第1章 この学校にはティラノサウルスがいる(3)
まともな人生、と彼女は言った。それが単なる脅し文句ではあることは明らかだ。
でも、
彼女は、まともな人生を、送れているのだろうか?
脳裏に、屋上の光景がひらめく。
燃え上がる彼女の姿。
あのとき、どうして消火器を持っていったのか。
理由ははっきりしている。
彼女がこう言ったと思ったからだ。
助けて――
「……
「へえ? なんです?」
彼女は振り向くと、片方の眉を不機嫌そうに吊り上げた。
「まず、これ」
僕はポケットから、ミントタブレットを取り出す。
「お礼は言いません」
彼女は食いちぎらんばかりの勢いで、僕を睨みつけている。
「別にいいよ。それともうひとつ――」
臆しそうになりながらも、告げる。
「――僕は、君の秘密を知ってる」
次の瞬間。
長い髪が揺れて、その瞳が、鋭く細められる。
そして、なにが起きたか理解したときには、すでに狩りは終わっていた。
踏み込む。手が伸びる。体を反射的に引く。逃げられない。掴まれる。重心が崩れる。そして瞬きよりも短い時間のあと。
世界が回転した。
いや、宙に舞ったのは、僕のほうだ。
床に背中を打ち付ける。息ができない。頭を打たなかったのは幸いだった。いや、頭を打たないように、引き上げられたのか。
倒れた体の上に、重量を感じる。
それが表情に出ていたのか、彼女は嘲るようにふんと鼻を鳴らした。
「モデルですから。人体のことはよくわかるんです」
「いてて……そういう問題じゃないでしょ……」
「あと、柔道を少々。体の使い方は重要です。それに、スタンガンや特殊警棒と違って肉体は合法ですから」
「武道を凶器にしちゃいけないんだぞ」
「いいえ、これは積極的護身ですので」
「先制攻撃を都合よく言い換えないでよ」
「いちいちうるさいですね。もし言うことを聞かないのなら――」
「な、なにしてるの⁉」
答えるかわりに、彼女はスカートのポケットから水色の四角いキーホルダーを取り出して、真ん中のボタンに親指を当てた。
体を起こそうとするが、彼女はもう片方の手を僕の胸に叩きつける。
そして僕の目を見て、邪悪な笑みを浮かべると、言った。
「――あなたの人生、ぶっ壊します」
それはキーホルダーなどではなく。
防犯ブザーだった。
めちゃくちゃだ。いったいどこの世界に、こんなことをするモデルがいるんだ。
同時に認めざるを得なかった。これは効果的だ。
「だから待ってってば!」
「あなたのせいですよ。余計なことを言うから」
「待って! 僕は、君の炎の原因を知ってるんだ!」
「……そんな嘘を、どうして私が信じると思ったんです?」
その口調とは裏腹に、重い動揺が、触れた肌から伝わってくる。
彼女の体重を押し返すようにして、僕は息を整えた。
「あのときはとっさに消そうと思ったけど……よく考えてみたら、君は驚いてなかった。自分の体が燃えているっていうのに。ということは、あれがはじめてじゃないはずだ。もしかしたら、日頃からああいうことがあるんじゃないか?」
「だったらなんだと?」
「だからさ。君の炎を、止められるかもしれないんだ」
「騙されません。どうせなにかのインチキで、恩を売って後で好き放題するつもりなんでしょう。いやらしい。いいから、誰にも話さないと約束してくれればいいんです。これ以上、手間をかけさせないで」
言われてみれば、信じろというほうが無理があるかもしれない。
でも、なんて言えばいいんだ。
逡巡して目線をさまよわせた先で――僕は見つけてしまう。
はだけられた彼女の胸元から、黒い影が這い出すのを。
「またトカゲだ……!」
それは首元を通り、素早く背中に抜けていく。
「なんです?」
間違いない。
これは予兆だ。
そして僕は気づく。
彼女の体が、徐々に熱を帯びていることに。
「体が、熱い……」
「やっぱりいやらしいこと考えてるじゃないですか!」
「それは不可抗力――じゃなくて! 僕の体じゃない、君の体だよ!」
「なにを、言っ、て……っ」
平静を装った声が、途中で揺れる。隠しきれない呼吸の苦しさ。
体に伝わってくる温度は、もはや、人間のそれを超えていた。
僕はあたりを見回す。
机。椅子。床。ぜんぶ木だ。
つまり。
ぜんぶ、燃える。
僕は屋上の、あの光景を思い出す。
もし同じように火が出たら、とんでもないことになる……!
そのとき。
キン、コン、カン、コン。
始業のチャイムが鳴った。
一瞬だけ、彼女の視線が外れる。
その瞬間を、僕は見逃さなかった。緩んだ彼女の手を掴む。カラン。防犯ブザーが床に落ちる音。彼女が倒れて、僕は体を起こす。さっきまでの力は、今やどこにもない。掴んだ手首の細さと熱さの両方に、僕は驚く。
「は、放して……!」
「そんなこと言ったって!」
「私が放せと、言っているのです……!」
立ち上がろうとした彼女は、しかしよろけて倒れそうになる。
僕はそれをとっさに支える。触れた肌から伝わる温度が、刻一刻と上がっているのがわかる。
「やめて……放っておいてください……!」
「そんなわけにいかないだろ! とにかくここを離れないと」
「いいです……自分で、屋上に、行くので……」
「ダメだ、間に合わない!」
小さな炎が、彼女の肩にひらめいた。
多分、もう時間がない。
だとしたら、可能性はひとつしかない。
同じ階なら、なんとかなるかもしれない。