第一話(10)
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こうして俺は西地野さんの――いや、詩乃の彼氏になった。呼び名も「海斗くん」へと変わり、誰がどう見ても関係は変化していた。
『姫と使用人』だと思われていた為、校内では阿鼻叫喚が渦巻いた。
一部からの妬みや誹りは当然のように発生。特に、俺についたあだ名がひどかった。『恋愛下剋上野郎』である。
もう泣きたい――と思ったが、隣で微笑む詩乃を見ていれば、すべての悪意は体内に残ることなく、浄化された。天川さんは爆笑していたが、まあいい。彼女のおかげで成功した側面もあるし、なにより詩乃が俺の代わりに怒ってくれたので、むしろプラスだ。
人生は一瞬で変わった。先に悪い部分を挙げたが、良い部分は数えきれないほど存在した。
たとえば、小説を読んでくれた詩乃が褒めてくれたこと。
「海斗くんの小説、とても面白いです! あと、人に見せなくても、小説の公募というものがあるそうですから、そちらに送ってみれば良いのではないのでしょうか。直近で、スニーカー大賞というものがあるようですよ――調べてきたわたしを、褒めてみてもいいですからね……!」
たとえば、中学時代の失恋話を暴露すると、怒ったように励ましてくれた。
「勇気を出して告白した海斗くんを、皆で茶化したということですよね。それは、友達の軽口だとしても酷いです――そういうことは忘れたほうがいいですよ。そ、それに今はわたしがいるんですから、その女の子とのことは思い出さないでください……ね?」
たとえば優等生キャラと名高い詩乃だったが、付き合ってからというもの、甘えんぼキャラへと変身したこと。
「あの! わたし、今日、頑張ったので……! えっと、つまり、頭を――撫でてほしいな、なんて思いまして……あ、いま笑いましたか? 二倍撫ででくれないと許しませんからっ……で、では二倍、どうぞ……頭はこちらです……!」
まるで別人だが、天川さんが言うには本来の詩乃は甘えがちな性格らしい。
「それにしても甘々すぎて、砂糖吐きそうだけどね。ま、幸せならなにより」
天川さんは呆れたように肩を竦めたが、それ以上は何も言わなかった。
朝のルーティンも変わった。
付き合って初めて知ったことが一つある。詩乃の家は父親と二人暮らしなのだが、朝ごはんも夜ごはんも、詩乃は一人で食べているらしい。証券会社に勤めているらしい父親の朝は早く、夜も遅いからだ。
深く考えたわけではないが、俺は提案した。
「なら一緒に食べないか? 詩乃がよければだけど」
「……! 嬉しいですっ」
詩乃は俺の家に通い始めた。それどころか、朝の「おはよう」から夜の「おやすみ」まで一緒だった。
朝は明るいので詩乃一人で俺の家まで訪れる。「起きてください、海斗くん」との声に目を覚ますと、エプロン姿の彼女が微笑んでいる。
ほっぺにチューをして起こしてもらう妄想がいつか現実となることを願っていたら、先に夢の中で実現してしまった。悲しい男の性だ。
洋食が得意な詩乃の朝ご飯を食べると、なんだか力が湧いてくる。
ちなみに天川さんが料理をしたところを見たことはなく、ソファの上で寝転がって本を読むばかりだったが、実は和食の腕前はすさまじく、肉じゃがは母親の味を超えているとか。人は見かけによらないな――と考えていたが、むしろ見かけは完璧だった。
夜は、二人で夕飯を食べた後、詩乃の家まで送っていく。幸いにも俺たちの家は方角こそ違えども、八王子駅を中心に考えると、歩いて行き来できる距離だった。これまでに詩乃の父親に鉢合わせたことはないけれど、もちろん外食の許可は得ているそうだった。
「お父さん、海斗くんに嫉妬してるんですよ?」
嬉しそうに言う詩乃には申し訳なかったけれども、もうしばらくは会わないままで過ごしたい。父親との一騎打ちに勝てるとは思えなかった。だってこんなにカワイイ娘に彼氏がいたら、俺だって嫉妬する。
