昼の三時をまわるころ。食料品の商店がたちならぶシジスモン五番街区の商店主らは、それぞれに短い憩いのときをもうけるのを常としていた。
パン屋『オールセン』も例外ではない。客足が途切れたのを見計らって母ジュリアは夕食の買い出しにでかけ、パン職人の祖父ダニエルは奥で軽食をとる。
その間、ひとけのない店先を任されるのは、自他共に認める看板娘のミレーユである。今日もいつもと同じく店番を仰せつかった彼女は、それまでの作業をいったんやめて、届けられたばかりの郵便物を検分していた。
「──手紙かね、ミレーユ」
店とは通路でつながった作業場から、ダニエルが顔をのぞかせた。ミレーユは一瞬間をおいて、肩をすくめながらうなずく。
「うん。おじいちゃん宛てにピエールさんから。それと、ママ宛てにシェリーおばさんから」
「ほかは?」
「それだけよ」
ダニエルは軽く笑い声をあげた。
「なるほど。今日もフレッドからはこなかったか。それでそんなに仏頂面をしているんだね」
ずばり言い当てられてミレーユはむくれた。ふたつに分けて長く編みこんだ髪のふさをいじりながら、ぶつぶつとこぼす。
「もう二ヶ月よ。こんなに返事がこないなんて、何やってんのかしら、あの子」
「いろいろ忙しいんだろうさ。そう言わずに気長に待っておやり」
なだめるようにそう言うと、ダニエルは二通の手紙をうけとって奥へと入っていった。
ミレーユはひとつため息をついて、ひらいていた帳面に目線を落とした。この時間帯、店番かたわらこの帳面とにらめっこしては、ああでもないこうでもないと一人悶々と策を練るのが彼女の日課なのである。
「──ねえ、もう四時の鐘は鳴った!?」
庶民の娘に似つかわしくない、こじゃれたペンを走らせていると、奥から今度はジュリアの声が飛んできた。
半端もののパンをくわえ、まくっていた袖口を手早く直しながら出てきた母に、ミレーユは難しい顔のまま目線もあげずに答えた。
「まだ三時のが鳴ったばかりよ」
「あらそう……なに、またやってんの?」
一心不乱になにやら書きつけている娘を見て、ジュリアはあきれたような声をあげた。ひょいと手をのばして帳面をとりあげる。
「『打倒ブランシール、サンジェルヴェ頂点への道』……。ったく、こんな色気のないことばっかり毎日毎日よくもあきずに考えられるわねぇ。そんなんじゃますます婚期が遠のくわよ」
「な……悪かったわね、もてなくて!」
恋人いない歴十六年の乙女心をぐっさりえぐられ、ミレーユはいたく傷ついた。帳面を取り返すと、憤然と言い返す。
「もう、邪魔しないでよ。つぎの新商品の企画でいそがしいんだから」
「新商品って……まだやるつもり? あの絶不評だった企画……」
「あたりまえでしょ。ありきたりなことばっかりしてたって頂点に立てるわけないじゃない。斬新なものをどんどん出して、あたしたちがシジスモンにあらたな時代をつくるのよ!」
ミレーユは拳を固め、熱く言い放った。なにしろ家業の存続の危機、ひいては明日の食糧事情をも左右する大問題なのである。
五番街区の入り口にあたらしく出来たパン屋『ブランシール』は、こざっぱりとした店構えと隣国シアランで修業したという主人が焼く異国風のパンが売りで、ものめずらしさもあってか大層な盛況だときく。
開店当初は気のないふりをしていたミレーユだったが、友人からその情報をきくといてもたってもいられず、こっそり敵情視察におもむいた。そして噂にたがわぬ繁盛ぶりを目にし、その場で固く誓いをたてた。
(なあぁにがブランシールよ、気取った名前つけちゃってさ。あんないけ好かない店に負けるもんですか。シジスモン一のパン屋は我が『オールセン』だってこと、目にもの見せてやるわ!)
