第一話(11)
*
詩乃と付き合ってから、五か月余り――クリスマスイブがやってきた。
当然、デートの約束はしている。
今日はそれぞれに理由があり、直接、現地での合流となっていた。新宿駅である。混雑してはいるが、初めて訪れる場所ではない。待ち合わせにも問題はないだろう。
バッグの中のクリスマスプレゼントを、手探りで確かめながら、詩乃を待った。
いつもと変わらぬ待ち合わせだというのに、特別な日の為か、ずいぶんと長く待っている気がした。
時計を見る――と、待ち合わせ時刻を五分過ぎていた。
詩乃が時間に遅れることはかなり珍しい。というより初めてのことだった。
昨日も一緒に夕飯を食べて、それで詩乃が「明日は楽しみですね。付き合い始めてから、もうすぐ五か月です」と笑った。「詩乃は出会った頃から何も変わらないよな」と茶化すと、詩乃は「そう言われると思いましたので、明日はイメージチェンジをして、大人っぽい服装する計画を進めていましたっ」とドヤ顔をしていた。
どうやら天川さんにコーディネートしてもらったようだ。宝くじの当選を伝えるように、詩乃は「なんとヒールも履きます。いつもスニーカーのわたしが!」と胸を反らした。
なるほど。着なれない服と靴で遅れているのだろうと、合点がいった。スマホを見るがメッセージもない。急かして、気分を落ち込ませるのも予定に支障が出そうである。もう少し待ってみることにした。
十五分が経過していた。
「おかしい、よな……?」
相手がヒカルなら、笑って見過ごしただろう。あいつの性格はよくわかっているつもりだ。
しかし相手は詩乃である。一分遅れるだけでも必ず連絡を入れる俺の自慢の彼女だ。それが音沙汰もなく十五分。
手に汗がにじんでいた。握りしめたスマートフォンが冷たく感じる。俺たちの間に問題なんてなかった。だから考えられるのは、一つだけだった――詩乃に何かあったのか?
人ごみの中にいると言うのに、世界でたった一人になってしまったかのようだ。指先から体温が奪われていく。
否定と肯定を数秒ごとに繰り返していたら、二十分が経過していた――やはり異常だ。
先ほどからメッセージを投げても既読にならない。
こういうとき、俺という人間の器の狭さが嫌になる。普段から一緒にいることが多い為、電話をかける習慣がすっぽりと抜けていた。
まず落ち着いて電話をかけよう――そう決意した瞬間だった。
スマートフォンが鳴動した。
着信名。『天川綺羅』。文字の羅列。名前と認識するまで数秒。普通ではない展開に、指先が震えた。
着信ボタンをタップ。スマホを耳へ。名前を口にする前に声が聞こえた。
『――安藤くん? そっち新宿だよね? 今から言う病院まで走って!』
「――っ、なんで、もしかして」
呼吸がうまくできない。まるで四百メートル走を走り終えたように苦しい。走ってもないのに、止まりたい。でも、時計はいつまでも進み続けた。
『シノが子供かばって、新宿駅の階段から落ちたみたい! 頭打って、病院運ばれたって!』
広い新宿駅構内。
俺たちはたしかに同じ時刻に同じ場所にいたらしい。
だが出会うことなく、離れ離れになってしまった。
そのときは知る由もなかったが、病院では患者情報が淡々と入力されていたようだった。
西地野詩乃、十六歳。
女性。
駅構内階段で、子供をかばった為、落下(駅員情報の為、不明。現在確認中)。
知人と連絡がつく。父親に繋いでもらえるとのこと。
ドクター対応中、検査オーダーあり。実施。
バイタル異常なし。著変なし。
現在――意識不明。
*
陸上部から離れて、約一年。
久しぶりに走った感覚は、気持ちの良いものではなかった。
どこをどう走ったかは覚えていない。
とにかく、天川さんから教えてもらった病院をスマホで検索し、案内されるがままに走り抜けた。
目的の病院に到着してから――俺は何をしただろうか? わからない。覚えていない。視界がぐらぐらと揺らいで、うまく考えがまとまらないことだけは覚えている。
少なくとも、詩乃本人との面会は叶わなかった。そりゃそうだ。俺はただの他人である。家族でもなんでもない、ただの他人。
時間経過と共に、現実逃避が進む。
そうか、これは嘘なんだ。本当は、天川さんの悪戯で、クリスマスのちょっとしたどっきりイベントで、病院のどこかに元気な詩乃はいて、サンタコスなんかをして『どっきり大成功』とかいう看板を持って現れてくるんじゃないか――看護師が『面会はできません』と否定するたびに、それは妄想で、これが現実なのだと思い知らされる。
『面会はできません』――少なくともそれは、詩乃が病院にいることを示していた。
限界ぎりぎりだった。
倒れる寸前で、帰路についた。
二つだけ、知り得た情報。
一つ目。
おそらく、詩乃は階段で躓いた小学生を咄嗟にかばった。運動靴なら踏ん張れただろう。しかし、低いとはいえ、履き慣れないヒールを履いていた為、バランスをくずしたようだ。そして階段の上から落下した。
二つ目。
詩乃は意識不明のまま運ばれて――今も、意識は戻らないままのようだった。
*
落下事故から数日が経った。
今日は何日の何曜日だっけ――いや、もうそんなことに意味はないのだ。
