左右に小麦畑が広がる道を、馬車は進んだ。
日が高くなる頃に、ノックスベリー村の周辺で最も大きな町、州都レジントンに到着した。
レジントンは、円形の広場を中心にして放射状に広がる城下町だ。高台には、レジントン州を治める州公の城があり、レジントンの町を見おろしている。
町中をゆっくりと馬車で進んでいくと、目の前に人だかりができていた。
人だかりのために、道はふさがれている。
肩をすくめて、御者台を降りた。こちらに背を向けている農夫の肩を、軽く叩く。
「ねぇ、ちょっと。みんな、なにしてるの。道、ふさがってて馬車が通れないんだけど」
「いや……通ってもいいんだが。お嬢ちゃん。あんたあれを突っ切る勇気があるか?」
「あれって?」
農夫の脇の下を潜るようにして、アンは人々が見ているものを覗きこんだ。
泥のぬかるみの中に、屈強な男の姿があった。背に弓をくくりつけ、腰には長剣をさげている。革のブーツをはき、毛皮のベストを着ている。狩人だろう。
「こいつ、この性悪め!!」
狩人は声を荒げながら、何度も何度も、泥の固まりを踏みつけている。泥の飛沫があがる。泥の固まりは踏まれるたびに、ギャッと声をあげる。
よく見るとその泥の固まりは、人間の掌ほどの大きさで、人の形をしていた。うつぶせているその背中からは、泥をはじく半透明の薄い羽が一枚生えている。
「あれは、妖精!? なんてひどい!」
アンが小さく悲鳴のような声をあげると、農夫がうなずく。
妖精は、森や草原に住む人間に似た生き物だ。大きさも姿も様々で多くの種類がいるが、背中に二枚の、半透明の羽があるのが特徴だ。
妖精には特殊な能力があり、うまく使役すれば、様々な仕事をさせることができる。
王族や貴族、騎士たちは、目的により、たくさんの妖精を使役していると聞く。
庶民でも中流の家庭には、家事を手伝わせる妖精が一人くらいいるものだ。
ノックスベリー村のジョナスの家にも、掌くらいの大きさの、キャシーという名の妖精がいた。キャシーはジョナスの身の回りの世話をしたり、砂糖菓子の仕込みの手伝いをしていた。
「あの妖精狩人が使役してる、労働妖精だ。自分の片羽を盗んで、逃げようとしたんだよ」
農夫は声をひそめ、妖精狩人をそっと指さした。
妖精狩人の手には、薄い羽が握られていた。泥まみれの妖精の背にある羽と、対になっていた一枚だろう。
妖精を使役するために、使役者は妖精の片方の羽をもぎ取り、身につける。
羽は、妖精の生命力の源だ。羽が体から離れても、妖精は生きていられるという。だが羽が傷つけられると、衰弱して死ぬ。
人間にたとえるならば、羽は心臓だ。誰しも心臓を鷲摑みにされていれば、恐怖におののく。心臓を握る者には、逆らえなくなる。
だから使役者は、片方の羽をもぎ取ることで、妖精を意のままに動かせるのだ。
しかし妖精とて、奴隷でいたいわけはない。使役者の目を盗み、自分の羽を取り戻して逃げようとする者は多い。
「いくら妖精でも、あの仕打ちはひどい」「あの妖精、死ぬぞ」と人々は囁きながらも、だれ一人動かない。
アンはとなりの農夫や、周囲の男たちを見あげた。
「ちょっと、みんな! あんなひどい真似、とめなくていいの!?」
しかし周囲の者は、自信なさそうに視線をそらす。
農夫が弱々しく呟く。
「可哀想だが。妖精狩人は、気性が荒い。仕返しが怖いし……それにあれは、妖精だ……」
「妖精だからって、なに!? ぐずぐずしてたら、あの子死んじゃう。いいわ、わたしが行く!」
アンは農夫を押しのけて、一歩踏み出した。
「おい、お嬢ちゃん。あんたみたいな子供が、やめとけって」
「子供じゃないわ。わたしは十五歳。この国じゃ女の子は、十五歳から成人でしょ。わたしは立派な大人。ちゃんとした大人なのに、なぶり殺される妖精を見殺しにしたなんて、一生自分を恥じるわ。冗談じゃない」
