第一章 突然の訪問者と怒濤の幕開け②


◆◆◆


 夢の中でずっときこえていた声は、なつかしいものだったような気がする。

 いとしげに名を呼び、思い出したように時おり鼻をすすっていた。ぶつぶつと愚痴ぐちらしきものを聞かされたような覚えもある。

 あれは一体、だれだったのだろう?

 ぼんやりした意識のまま、ミレーユは天井てんじょうへ目をむけた。そしていぶかしげにまゆをよせた。

 毎晩まいばんねている寝台には、あんな細かい刺繡ししゅうやレースをあしらった天蓋てんがいはついていない。そういえばなんだか周りがやけにふかふかしている。

(──えっ!?)

 ミレーユは飛び起きた。その拍子ひょうしにすこし眩暈めまいがしたが、それも吹き飛ぶくらいの驚愕きょうがくが彼女をおそった。

「なにこれ……!」

 通常の五倍はあろうかという広々とした寝台の上に、ミレーユはぽつんと半身を起こしていた。しつらえられた数々の調度品も、いかにも高級そうな絨毯じゅうたんやカーテンも、まったく見覚えがない。まるでどこか別の世界にまぎれこんだかのようだ。

 見れば、着ている寝間着ねまきは見たこともないきぬのものである。つましいパン屋の娘が、よそ行きにすら持っていない絹の服を寝間着として使用するわけがない。

(一体、どうなってんの?)

 なか呆然ぼうぜんとしたまま、けだるい頭を片手で支えながらミレーユはもそもそと寝台をぬけだした。とりあえず、なんとかしてこの不可思議ふかしぎ状況じょうきょう把握はあくしなくては──。

「気がつきました?」

「きゃあああッ」

 急に背後で声がしてミレーユは飛び上がった。よもや寝台の後方にも部屋が続いていたとは、そしてそこに人がいようとは思ってもみなかったのだ。

「大丈夫ですかっ?」

 飛び上がりついでに眩暈を起こしてよろけたところを、誰かがあわてて支えてくれる。ミレーユはお礼を言おうと顔をあげたが、相手を見たとたん、眩暈も頭痛も吹き飛んだ。

 茶色のかみ鳶色とびいろひとみのさわやかな男前が心配そうにのぞきこんでいる。店先でいきなり薬をのませてきた男──リヒャルトなんとかという人攫ひとさらいだ。

 そう思い出した瞬間しゅんかん、かつて五番街区ごばんがいく鉄拳てっけん女王と呼ばれたミレーユの右手が火をふいた。

「……っの、人でなし─────っっっ!!」

 ばちーん、とすさまじい音がひびきわたる。見事に平手打ちをくらったリヒャルトが、たたらをんで後退あとずさった。

「あんたねえっ、ちょっと顔がいいからって、やっていいことと悪いことがあるでしょうが! 女の子に薬をのませて攫ってくるなんて、ずかしいと思わないの!? サイッッッテ───ねっっ!!」

 顔の良し悪しはこのさい関係がないのだが、人攫いだとも知らずにときめいてしまった自分に腹がたってしょうがない。ミレーユはいかりのあまり小刻こきざみにふるえながら彼をにらみつけた。

 よほど予想外だったのか、リヒャルトはほおをおさえたまま目を丸くしてほうけている。あどけないほどの驚きが浮かんだその顔を見ているうち、どうしようもなく泣けてきてしまった。

「ひどいじゃない…………うちに帰してよおぉぉ」

「あ……、あの」

「あたしなんか娼館しょうかんに売ったっていい値段はつかないわよぉぉ」

「──は?」

「自分でいうのもなんだけど気はかないし口は悪いしガサツだしぃぃ。考え直したほうがいいわよおぉぉう」

 おいおいと泣き伏すミレーユに面食めんくらったのかリヒャルトはだまり込んだが、やがてなだめるように口をひらいた。

誤解ごかいですよ。ここはそういう場所じゃありません」

「じゃあどういう場所よおぉ。どこなのここはっ」

「ベルンハルトのモーリッツ城です」

「……ベルンハルト?」

 フレッドの養子先のせいが、なぜここで出てくる。

 思わず泣きやんで顔をあげると、リヒャルトは少し表情をやわらげて言った。

「アルテマリスの西の国境こっきょうにある公爵領こうしゃくりょうですよ。サンジェルヴェから東に馬車で一日半ほどいったところです」

「なんでそんなところにいるの。アルテマリスの娼館に売りつけるつもりなの?」

「……その、娼館ってところから離れていただきたいんですが」

「だってそうなんでしょ! おじいちゃんに話をつけてあるんだって言ってたじゃない。お金をんで、あたしを買ったんでしょ。売られた若いむすめがどうなるかくらい、あたしだって知ってるわよっ!」

