#2/嘗てダリアの日々 Oh, Dahlia

#2-2_kawauso/ あなたのことなんて何一つ知らなかった(2)

 被害者は発見された状態のまま座っていた。坊主頭。だぼっとしたプルオーバーのパーカーにカーゴパンツ。ごついスニーカー。一見して二十代。二十歳そこそこだろう。膝の横でだらりとしている手の甲や指にいれずみがあった。

 坊主頭の若者は背を丸めてうなだれている。頭がやや左にかしいでいて、首の右側面に例の傷、直径二、三ミリの穴が確認できた。

 先輩は、そしてガルムも、しゃがんで若者の遺体をまじまじと観察している。

 酒の臭いがした。見ると、遺体の右もものすぐ脇に缶チューハイが転がっていた。中身がいくらかこぼれて道路が湿っている。若者が生前、飲んでいたのだろうか。

「さっきの」

 先輩が若者を見すえたまま言った。

「何だったの」

「え? さっきのって──」

「コグレさんに何か言おうとしなかった?」

「いや、言おうとしたっていうか。ふと思っただけで」

「言ってみ」

「でも、マジどうでもいいっていうか、ホントにたいしたことじゃないんで……」

「言え。気になる」

「……あの刑事さん、誰かに似てるなって、前々から思ってたんですけど。誰かはわかんなくて。さっきひらめいたんですよね。コロンボだって」

「コロンボ?」

「なんかあるじゃないですか。ちょっと古いやつですけど。ドラマ? 映画なのかな? 刑事コロンボって。アメリカの」

「コグレさん、外国人っぽくはなくない?」

「なんとなくですって。フインキですよ。フンイキ? 雰囲気です。だいたいおれ、刑事コロンボちゃんと観たことないし」

「観たことないのに似てるとか……」

「だから言いたくなかったんだよなぁ。これが明らかに激似だったら、本人に言ってますって。むしろ、刑事コロンボに似てるって言われませんかって、くまでありますよ」

「想像以上にくだらねえ。二度と言うなよ。コロンボとか」

「ごめんなさい……」

 またもや謝る羽目になってしまった。

 果たして、いつか先輩に謝らなくてもいい日はやってくるのか。絶対に来ないだろう。きっと先輩には一生頭が上がらない。何かにつけ怒られて、そのたびに謝罪する。この先、何年も、何十年も。カワウソがこの世を去るまで。カワウソの主観では、永遠に。

 若者の遺体に例の穴以外の外傷はないようだ。

 被害者は心臓が止まるまでただ座っていた。死ぬまでの間に暴れるなどした形跡はほとんど、あるいは一切ない。

 老女は自宅である団地の一室で、この若者は高架下で、静かに死んだ。

 ついでに言うと、六日前には、ここから一キロばかり離れた場所にある自動販売機に寄りかかって、四十六歳会社員の男性が死んでいた。

 十五日前、その自販機が設置されている建物から程遠からぬアパートで、三十二歳の女性が変死した。彼女は自室のベランダでうずくまっていた。発見者は交際していた男性で、その死への関与が疑われて取り調べを受けている。

 四人とも、首に直径二、三ミリの穴があいていた。

 死因は今のところ判明していない。ただ、穴状の傷には生活反応がある。つまり、死後ではなく、生きている間につけられた傷だ。そのわりに出血が少ない。

 推測するに、何者かが、何らかの細い器具を被害者の首に突き刺した。その後、何かが起こって被害者の心臓が停止したのだろう。心臓が動かなくなれば、当然、血流は止まる。被害者が死亡したあとで、何者かは器具を抜いた。

 警察は事件とも事故とも断定していない。穴の件を公表していないので、報道での取り上げられ方は控えめだ。

 現時点では。

 この先も同様の死者が続出したら、どうなるかわからない。

 被害者の確認を終えると、先輩はコグレ刑事にあれやこれやと質問した。第一発見者についてとか、被害者の身元とか足どりとか。まだわかっていないことが多いので、のちほどまとめて報告するとコグレ刑事は約束してくれた。

「やっぱり、そちらの案件なんですかね?」

 コグレ刑事は額の生え際あたりをボリボリをきながら先輩に尋ねた。癖なのか。たぶん癖なのだろう。カワウソは刑事コロンボが映画なのかドラマなのかすら知らないが、テレビで何回か観たことがある。たしか主人公のコロンボが、コグレ刑事がするようにおでこを押さえるか掻くかしていた。ふわっとしていて少し乱れ気味の髪型も、コロンボっぽいような気がする。

「そうでないといいんですが」

 先輩がそっけなく答えると、コグレ刑事は肩をすくめて苦笑いをした。顔も若干、似ているような。そうでもないような。

 現場を離れて車に戻ると、夜が明けていた。先輩が電話で上司と話しはじめたので、カワウソはコーヒーでも買ってこようとコンビニを探した。三分と歩かずにコンビニが見つかった。