アンはしゃんと背筋を伸ばし、ずんずんと妖精狩人の方へ歩いていく。
妖精狩人は興奮しているのか、アンに気がつかない。妖精をブーツの底に踏みつけたまま、手にした妖精の羽を両手で握る。
「おまえの羽なんぞ、こうしてくれる」
「やめろよ、このやろう! やめろ!!」
妖精はそれでも勇ましく、小さな手足をばたばたと動かして、泥を撥ねあげた。キンキンした、甲高い声で怒鳴る。
しかし妖精狩人の手は容赦なく、羽を引き絞った。
妖精は泥の中で悲鳴をあげる。
「盗っ人妖精なんぞ、殺してやる」
羽を引きちぎろうと、妖精狩人の手に力がこもった瞬間、アンは妖精狩人の背後に立っていた。腰を落として、構えた。
「ちょっと、失礼!!」
声とともに、ドレスの裾がぱっと撥ねる。アンは、妖精狩人の膝裏を片足で強く蹴り飛ばした。アンの得意技、必殺、膝カックン。
油断しきっていた妖精狩人は、がくっと膝が折れる。体の均衡を崩した。口を「お」の形に開いたまま、泥の道に顔から倒れこむ。
野次馬たちがどっと笑うのと同時に、ブーツの底から解放された妖精が、ぴょんと跳ね起きた。アンは男の頭を飛び越えると、彼の手から素早く妖精の羽をもぎ取った。
「てめぇ!!」
妖精狩人が喚きながら、泥まみれの顔をあげる。
アンは軽く飛び退いて、呆然と立ちつくす妖精に、取り戻した羽を差しだした。
「ほら。これ。あなたのでしょう」
はっとしたように、妖精は羽をひったくった。泥にまみれた顔の中で、青い目だけは異様にぎらついて光っている。妖精はアンを見あげると、
「ケッ! 人間に、礼なんか言わないからなっ!!」
吐き捨てるように言うと羽を抱え、野次馬の足もとを駆け抜けた。わっと声をあげて道をあける人々を尻目に、妖精は疾風のような速さで町外れに向かって姿を消した。
アンは肩をすくめる。
「まぁ、ね。わたしも、憎い人間の仲間だもんね」
「どうしてくれる小娘!! 大事な労働妖精を、逃がしやがったな!!」
ごつい顎から泥水をしたたらせ、喚きながら妖精狩人が立ちあがる。
アンは妖精狩人に向きなおり言った。
「だっておじさん、あの妖精を殺すつもりだったんでしょう。それなら、いなくなるのと同じじゃない?」
「なんだと!?」
いきり立つ妖精狩人は、腕をふりあげた。
しかし彼らを取り囲んだ野次馬が、一斉に非難の声をあげる。
「だいの男が、そんな子供に手をあげるのか!?」
「その子の言うとおりだろうが!」
「あんた、ちょっと野蛮すぎるよ!!」
野次馬の非難を受けて、男はひるむ。アンは臆することなく、まっすぐ男を見あげる。
低く呻くと、妖精狩人はあげた手をおろした。
「ありがとう。おじさんが優しい人で良かった。こんな優しいおじさんなら、これからは妖精にも、優しくしてくれるよね。よかった!」
嫌みたらしくにこりと微笑みかけると、妖精狩人は怒っているような笑っているような、なんともいえない表情になった。
アンは「じゃあね」と軽く妖精狩人に挨拶して、やんやと褒めそやす野次馬の間を抜けて馬車の御者台に戻った。憤然と呟く。
「まったく、頭に来る。ひどいことしすぎよ。妖精だからって、なんだっていうのよ」
妖精は姿こそ、少し人間と違う。だが感情と意思を持ち、人語を話す。人間と変わらないとアンは思う。そんな人々を奴隷のように使役することに、良心が痛まない方がどうかしている。
だからエマも、けして妖精を使役しなかった。
妖精を使役しない。それがエマとアンの信条だった。だが───。
アンはふと、暗い表情になる。
「……でも。……わたしもこれから……ひどいことするんだよね……」
アンは再び、馬に鞭をくれて馬車を進めた。