負けず嫌いの性格に火をつけられたあの日から約半年。年頃の娘らしさも結婚願望もかなぐり捨て、売り上げ向上と話題性をもとめて新作パンの試作と宣伝に奔走し、どうにも目立たない店を改装するべく資金繰りのため日々小銭貯金にはげんできたというのに……。
「べつに今のままでいいと思うけど。売り上げは大して変わってないんだし」
興味なしという顔でぼやくジュリアに、ミレーユは深々とため息をついた。
まったく嘆かわしい。文化と芸術がつどう都サンジェルヴェにあり、商業激戦区でも知られるシジスモンで五代続いた老舗『オールセン』。その次代を担う職人とは思えない発言だ。
「いい、ママ。これは職人として、そして商人としての矜持の問題なの。このシジスモンで一番のパン屋になるってことは、すなわちサンジェルヴェ一のパン屋になるってことよ。すばらしいことじゃない。そうなったらきっと、遠くからわざわざうちのパンを買いにくるようなお客さんだって出てくるわ。職人冥利につきると思わない? おじいちゃんとママが本気になればそれも夢じゃないっていうのに。まったく、どうしてそう欲がないのよ。ふたりがそんなだから、あたしの商才も宝のもちぐされじゃないの」
「商才……って……」
「うちを頂点に押し上げるためなら、あたしはどんな努力も惜しまないわよ。夕食抜きにも耐えてみせるし、ルミナール通りで試作品の宣伝でも呼び込みでも何だってやってやるわ。──ほら、見てよ。つぎはちょっと趣向を変えて、野菜スープ入りのパンを作ってみようかと思うの。これだったらいちいちスープを作る必要もないし、手軽に食事を済ませられるでしょ。とりあえず最初は蕪あたりで試してみようかと思うんだけど、どう?」
大まじめな顔で企画書を見せる娘に、今度はジュリアがやれやれといった表情でこめかみを押さえた。
家業を盛りたてるのに熱心なのは喜ばしいことだが、そのやる気がちがう方向へ向いているうえに空回り気味なのが惜しまれる。しかも最初に蕪をもってくるあたり、センスのなさは否めない。
「……気の済むまでやんなさい。ただし、おじいちゃんの邪魔はしないようにね。それと、試作品を配るときは、最低でも人間が食べられるものを作りなさいよ」
「失礼ねえ、わかってるわよ」
ミレーユはむっとして答えた。その表情から察するに、岩のような硬度だったり匂いを嗅いだとたん涙が滝のように流れ出たりする殺人的な代物を作りだしてきた過去は、あまり自覚していないらしい。
と、ジュリアが、はたと我に返ったようにまばたきした。
「いけない、しゃべってるひまないんだった。四時からまた配達あるのよ」
「あ、あたしが行く! どこ?」
ミレーユは即座に帳面を閉じると、きらりと瞳を光らせた。ジュリアのつくるジャムはこの界隈では評判だ。本人いわく趣味の延長のようなものだから特に宣伝して売っているわけではないが、人づてに噂が広まって今ではシジスモン中から注文がくる。おかげでミレーユの午前中の時間はほとんどが配達に費やされることになるのだが、これも売り上げ向上のため、頂点への道だと思えば、小指の先っぽほども苦にはならない。
「ええっと、十二番街の……。ああ、ここなら前にも行ったことあるし、今から出れば余裕で四時に間に合うわね。これはあたしに任せて、ママはゆっくり買い物してきたらいいわ」
すばやく注文書の束をめくるミレーユの頭を、ジュリアはぽんとはたいた。
「年寄りあつかいすんじゃないの。あんたは店番。たのんだわよ」
「むぐ」
ついでにかじりかけのパンを娘の口に突っ込んでやり、さっさと店の扉を開ける。出て行こうとして思い出したように振り返った。
「そうだ、おじいちゃんにお客さんがくるかもしれないんだって。奥でやすんでるから、来たら知らせてあげて」
「……む……いってらっしゃい」
娘の言葉を最後まで聞くことなく、ジュリアは颯爽と扉をしめて行ってしまった。
母のはつらつとした後ろ姿を見送って、ミレーユは思わずため息をついた。誰に確かめずとも、人一倍働き者だということはわかっている。忙しく立ち働く母を、子どものころから毎日のように見てきたのだ。だから、欲のないその性格がもどかしい。
(もっとおいしいもの食べたり遊びにいったりすればいいのに……。それもこれも、うちがしがないパン屋だから……)
ミレーユはぐっと拳を握った。
(待っててね、ママ、おじいちゃん。あたしは絶対に『オールセン』をシジスモン一のパン屋にしてみせるわ。パパからもらったこの商才で!)