 つ当たり気味にミレーユはわめいた。この男を張り倒してでもげてやりたかったが、祖父そふ承知しょうちのうえで攫われてきたのなら自分には帰る場所がない。うらめしいというよりも腹立たしい気持ちのほうがはるかに強かった。

「うちがそんなにお金に困ってただなんて……。でもだからってフツー大事な看板娘かんばんむすめを売っぱらったりする!? 信っじらんない! これからだれが店番するのよあの店!」

「…………いや、あのですね」

「いいわよもう、わかったわよ。やればいいんでしょやれば! けどねえ、言っときますけど、あたしまるきり何の経験もありませんからね。自慢じまんじゃないけどひたすら健全で清く正しい身体からだなんだから。商品として店に出したいんだったら、責任もって業務指導しどうしてよね!」

 なかばやけくそでかなりずかしいことを口走るミレーユに、リヒャルトは圧倒あっとうされたように絶句ぜっくした。すでに微笑びしょうはひきつり、固まっている。

「いいわ。こうなったら、この世界で頂点をきわめてやる」

 早くも気持ちを切りかえたミレーユが重々しく決意をのべたときだった。

 廊下ろうかのほうからばたばたとさわがしい足音が聞こえてきたと思ったら、いきなり勢いよくとびらがひらいてだれかが飛び込んできた。

「ミレーユ!」

 なれなれしく名を呼ばれ、その尋常じんじょうでない声音こわねにもぎょっとして、ミレーユは彼を見た。そして、奇妙きみょうな感覚をおぼえて当惑とうわくした。

(──あれ? この人、どこかで……)

 三十をすこし過ぎたくらいの年頃の男性だった。よく言えば繊細せんさいな、悪く言うと少し神経質そうな顔立ちの紳士しんし。見るからに裕福な育ちをしたであろうと思える身なりと雰囲気ふんいきをしている。下町生まれのミレーユとはえんのない人種のはずだが、なぜか記憶きおくの底にひっかかるものがあった。

 走ってきたのか息を切らし、ほおをうっすら赤らめて立ちすくんでいる彼は、たじろぐミレーユをじっと凝視ぎょうししている。が、やがて感極かんきわまったように涙目になるといきなりきついてきた。

「ミレーユ!」

「きゃあああッ! なにっ、だれよあんたっ、人攫いの親玉!?」

「お父さんだよ、ミレーユ!!」

「………………はい?」

 ミレーユは目をぱちくりさせると、初対面の若い娘に抱きついて涙にむせぶ男をしげしげと見つめた。


◆◆◆


 リゼランド王国とアルテマリス王国に隣接りんせつする、シアラン公国。

 父はその国の貿易商ぼうえきしょうの四男ぼうで、仕事でサンジェルヴェをおとずれた際、母ジュリアと劇的に出会って恋におちた。運悪く海難事故かいなんじこにまきこまれてくなったとき、まだ十九か二十歳はたちくらいの若さだったという。ミレーユとフレッドが生まれる半年前のことだ。

 とすると、目の前で鼻をぐすぐすいわせているこの男は、一体何者なのだろうか。

「だから、きみの父親なんだよ。正真正銘しょうしんしょうめい、きみとフレッドの父親だ」

 うるんだ瞳でうったえる男に困惑こんわくして、ミレーユは黙り込んでいた。

 うさんくさいという思いはぬぐいきれない。けれどもたしかに、初対面のはずの彼になぜか見覚えがあるのだ。

 金の髪に青灰色せいかいしょくの瞳の彼は、まるで大人おとなになったフレッドが現れたのかと思ったほどに雰囲気も顔立ちもよく似ている。

(それに……)

 家の物置の奥で紙と布に幾重いくえにもくるまれていた肖像画しょうぞうが──。

 子どもの頃、フレッドとふたりで見つけたそれには、金髪で青灰色の瞳をした青年が描かれていた。ずっと昔に亡くなった父が結婚前の母に贈ったものだと、こっそり祖父が教えてくれたことがある。その肖像画の父と目の前の紳士は、怖いくらいにそっくりなのだ。

