Ø3 息が止まるまであと何秒

(──僕は昔から、夢見がめちゃくちゃ悪いし……)

 たか想星はベッドの上であおけになり、額に右手の甲をあてがって天井を見ていた。

(もともと、そんなによく眠れるほうじゃないんだよな。それにしても、ほとんど一睡もできなかったっていうのは……)

 遮光率の高いカーテンを閉めきっていても、外の明るさはわかる。もう朝だ。日が昇ってから、だいぶった。想星は眠るのを断念して起き上がろうとした。そのときだった。枕元でスマホが鳴動した。

「っ……!」

 想星はスマホを引っつかんだ。ラインだった。

「ああぁああぁぁぁあすみ……」


 おはよ


 その一言だった。しらもりからのメッセージだ。

「……な、なな、ななな、何事かと思った……」

 そうせいは跳び起きた。

「そ、そうだ! そうだよ、これってやっぱり、返信しなきゃ……?」

 スマホを握り締め、迷いに迷いながら腹筋運動をしていると、また来た。

「──わあっ!」


 夢みた 想星が出てきて・・・ どんな夢だと思う?


「は、はあっ!? ゆゆゆ夢……? ゆっ、夢……って、そそそんなの知るかぁっ……」

 手が震えている。腹筋運動を中断したのに、想星はあっという間に汗だくになった。

「……どどど、どうしよう、これって、回答を求められている? のか……? 答えなきゃだめ? ど、どんな夢って……やっぱ悪夢? 違うか、そ、そんなっ──ぐぉっ!」

 想星はスマホを吹っ飛ばしそうになり、慌ててキャッチした。またもやしらもりがメッセージを送ってきたのだ。


 いい夢でした!


 短い文面にスタンプが続いた。想星には正体がわからない、猫か何かのキャラクター的なものがにっこりと笑みを浮かべているスタンプだった。

「……い、いい夢……」

 想星は肩で息をしていた。汗が一向に止まらない。

「な、何か……何か、返さないと……」


 おはようございます 悪い夢じゃなくてよかったです


「……たとえば、こんな感じ? とか、だと……?」

 送信した。

 直後、想星は激しく頭を振った。

「なんか違う気がする! これじゃない気が……!」

 間髪をれず、白森からレスがあった。


 言い方!


「──ああぁっ!」

 そうせいはベッドから飛び降り、壁めがけて突撃しようとした。

「いっ……いやいやいや! 壁、壊れるし! うあああぁぁぁ、でも、ミスった! やばい、やばいよ、やばいって! しらもりさん、これ絶対、怒ってるって……!」

 しかし、すぐにまたスタンプが送られてきた。

 何かよくわからない、猫のキャラクター的なものが、腹を抱えて笑い転げているスタンプだった。

「これはぁ……!?」

 想星は床に両膝をついた。ささったスマホを仰ぎ見る。

「おっ──こって、ない……!? よね? ウケた……!? なんで!? いや、だけど、いいか、そうだ、そうだよ、いいじゃないか、怒ってないんだったら、とりあえずは……」

 そうこうしているうちに、またメッセージが届いた。


 学校で会えるの 楽しみ


「……た、たっ──たた、た、たたのっ、たのし、楽しみ……」

 想星は息も絶え絶えになりながら、白森が送ってきた文面を何度も読み返した。

「心臓に、悪い……」


         †


(まったくさ……初めてだよ……)

 ばこで上履きに履き替えながら、想星は今日何十度目かのため息をついた。

(登校するのに、こんなに緊張したの……)

 たか想星はどこにでもいる普通の高校生になりたかった。

(もし彼女ができたら、とか。想像してみたことも、ないわけじゃないけど。なんか、違うな。ぜんぜん違う。ていうか、そもそもよくわかんないし。わかるわけないし……)

 教室に入る前に、想星は中の様子をうかがってみた。はやしゆきさだはいた。それから、ひつじもとくちなも窓際後ろの席でほおづえをつき、外を見ていた。

(地味に早いんだ、羊本さん。いつもなのかな。どうだっけ。そういえば、必ず教室にいるような気も。──白森さんはまだ、か……)

 想星は一つ息をついてから教室に入った。何人かが想星のほうに顔を向けた。

「チョイーッ!」

 クラス一の陽気者で、いい意味でにぎやかなワックーことわくこういちろうが、敬礼のようなぐさをしてみせた。想星は頑張って笑顔を作った。

「おはよう、ワックー」

 それがそうせいの精一杯だった。

(……チョイーはな。やってみたいけど、照れがあって、できないんだよな……)