 いかにもブラックを好みそうな先輩は、チルドカップのカフェオレか紙パックのコーヒー牛乳しか飲みたがらない。飲めないわけじゃないと先輩は主張するのだが、やや疑わしい。カワウソはたいていブラックだ。たまに甘ったるいコーヒーが飲みたくなっても、大人のたしなみとしてブラックを選択する。とくに先輩の前ではブラックオンリーだ。

 他に菓子パン、おにぎり、袋入りのチョコレートをてきぱき選んで買った。コンビニを出て、帰りは右だが、何げなく左を見た。

 その時、左に目を向けなければ、対象を捕捉できなかったかもしれない。カワウソは捜索中ではなく買い出し中だった。だからこれは偶然でしかない。

 二十メートルくらい先を一人の男が歩いていた。中肉中背。男性だろう。ミリタリーっぽいジャケットを着ていて、下はデニム。黒髪。若そうだ。

 日が昇りはじめたばかりの早朝ではあるものの、男性が一人で街を歩いているだけだ。無視してもいい。でも、袖口から長いひものようなものが垂れていて、それを引きずるようにして歩いている。何なんだ、あれは。

 カワウソは自分の左肩をいちべつした。オルバーは顔面をくしゃくしゃにし、小さな牙をしにしていた。あの紐のような何かはじゃない。オルバーもそう感じているらしい。

 男は振り向かない。歩きつづけている。カワウソに見られていることに気づいていないようだ。

 カワウソは男のあとをつけることにした。さて買い物も済んだし家に帰りますか、といったふうに歩を進めながら、携帯で先輩に電話を掛ける。話し中だったので、メッセージを送った。携帯をマナーモードにして手に持ったままポケットに突っこむ。間もなく折り返し電話が掛かってきた。カワウソは電話に出た。

『その怪しい男、尾行してるの?』

「はい」

 カワウソは口を手で覆って小声で答えた。先輩も声を潜めている。

『わかった。あたしもすぐ行く』

「お願いします」

『気づかれたら押さえて。逃がすな』

「了解」

 カワウソは電話を切ってポケットに携帯をしまった。

 男は高架沿いの通りを歩いてゆく。

 やがて角を曲がった。その先には低層のアパートや住宅が建ち並んでいる。

 この道はまっすぐで見通しがよすぎる。カワウソは距離をとった。路地に入って顔を半分だけ出し、男の動向をうかがう。

 男が振り向こうとするようなそぶりを見せたので、カワウソは顔を引っこめた。察知されたのか。

 少し待って、そっと顔を出してみた。男がいない。カワウソはあせって路地から飛びだしたくなった。いや、落ちつけ。深呼吸をして、ゆっくりと路地を出る。急いで、ただし、足音を立てないように気をつけて、最後に男の姿を確認したあたりまで進む。左手が空き地になっている。建物を取り壊して更地にしたばかりのようだ。

 空き地の向こうにアパートが建っている。その敷地に入ってすぐのところに男が立っていた。携帯を耳に当てている。こっちを見た。

 案の定、若い。二十代だろう。ひょっとしたら高校生くらいかもしれない。

 男が駆けだした。

 カワウソも走って追いかけた。ヘマをやらかしたか。また先輩に怒られる。

 男はアパートの敷地から向こうの通りに出て右に曲がった。携帯で誰かと話しているみたいだが、聞きとれない。

 カワウソも通りに出た。男は十五メートルほど前方を走っている。それなりに速い。でも、短距離走の走者のような速さじゃない。カワウソが全速力で走れば追いつける。

 ただ、男が引きずっているひものようなものが気になる。あれは何だ?

 男は赤信号の横断歩道をかまわず駆けてゆく。二車線の広い道だ。カワウソがその道に到達した時も信号はまだ赤だった。トラックが走ってくる。タイミング的にぎりぎりだが、カワウソは止まらずに道を渡ることにした。トラックにクラクションを鳴らされて、肝が冷えた。

 男は歩行者信号脇の細い道に入った。カワウソがその細道に足を踏み入れると、ちょうど男が向かって右の路地に駆けこむところだった。さっきトラックが行きすぎるのを待っていたら、間違いなく見失っていただろう。

「ナイス、おれ……!」

 自画自賛してテンションを上げる。男が駆けこんだ路地は町工場と古いアパートの間だった。ドラム缶や金属製のダストボックスが並んでいて、ただでさえ狭い路地がさらに狭められている。

 男はちらっとカワウソを見て、ドラム缶を引き倒した。けたたましい音がして、横倒しになったドラム缶が路地をふさいだ。そうきたか。カワウソは目を見開いた。

「──オルバー!」

 左肩にしがみついていたオルバーが、ほぼ瞬時にカワウソの背中を伝い降りて右脚に絡みつく。オルバーが見えない者にとっては何ら変化していない。しかし今、オルバーはカワウソの右脚と一体化している。