 しかし急に「お父さんだよ」などと言われてもすぐに信じられるわけがない。十六年間ずっと、死んだときかされてきたのだから。

「……あたしとフレッドのパパは、エドワード・ソールフィールズってひとよ。シアラン人で……あたしたちが生まれる前に死んだってママは言ってたわ」

 ミレーユがそう言うと、男の目にさらに涙がもりあがった。

「ジュリアはきみにそう話していたんだね。すまなかったね、ミレーユ。私がうそをついたばっかりに、きみを複雑な立場にさせてしまった」

「噓……って、どういうこと?」

「すべてを話すよ、ミレーユ」

 三十すぎの男盛おとこざかりでそこそこの美男だというのに、彼はさっきから泣きっぱなしである。涙もろい人らしい。

「私のほんとうの名はエドゥアルトというんだ。生まれもそだちも生粋きっすいのアルテマリス人で、今はベルンハルト公爵こうしゃくと呼ばれている」

「公爵!?」

 思わず声が裏返る。貴族の中でも最上の爵位だ。しかもよほどのことがないかぎり王族出身者以外には与えられないと聞く。

 エドゥアルトという涙もろい紳士は軽く頭をふった。

「私自身は大した才もない平凡へいぼんな男だよ。ただ、運良くというか、アルテマリス国王家の血をひいているから、身分や暮らしぶりには恵まれているけれど」

(こっ……国王家の親戚しんせき!?)

 文句のつけようがない超名門ではないか。下町育ちにとってはまさに雲の上の世界だ。

「じゃあおじさんは、今の国王陛下へいかともお知り合いってわけ……?」

 驚きのあまり一瞬気を失いつつ、我に返っておそるおそる言うと、エドゥアルトの瞳にぶわっと涙があふれた。

「おじさんだなんて、きみにそんな他人行儀ぎょうぎな呼び方をされるくらいなら死んだほうがましだっ!」

「あ、ご、ごめんなさい。じゃあ、えっと、エドゥアルトさん」

「パパと呼んでくれないのかい!?」

「うっ……。わ、わかったわよ。で、どうなのよ、パパ?」

 半ば脅迫的きょうはくてきな要求をのんだミレーユに満足したのか、エドゥアルトは絹のハンカチで涙をぬぐった。

「もちろん存じ上げているよ。ハインリッヒ四世国王陛下は、おそれ多くも私の兄上であられる。母は違うけれどね」

「国王様の弟!?……ってことは、パパって前の王様の王子様……?」

「そうだよ。先代のルートヴィッヒ六世陛下は私の父上──きみにとってはおじいさまにあたる御方おかただ」

 こともなげにエドゥアルトは言ったが、聞いた方は全身から血の気が引いた。

「いや─────っっっ!!」

「ミ、ミレーユ?」

「ありえない!! いったい何をどうやったら王子様とパン屋の娘が恋に落ちるっていうのよ!? おとぎ話じゃあるまいし、そんな甘っちょろい話が現実に転がってるわけないじゃない! ていうか、じゃああたしの商才はいったい誰からの遺伝いでんなわけ? まさか、最初からそんなもの持ちあわせてなかったっていうの……!? いやああああ────!!」

 あまりの衝撃的しょうげきてき事実にミレーユは正気を失いかけた。父の素質そしつを受けいでいると思っていたからこそ、なかなかの出ない『めざせ頂点計画』にも邁進まいしんしてこられたというのに。

 商人ではなかったどころか、一国の王子が自分の父親?──そんなばかな!

 突然蒼い顔でわめきだした娘をエドゥアルトは目を見開いて見つめていたが、やがてその表情をいとおしそうにゆるませた。

「……そうしていると、ジュリアによく似ているね。元気のいいところもそっくりだ」

 なつかしさをびた声がしみじみとつぶやく。

 そのまなざしにミレーユはどきりとした。知るはずのない父親のあたたかみと進行形の恋情、その両方が彼の瞳に浮かんでいたからだ。

 青年のような表情で、エドゥアルトは遠い目をした。

「初めて会ったとき彼女はまだ十五歳で……私は十七だった。きみのお母さんはね、ミレーユ。美人で活発で、男たちにとても人気があったんだ。かくいう私も、はじめて会ったとき顔面にリンゴをなげつけられて、その瞬間彼女のとりこになってしまった」

「リンゴ……」

 どういう出会い方をしたものか……。

「グレゴールの森を知っているかい?」

「え? ええ、サンジェルヴェ郊外こうがい別荘地べっそうちでしょ」

「私とジュリアはそこで出会ったんだよ」

 ほんのり頰をそめる父の心境が理解できないミレーユに、エドゥアルトはぽつりぽつりと語り始めた。

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