹿しい」
気分が悪くなった僕は、食事を途中で切り上げて席を立った。
返却口にトレーを返して教室に戻ろうと思ったのだが、
「…………?」
後方からやけに視線を感じたので立ち止まった。
振り返ると、そこには意外。昨日、屋上で出会った女子生徒がいた。
女子生徒は、無言の無表情で僕のことをじっと見つめていた。
なんだ? 独り言を聞かれたのだろうか。口奥で呟いたつもりだったのだけど。
「あの、君……」
僕が声をかけようとした瞬間、彼女は目を逸らしてスタスタと下位クラスが使っている座席の方へと歩いていってしまった。……なんだったんだ?