 どう見ても乗りがいいとは言えない想星に、ワックーは親指をビッと立てて片目をつぶってみせた。ワックーは誰に対しても、常にこうだ。

(好感しか持てない……)

 想星が自分の席につくと、ゆきさだが近づいてきた。雪定は透明感のある爽やかな高校生男子だが、朝の光を浴びていると清潔感が数倍増しになる。

「おはよう、想星」

 友人の笑顔のまばゆさと寝不足のせいで、想星は思わず目を細めた。

「ああ、うん……おはよう、雪定」

「で?」

 雪定はしゃがんで、椅子に座っている想星と目線を合わせた。

「どうだった?」

「……どう──って?」

 想星がき返すと、雪定は身を乗りだしてきて声を潜めた。

「昨日。しらもりさんに告白されたんでしょ? 返事は?」

「そっ──れ、は……」

 想星は下を向いた。両手で左右の頬を押さえる。顔が熱い。

「……まあ、一応」

「一応?」

「だから……い、一応、その……」

「断ったの?」

「いや……それは……」

「オッケーしたってこと?」

「……まあ」

「へえ」

 雪定はにんまりと笑った。

「そっか。それじゃあ、二人はもう付き合ってるんだ。よかったね」

「……よ──かった?」

 想星は頬を押さえている手を上方向に移動させた。両手で頭を抱えこんだ。

「よかった……の、かな?」

「いや、わかんないけど。でも、悪いことじゃないでしょ?」

「まあ……」

しらもりさんってかわいいし、なんか明るくて楽しそうな人だし、やっぱりよかったんじゃない?」

 ゆきさだは立ち上がってそうせいの肩をぽんとたたいた。

 そうして軽やかな足どりで離れていった雪定と入れ替わりに、誰かが歩みよってきた。

 想星にも何かの折に立ち話をするような相手は複数いる。けれども、わざわざ席までやってくるのは雪定くらいだ。昨日まではそうだった。

「しっ──」

 想星は目をいた。背筋が反り返るほど伸びた。ももに両手が強く押しつけられた。

 その誰かは女子だった。脚がとても長い。内股気味だ。うつむいて、手を後ろで組み、ゆっくりと歩いてくる。

 最後の一歩は、ぴょんと跳ぶような感じだった。

 彼女は両足で着地すると、上半身を右側に傾けて、はにかんだような笑みを浮かべた。

「おはよ」

「──あっ……」

 想星はまばたきをした。顔全体がゆがむほどのまばたきを、まばたきと呼べるのなら。それから一度、かくっとうなずいた。

「おっ……──」

 はよう。

 もちろん、想星はそう挨拶を返したかった。しかし、うまく声を発することができなかった。代わりにせきが出た。

「うぇっほっ、ごほっ、うぇっ、うぉっ──おっ、おはよぅ、ござぃ……ます……」

「言い方!」

 白森は体を折ってころころと笑った。

「……は、ぁはは……」

 想星も笑った。顔が引きつっている。いや、顔だけではない。今にも想星のほぼ全身がけいれんしそうだ。

 すると、急に白森が黙りこんだ。白森の顔から一切の表情がせたので、想星は大いに動揺した。

(……怒った? 僕が何か変なことをして、怒らせた──のか……?)

 生きた心地がしない、とはこのことだ。

(……まあ、僕は死んだことがあるわけだけど。しかも、一回や二回じゃないし。何なら昨夜も五回ほど死んだし。今は生きてるのに、生きてる心地がしないって、変だな……)

 それもこれも、白森が沈黙しているせいに違いない。

(謝ったほうが? いい──のかな……? でも、何をどうやって謝れば……)

 そうせいが正解の見えない謝罪について真剣に検討しはじめたときだった。

「会えたね」

 小声だった。しらもりが、ぼそり、というより、ぽそっ、というふうに言ったのだ。

(……会え──た、ね……?)