町の中心部に来ると、遊んでいる数人の子供を呼び止めて小銭を渡した。そしてしばらくの間、馬車を見張ってくれるように頼んだ。子供たちは、快く引き受けてくれた。
馬車を降りると、円形広場に向かう。
広場には、テントが不規則に並んでいる。
テントは、布に獣脂を塗ったものだ。独特の脂臭さがある。そのテントの下には、食材や布や銅製品など、様々な品物が並べられている。市場だ。人でごった返している。
つんと酸っぱくて甘い香りで鼻をくすぐるのは、温めた葡萄酒を飲ませるテント。秋から冬にかけての、市場名物だ。
肩が触れあうほど混雑した市場を通り抜けると、人通りの少ない場所に出た。
その一郭は閑散としていた。店はかなりの数出ているが、客が極端に少ない。
近くのテントに目をやる。
蔦を編んだ籠が、テントの横木に吊されていた。籠の中には、掌大の小さな妖精がいる。背には、半透明の羽が一枚。籠はずらりと、五、六個も並ぶ。籠の中に座る小さな妖精は、うつろな目でこちらを見ていた。
その隣のテントには、子犬ほどの大きさの、毛むくじゃらの妖精が三人。首輪で鎖に繫がれていた。背には透明な羽が一枚きり、しおれたようにぶらさがっている。毛むくじゃらの妖精たちは、歯をむき出してアンを威嚇した。
ここは妖精市場だ。
妖精狩人は、森や野原で妖精を狩り、妖精商人に売る。妖精商人はその商品となる妖精の片羽をもぎ取り、適当な値段をつけ、妖精市場で売りさばく。
王都ルイストンへ向かうつもりならば、レジントンを経由すると少し遠回りになる。にもかかわらずこの町に立ち寄ったのは、この町の市場に、妖精市場が併設されていると知っていたからだ。
アンは近くのテントに近寄ると、妖精商人に声をかけた。
「ねぇ。戦士妖精は、売っていないの?」
すると妖精商人は首をふった。
「うちは扱ってねぇよ。そんな危なっかしいもの」
「じゃあこの市場で、戦士妖精を扱っている人を知らない?」
「一軒だけあるぜ。あっちの壁際のテントにいるじいさんが、扱ってるけどな。やめときなお嬢ちゃん。ありゃ、不良品だ」
「そうなの? まあ、とりあえず行ってみる。ありがとう」
礼を言うと、歩き出す。
妖精商人は妖精を、その能力や容姿によって売り分ける。
大半の妖精は労働力として、労働妖精と称して売る。
外見が美しいもの珍しいものは、観賞用として、愛玩妖精と称して売る。
特に凶暴なものは、護衛や用心棒に使えるので、戦士妖精と称して売る。
アンは戦士妖精を買うために、妖精市場に来たのだ。
これからアンは砂糖菓子品評会に参加するために、ルイストンへ行く。
ノックスベリー村やレジントンがある王国西部から、ルイストンへ続く街道は、ブラディ街道と呼ばれる。危険な街道だ。街道沿いには荒れ地が続き、宿場町や村が存在しない。土地が貧しいために、食い詰めたすえに盗賊となる輩も多く、また野獣も多い。
エマとて、旅を続ける道中には避けて通った街道だ。
南に迂回して、安全な街道を選んでルイストンに向かう方法もある。
しかしそれでは、今年の品評会には間に合わない。
アンはどうしても、今年の品評会に間に合いたかった。それはひどく感傷的な理由からだった。自分でもわかっていた。けれど、その感傷的な理由にすがり、なにか目の前に目標をかかげていなければ、足もとがぐらつきそうだった。
──絶対今年、銀砂糖師になる。わたしは、決めたんだから。
ぐっと視線をあげる。
ブラディ街道を行くには、護衛が必要だ。
けれど残念ながら、信頼できる護衛はなかなか見つからないものだ。
そうなると選択肢は、戦士妖精しかない。妖精は、羽を持っている主人に逆らえない。護衛としては、最も信頼できる。
今年、銀砂糖師になりたいという大きな望み。そのためにアンは、「妖精を使役しない」という信条を曲げようとしていた。