アオハルデビル
第1章 この学校にはティラノサウルスがいる

第1章 この学校にはティラノサウルスがいる(2)

「見つけましたよ。在原ありはら有葉あるはくん」


僕と三雨みうは、声がしたほうへ、同時に目線を動かす。

そこに立っていたのは。

伊藤いとう衣緒花いおか、その人だった。


「私と来てください」


その印象は、炎とは正反対だった。

水のように流れる黒髪。空のように透き通る肌。蝶のように揺れる睫毛。花のように綻ぶ唇。

細い顎の向こうに見える首は、滝のようになめらかに胸元に流れていく。頭は驚くほど小さく、腰は目を疑うほど細く、手足は信じられないくらい長い。制服という同じ装いに身を包むからこそ、その身体の美しさが際立っている。自分と同じ生き物だとは、とても思えなかった。


しかしなにより印象的なのは、その目だった。

切れ長のかたちの奥で、静かに、けれど確かに宿る温度。それは北極星のような、闇に輝く星を思わせた。

その光が髪にきらめく星の髪飾りと同期して、空間さえも支配する。

騒がしかったクラス全体が、声をひそめてこちらを伺っている。

そこに現れただけで、すべてが変わってしまう。

まるで、彼女が世界の中心みたいに。


「聞こえませんでしたか? 返事がありませんが」


牙のように尖ったその両目が僕を突き刺す。

びくん、と自分の背中が跳ねるのを感じる。

まるで巨大な捕食者に見つかった、草食動物だ。

僕がなんと答えたものか戸惑っていると、彼女はつかつかとこちらに近づく。

胸がくっつきそうになるまで距離を詰めると、眉を寄せて、僕を睨みつけた。


「そ、そんなこと言ったって、授業すぐはじまるし」

「だからなんだというのですか」

「いや世界史が小テストだから……」

「それならなおさら私と来るべきでしょう」

「ど、どういうこと?」


ふんと鼻を鳴らして、彼女は髪をかきあげる。


「私が世界の歴史に名を刻む女だからです」


僕はあっけに取られてしまった。

まったく理屈が通っていない。

通っていない、が、あまりにも堂々と言い切るので、気圧されてしまう。

その隙に、ぱっと伸びた彼女の手が、僕の手を掴む。


「いいから! 私が来いと言っているのです!」


勢いよく引っ張られた僕は、バランスを崩し、足が机を跳ね上げて。

置いてあったCDが、宙に舞った。

正方形のプラスチックが、雨のように降り注いで。

透明なカバーが、窓から入った光を反射して、きらきらと輝いている。


揺れる視界の中、そのひとつに、こう書いてあるのが見えた。

二十世紀少年トゥエンティエス・センチュリー・ボーイ

それがどんな曲なのか、僕はまだ知らない。

ただひとつ、確かなのは。

巨大なの重力に、小さなが、捕まってしまったということだけだった。


   ■


市立逆巻さかまき高校は、自由な校風の進学校である。

というのは、この学校のもっともよい面に注目した言い方だ。実際には生徒は放任されており、たとえば三雨みうみたいな格好をしていてもなにも言われない代わりに、指導はずいぶん淡々としている。面倒見がよいとは決して言えないこの学校がそれでも進学校として機能しているのは、よりよい学びを求める上位層には相応のバックアップを与えているからだ。しかし裏を返せば、ひとたび落ちこぼれてしまうとフォローはない。それを自主性の尊重と見るか、放置されていると見るかは、意見の別れるところであろう。


こうした一種の裏表は施設の管理にも表れていて、表向きは比較的新しく小綺麗な校舎で惣持も行き届いているのだが、細かい不具合は割とそのまま放置されている。そう、例えば窓の鍵が壊れていて夜も学校に入れてしまったりとか、施錠されているはずの屋上のドアがかんたんに開いてしまったりとか。

こうして人通りのない空き教室がそのままになっているのも、そのひとつだ。


「さて――」


僕は引きずられていった先の空き教室で、彼女と対峙していた。


「――自分がなぜここにいるのか、理解していますよね」


ドアを背にして逃げ道を塞いだ彼女は、僕に詰め寄る。

空き教室はカーテンが引かれ、朝だというのに暗かった。始業室の生徒の喧騒は、かすかに聞こえる程度。その静けさの中で、彼女は獲物を追い詰めるように、僕を睨みつけている。


「さあ……無理矢理連れてこられたから」

「無理矢理とは人聞きが悪いですね」

「誰も聞いてないからここにしたんでしょ」

「ほら。本当はわかっているくせに、誤魔化さないで」


僕はため息をついてしまう。


「……屋上のことでしょ、えっと、伊藤いとう、さん」

「そんなありふれた名前で私を呼ばないでください」

「本名なんじゃないの?」

「苗字は好きではありませんので」

「知らないよ……。じゃ、衣緒花いおか?」

「敬意が足りない気はしますが、まあよいでしょう」


満足そうな顔もせず頷くと、彼女はその長い指を僕に突きつける。


「私の要求は単純です。については、口を閉ざしていてください」


僕のためらいを無視して繰り出されたその発言は、予想通りの内容ではあった。

彼女の髪についた、星の髪飾りに目を向ける。

やはり、は本当に、伊藤いとう衣緒花いおかだったのだ。

とはいえそもそも、屋上で大人気ファッションモデルが炎上していたんだ、なんて言っても、誰も信じないと思うが。もしかしたら別の意味に受け取られるかもしれない。


「わざわざ言いふらしたりしないよ」

「それを信用する理由は?」

「えっと、別にメリットがないから?」

「そんなわけがないでしょう。この私の弱みを握っているんですよ?」

「弱みって言っちゃったな……」

「そっ、それは別に私が言わなくても、考えればわかるでしょう! とにかく、まともな人生が送りたければ、私のことは黙っていてください」

「僕だって、別に余計なことに首をつっこみたいわけじゃない」

「わかればよろしい。では、以降は無関係ということで。約束を反故にした場合は……」

「場合は?」

「人生の終わりを覚悟しておいてください」


恐ろしい威嚇をぶつけて、彼女はくるりと踵を返す。

やれやれ、と僕は思う。

これで終了だ。彼女と僕の日常が、もとから交わるはずもない。

月とすっぽん。雲泥の差。星と石ころ。単なる交通事故。


――だけど。同時に考えてしまう。

このまま放置して、いいのだろうか、と。

なぜなら。

僕は知っている。


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