 想星の頭の中は誰もいない体育館のようだった。無人の体育館に、白森の声が響き渡っていた。

 会えたね。

 会えたね。会えたね。会えたね。

 会えたね。会えたね。会えたね。会えたね。会えたね。会えたね。

 ──と。

 この体育館は無人だ。だとするなら、誰がこの声を聞いているのか。想星ではないのか。だとしたら、無人の体育館に想星がいる。すなわち、無人ではない、ということになる。第一、ここは体育館ではない。教室だ。

(何だろう、この気持ち……)

「ぃひっ」

 だしぬけに白森が奇妙な声を発した。すぐさま両手で自分の口を押さえる。

「うぁ、あたし、キモっ。ごめん、出直す!」

 白森は顔を上気させていた。きびすを返してぱたぱたと駆け去ってゆく白森の後ろ姿を、想星はぼうぜんと見送った。

(どんなかわいい生物かよ……)


         †


 たか想星はどこにでもいる普通の高校生になりたかったのだ。これは、違う。

 同級生たちにやたらとチラチラ見られたり、「どういうこと?」「うそ」「マジ?」「いやあ、どうだろ」「ないんじゃね」といったようなささやき声がやけに耳に入ってきたりするのは、想星が思い描く普通の高校生活では断じてない。

(みんなの気持ちは、わからなくもないけど……)

 とくに何かのついでというふうでもなく、白森が想星個人に挨拶をした。いったいこれはどういうことなのだろう。もしかして、二人はただならぬ関係なのではないか。しかし、そんなことがありうるものだろうか。同級生たちは怪しみ、戸惑っている。

(何しろ、僕だからな……)

 授業中も、想星はどうしても気になって、何回か、いや正直、十回以上──というか三十二回も、白森に視線を送ってしまった。

 その結果、何度か──正確には六回も、しらもりと目が合った。

 一回目と二回目は、目が合ったな、と思った瞬間、互いにそらした。

 三回目は、長かった。といっても三秒ほどだが、そうせいが耐えきれなくなって、先に目をそらしてしまった。

 四回目は、その直後に起こった。

 想星はやはり気になって白森の様子をうかがった。すると、白森はまだ想星を見ていた。それで、約五秒間、二人は見つめあった。先生が何か話しはじめたので、そうしてもいられなくなり、想星も白森も前を向いた。

 五回目の白森は、両手で顔の下半分を隠していた。想星も、なんとなく右手で口のあたりを覆った。すると白森は、くっ、と噴きだすようなぐさをした。下を向き、懸命に笑いをこらえている白森を、想星は十秒かそこら観察していた。

 六回目はとりわけ印象的だった。数秒間見つめあったあと、白森が口を動かしはじめたのだ。授業中なので、むろん声は出さなかった。口文字というのだろうか。白森は唇の形で想星に何かを伝えようとしていた。

 それは四文字だった。

 四つの音で構成される言葉を、白森は何回も繰り返していた。

 やがて想星はぴんときた。

 そ

 う

 せ

 い

(ひょっとして、僕の名前……?)

 想星が自分を指さしてみせると、白森は笑顔になってうなずいた。

(──白森さんは……人間か?)

 想星としてはそう考えざるをえなかった。

(ホモサピエンスとは別種の──ていうか、別次元にかわいい生物なんじゃ……?)

 想星のような者でも、動物の赤ちゃんなどは素直にかわいいと思う。まるっこく、ふわふわしていて、欲をそそる。まさしく、かばわないと、守ってやらなければ、と感じさせるような形状に、動物の赤ちゃんは進化したのだ。そのほうが親や同族に保護されやすい。成長して子孫を残す可能性が高まる。

(でも、白森さんは……?)

 動物の赤ちゃんと白森の間に、どこか共通点があるだろうか。

 丸みについてはなくもないと言えそうだが、何か違う。当然のことながら、毛むくじゃらでもない。

(わっかんない……)

 授業が終わって五分休みになると、そうせいはいたたまれなくなって自分の席を離れ、教室を出た。

 トイレに直行したが、足したい用はなかった。すぐあとにした。

 教室に戻るのは、まずい。

(……まずい……気がする……)

 仕方なく、想星はあてもなく廊下を歩いた。いつの間にか速く歩きすぎていて、すれ違った生徒にぎょっとされ、減速したりしているうちに、五分休みが終わった。慌てて教室に戻ると、もう先生が来ていて、変に目立ってしまった。

 自分の席に向かう途中、想星はしらもりが気になってしょうがなかった。

 しかし、白森を見て、もし目が合ってしまったら。

(僕、動けんくなってしまうかもしらぬい……)

 想星の脳内で言語が崩壊しようとしていた。どこにでもいる普通の高校生的な日常はどこに行ってしまったのか。そもそも、そんなものがどこかにあったのだろうか。想星にはもうわからない。見当もつかない。

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