 オルバーと化したカワウソの右脚、あるいはカワウソの右脚と化したオルバーが地面を蹴ると、現象としては単純だが、とんでもないことが起こった。

 カワウソは

 飛び立ったわけじゃない。でも、走り高跳びの世界記録保持者よりすごい。棒高跳びくらいの勢いだ。しかも、カワウソは冗談みたいに軽々と、うそのように高く飛んだ。

「うぇっ……」

 男が逃げることも忘れて足を止めた。

 カワウソは町工場と古アパートの間をかっ飛んだ。男が大口を開けてカワウソを見上げている。見る間にカワウソは男を飛び越えた。

 カワウソの右脚はオルバーの頭部だ。爪先にオルバーの口が位置している。左脚は生身だ。左脚で大ジャンプの衝撃を受け止めたら大変なことになる。だからカワウソは右脚で着地した。男の背後だ。そのまま右脚を軸にして体を反転させた。

「逃げても無駄だよ……!」

 カワウソは右手で男のジャケットの襟首を引っつかんだ。

「ぐぁっ──」

 首が絞まって男はった。

 その時だった。

「っ……」

 カワウソの首筋に何かが触れた。か。とっさにカワウソは首筋に左手を伸ばした。あった。これだ。男の袖口から垂れていたひもみたいなもの。握りしめて引っ張ろうとしたら、するりと逃げられた。それはカワウソの左手首に巻きついて締めつけてきた。

「こっちが──」

 カワウソは男の左脇腹に左の膝蹴りを見舞った。男がうめいた。それでも左手首を締めつけているものの力は弱まらない。

「手加減してるうちに……!」

 今度はオルバーと一体化している右脚で男の右脇腹を蹴りつけた。

「あがっ……!」

 男が叫ぶ。男のろつこつが折れる手応えというか脚応えがあって、カワウソの左手首から紐みたいなものが離れた。自由になった左手で、すかさず男の髪の毛を掴む。男をアパートの外壁に押しつけ、右手で男の右腕をねじ上げた。

 その袖口には何もなかった。例の紐みたいなやつが見当たらない。

 まずい。

 そう感じた時にはもう、カワウソは男を解放して跳び上がっていた。助走なしの垂直跳びでも、オルバーの右脚なら三メートルはいける。

 紐は空中で身を躍らせていた。男から離れてカワウソを襲おうとしたのに、かわされたので荒ぶっているといったところか。

 しかし何なんだ、マジであれ。

 見た目は蛇というよりも、やたらと長すぎるミミズだ。サナダムシっぽくもある。もちろん、ミミズやサナダムシはあんなふうに宙を舞ったりしない。おぞましいほど活動的だ。躍動感がありすぎる。そうとう気持ち悪い。

 それ以上に、危険だ。

 こいつの仕業なんじゃないか。カワウソはそう疑っていた。

 たった半月の間に四人が変死した。その全員に穴のような傷があった。あのやけに活発で長すぎるミミズのような、サナダムシのようなやつがやったんじゃないか。穴のような傷から被害者の体内に入りこんで、心臓を止めた。

 カワウソの体は重力に引かれて落下しはじめている。オルバーの右脚でやつを踏んづけてやろうとしたが、よけられた。

 オルバーの右脚で着地するなり、また跳ぶ。上じゃない。前方に跳んだ。しやくだが、一度退避したほうがいい。あのミミズだかサナダムシだかはきっと人殺しをしている。人を殺せるやつだ。カワウソも死にたくはないし、殺されてやるわけにはいかない。

 路地から飛びだすと、歩道がないような小道だった。そんな道を車が爆走してくる。白いミニバンだ。近い。

「ちょっ、かっ──」

 下半身が破裂した。そんなふうに錯覚するほどの衝撃だった。カワウソはなんとかミニバンを回避しようとした。でも、間に合わなかった。カワウソはミニバンにねられて、空中で何回転かした。地面にたたきつけられた瞬間、目の前が真っ暗になった。

 死んだ?

 本気でそう思ったのだが、どうやらまだ生きているらしい。

「うぅぅ……」

 このうなり声。自分か。

 自分の声らしい。

 カワウソはうつ伏せになっていた。視界がかすんで、ぐちゃぐちゃにゆがんでいる。痛いというか、やばい。体の感覚がない。まったくないわけじゃないと思うが、ほとんどない。

「動いてんな」

 誰かが言った。誰だろう。男の声だ。

「運ぶぞ」

「このまま? 生きてんだけど。どうする?」

 一人じゃない。何人かいる。

 くそ。

 だめだ。何が?

 何がだめだって?

 わからない。落ちそうだ。

 意識が、真っ暗な闇に。

 先輩──

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