折よく冬休みに入っていた為、詩乃の凶報は高校の誰にも知られてはいない。できれば何事もないまま三学期を迎え、二年生への期待を胸に、二人で校門をくぐりたい。
病院への見舞いは、毎日行っている。
逆に言えば、それぐらいしかやれることはないのだった。
クリスマスイブ。あんなにもワクワクした中央線車内は、ただひたすらに無味乾燥としていた。流れゆく景色に感想を持つ前に、すべての感情が悲しみに包まれる。
あの日渡せなかったプレゼントは机の上――プリントアウトした自作小説の上に置かれたままだった。
八王子発・新宿行の電車。
並んで座っている天川さんが、俺にだけ聞こえるような声で確認をしてきた。
「大丈夫? 辛かったら、休み休み移動してもいいけど」
天川さんのテンションも、どこか低い。
いつも一緒だった幼馴染が事故で意識不明なのだ。無理もない。
負担は掛けられないと思った。辛いのは俺だけではない。そもそも、付き合いの長い天川さんだってキツいだろうし、家族の気持ちなんて考えなくてもわかる。
俺に必要なのは、周囲に負担をかけないように、笑うことだ。泣くことは許されない。
「いや、平気だよ。早く詩乃に会いたいし」
「……そうだね。じゃあ、休まずに行こうか」
あれ。なんだろう、この感覚……。
ふっと――秒針を見失うような浮遊感を得た。それに身を委ねたのが悪かったのだろうか。海で漂流するみたいに、時間の方向が定まらない。
気が付けば病院の最寄り駅にいた。気が付けば病院のロビーにいた。気が付けば病室の中にいた。記憶の順番がぐちゃぐちゃになる。
笑う、詩乃。
頬を膨らませる、詩乃。
そして――目を覚まさない詩乃。個室のベッドで眠る詩乃は人形みたいだった。呼吸もしてるし、外傷もない。でも、動かない。銀色の髪と桃色の唇。雪花石膏と見まがうほどの白い肌。
彼女は生きている。
でも――目を覚まさない。
病室の前。ちらりと天川さんが俺へと視線を向ける。意図を汲み取ることはできないが、静かに頷いた。
俺はドアに手をかける。
そして願う。
今日はきっと詩乃の目は覚めている。ベッドの上で身を起こした詩乃が、俺に笑いかけてくれる――でも今日まで願い事は叶っていない。
スライドするドア。
外と中の空気が混ざり合う瞬間――俺は思わず叫んだ。
詩乃が起きていたのだ。
「詩乃!」
ベッドの上で不思議そうに部屋を観察しているようだった。
順繰りに巡る視線。
俺の声が届いている感じがしないのは、気のせいだろうか。まるで気に掛ける必要のないラジオの音声を聞くみたいに、詩乃は俺に無関心に見える。
いや、違う。彼女は混乱しているだけだ。
きっと今すぐに俺の胸に飛び込んでくるに違いない。
もう一度、俺の存在を示した。
「目が覚めたんだな……! 良かった……!」
前に進みたいのに足が震えて動かない。すぐ傍に行きたいのに――行きたいのに……なんだ? なぜ俺は前に進まないんだ? 待て。なんだ? 俺は何を感じているんだ?
詩乃がこちらを見る――緑の目が、俺を捉える。宝石のように輝くそれは、しかしなんの感情も宿っていないように見えた。
「シノ! 大丈夫っ?」
ドアの前で立ち尽くす俺の脇を抜けて、天川さんがベッドに駆け寄った。俺はさび付いたブリキのおもちゃみたいにぎくしゃくと、天川さんの後を追う。
――なんだ? この変な感じはなんだ? 俺は詩乃に何を感じているんだ?
目が覚めて嬉しいはずなのだ。先ほどまで感じていた閉塞感は綺麗さっぱりと消えたはずだ。なのに、とてつもない違和感が胸のうちを覆い尽くしている。
「綺羅、ちゃん?」
詩乃は状況をわかっていないようだった。相変わらず不思議そうに周囲を観察していた。天川さんを確認し、俺を見た。前と変わらぬ、綺麗な色の瞳――やはり、なにかがおかしい。
俺を、じっと見ている。不思議そうに、じっと。
緑の瞳が、冷たく見える。
天川さんは気が付かない。
「あ、そうだ。人を呼ばないとね」
異変、異変、異変――ナースコールに手を伸ばした天川さんは気が付いていない。が、その動きは一瞬で硬直した。
詩乃が天川さんに尋ねた。
「あの、綺羅ちゃん、わたしなんでこんなところに? 病院、だよね――あと、この男性はどなただっけ……?」
行動停止。すべての力を思考にそそいだらしい天川さんは、結果、歪な笑みを浮かべた。
「シノ、冗談はやめようよ。こういうときは、さすがのわたしでも笑えない」
やめてくれ、天川さん。今は、今だけは、言及しないでくれ。
その話を、それ以上――進めないでくれ。
「冗談、ってなに? わたしはただ教えてほしいだけで……えっと、ごめんなさい、あの」
詩乃は俺に視線をしっかりと合わせ――一年前、図書室で初めて見せてくれたような微笑みを浮かべた。
「――大変申し訳ないのですが、どなたでしょうか……?」
「……っ?」
言葉が、出ない。
笑えばいいのに笑えず。
泣けばいいのに泣けず。
俺は何を手伝えばいいのかわからない男子高校生みたいに、ただただ天使と女神の前で、顔をひきつらせながら突っ立っているだけだった。
結論。
俺の彼女――西地野詩乃は、記憶喪失となり、俺のことを忘れたようだった。