*
付き合ってから、三か月が経った。
今日の夕食当番は俺だった。
パスタを茹でで、簡単なトマトソースを作っていると――背中に軽い衝撃。
「だーれだ」
誰だも何も、この家には二人しかいないのだが、詩乃の遊びに付き合ってあげないと、ふてくされるので、俺は大根役者に負けず劣らずの演技をした。
「うーん、誰だろうなぁ? ヒントが欲しいかも」
作業の手は止めない。ここ数か月で、俺の料理の腕前はかなり上がっていた。誰かの為に作る意識が芽生えるだけで、料理の腕前はこんなにも上達するらしい。
「ヒントですか。えっと……海斗くんの好きな人です」
「答えじゃん……」
「あ、たしかに……えへへ。じゃあ、これが正解した人へのご褒美です」
腰に回された詩乃の腕に、ぎゅっと力が入る。腰のあたりがめちゃくちゃ柔らかくて、少々焦る。詩乃はどうやらスキンシップが好きみたいだったが、男としては複雑だ。
すでに手はつないだ。
キスまではしていない。
詩乃のことは大切にしたかった。だから、俺は男の欲望に蓋をしていた。
正直――触れてしまえば、幻みたいに消えてしまうような恐怖感もあった。
「ほらほら。調理中は危ないから、離れて」
「おんぶしてもいいですよ?」
「危ないからダメ。詩乃が怪我したら、悲しくなるだろ?」
「はーい。海斗くんを悲しませたくないので、離れますね」
「イイ子」
「頭なででもいいですよ?」
「ご飯の後ね」
「やったぁ」
へにゃ、と笑う詩乃の表情は、付き合う前にも見られなかったものだ。
最近の詩乃はフーディは着用しているものの、フードを被る回数はかなり減っていた。きっと俺と同じ世界に生きているから、不要になったのだろう。
『安藤さん』ではなく『海斗くん』と呼ばれることにも、ようやく慣れてきた。慣れてしまえば、こんなに嬉しいことはない。
夕食を終え、食器を片づけると、二人でソファに座って、映画を見ることが多い。一緒にいられるし、部屋を暗くして、二人で寄り添うのも自然な形になる。
急転直下な恋愛だった。
付き合ってしまえば、詩乃の愛情はとたんに大きくなった。戸惑うほどに、詩乃は俺の懐に飛び込んできてくれた。お互いの足りない部分を補うように、俺たちは時間を共有した。
甘くて、甘くて、甘すぎる毎日。まるでラノベの主人公にでもなった気分だ。読者から『ずっとイチャイチャしてるだけのラノベです』なんて評価を受けた作品みたいな人生を望む。
ソファが揺れた。詩乃の体重が腕に掛かる。嘘みたいに軽いのに、信じられないほど重い。
「海斗くん……好きです」
いつもとは、何かが違っていた。
映画を見て笑うことも、泣くことも、感動することもなかった。
詩乃は何かを期待していたし、俺も一人で緊張していた。
映画はまだまだ続いているというのに、俺と詩乃は見つめ合っていた。テレビの光が、詩乃の横顔を照らす。銀色の髪。薄桃色の唇――緑色の瞳が、消える。
震える手を抑える余裕もなく、俺は詩乃の肩に手を置いた。
どこに目標を定めれば良いのかもわからずに、顔を近づけた。甘い匂いがする。アップルジュースの香り。
「……しちゃいましたね」
詩乃が、小悪魔みたいなことを言う。
でも、顔は真っ赤で、ちぐはぐだった。
もちろんその後、詩乃はフードで顔を隠して――ぼそりと呟いた。
「ずっと一緒にいたいです。だからわたしのこと、ずっと見ていてください……」
そんなこと、こちらからお願いしたいくらいだった。
一言で言えば、幸せだった。
今までの人生の嫌なことがすべて帳消しになるぐらいに完璧な幸福だった。
俺は昨日に逃げず、明日を憂えず、現在の時間を生きた。それぐらいに満たされていた。青空に向かって、両手いっぱいの風船を飛ばすような爽快感を得ていた。
でも。
俺は知らなかったんだ。
風船が破裂するように。
限界まで高まった幸せは、針一つで壊れてしまうということを。
知らなかった。