心の中でいつもの決意を熱く言い放つと、ミレーユはふたたびペンをとった。
五番街区はもちろんのこと、他の街にも同業者はたくさんいる。母と昔なじみというおじさんたちはミレーユをかわいがってくれるが、頂点にたつためには心を鬼にしなければならない。情けは無用だ。
(今のままでいいってふたりとも言ってるけど、商売をやるからには上を目指さなきゃ。シジスモンを制覇したら、次は市内に支店を出すわ。それから国中に『オールセン』を出店して、最終的にはラグンヒルドみたいな大実業家になるのよ。それから……)
かぎりない未来を妄想して頰をゆるませながら、それを書きつけようと目線を落とす。が、にぎっていたペンを見ると、急に現実にひきもどされた。
少しくすんだ深い青。金の飾り彫りがほどこされたペンは、この世にふたつしかない。
もう一本の持ち主で、これをミレーユに贈ってくれたひと。彼が暮らす国では意中の相手に瞳と同じ色の物を贈る風習があるのだと、冗談なのか本気なのかわからない顔でおしえてくれた──。
(……だめだ。浮かれてる場合じゃないんだったわ)
ミレーユの家族は祖父と母のみである。異国の貿易商だったという父は、ミレーユがまだ母のお腹にいたときに事故で亡くなったときいている。
そしてもうひとり。母からは金茶色の髪、亡き父からは青灰色の瞳という、同じ特徴を受け継いだ双子の兄がいる。
名をフレデリックという彼は、六歳の時に隣国アルテマリスのとある名士の養子になった。
といってもそこで兄妹の縁は断絶したわけではなくむしろ活発に交流していて、手紙のやりとりはずっと続けているし、膨大なお土産とともに遊びにくることも度々あった。馬車で六日以上かかる距離もあってそう頻繁に会えるわけではないが、そのぶん文通が大切な交流手段として常に役目を果たしてくれている。ぼくに手紙を書いてねと言って贈られた青いペンは、ミレーユの一番の宝物だ。
その彼が最後に手紙をくれたのは──報われない恋を嘆くあまり、神を呪うだの悪魔に魂を売るだのと引き攣れた文字をつづり、狂ってしまう、助けてくれという悲痛な叫びとともに寄越したのは二ヶ月ほど前のことである。
それを読んだときのショックは大変なものだった。頭の中が真っ白になり、食事はのどを通らず、母に挙動不審だとはっきり指摘されたくらいだ。
動揺したのも無理はない。ミレーユの知る兄は、どこかのネジがゆるんでいるのではと時々心配になるほどにおそろしく楽天的な性格で、けっして弱音や愚痴などの類をこぼさない人だった。異常なくらいに自信家で陽気で、彼が落ち込んでいるところなど見たことがない。──それなのに。
(やっぱり、養子先で苦労してるんだわ!)
最初に思ったのはそれである。
養子に行った直後に彼は髪を金色に染めた。「おとうさまが金髪だから」と説明されたとき、無理やり染めさせられたのではないかと、幼いながらに憤ったことをおぼえている。以来、彼の養父にはあまり良い印象を持っていないのだ。
そしていま、恋に傷ついた彼は妹であるミレーユに助けをもとめてきた。他に頼れる人は誰もいない、ひとりぼっちなのだと。
養子にいって十年がたつのに、彼の新しい家族は、彼の支えにはなってくれなかったのだ。
(かわいそうに──!)
いつも明るい兄を知っているだけに、余計に胸が痛んだ。いっそ迎えにいってやろうかと思ったが、そんなことをしたら祖父と母に知られてしまう。それだけは何としても避けねばならなかった。ふたりに心配かけるようなことは絶対にしない、そう兄と固く約束していたからだ。
ミレーユは迷ったすえ、手紙の件を秘すことに決めた。その代わりめずらしく弱気になっている兄にハッパをかけてやろうと思い、「そんなに好きな相手をあきらめちゃうなんて、それでも男なの? しっかりしなさいよ」といった内容の返事をしたためて早々に送ったのだが──それきりなしのつぶてなのである。
返事がくるのにこうも時間の空くことなどこれまではなかったことだ。しかもあんな手紙をもらった後である。おかげでこの二ヶ月の間、悪いほうに想像力をたくましくしては蒼ざめてみたりうろたえたりで、少しも心の休まるときがなかった。
(ほんとに……フレッドったら、いったいどうしたんだろ……)
せめて無事であるということだけでもわかれば、すこしは安心できるのに。
そう思ったとき、店の扉が開いて入り口のベルが軽やかに鳴った。
「あ、いらっしゃい、ませ……」
ミレーユはとっさに笑顔を向けたが、訪れた客を見るなり言葉は尻すぼみになった。
軽くかがむようにして入り口をくぐった長身の客は、冬物らしい重ったるい外套を羽織っていた。頭にはつばの広い、これまた暗い色の帽子をかぶっている。春の盛りをむかえようというこの時季、花の都サンジェルヴェを歩くにしては少しばかり無粋ないでたちといえた。
(旅人かしら。めずらしい……)
思わずまじまじと見つめてしまう。五番街区は宿場街から離れているから、旅人が立ち寄ることはめったにない。だから余計に異質に思えたのかもしれない。
そういえば祖父に客がくるということだったが、この人のことだろうか、と思ったとき、
「失礼──」
意外に若い声で旅人が言った。
「オールセン様のお宅は、こちらですか」
帽子をとり、軽く頭をふってこちらを見る。ミレーユはぽかんと口を開けた。
旅人は、身なりの野暮ったさと結びつかない、端整であかぬけた顔立ちをしていた。
明るい綺麗な茶色の髪は長すぎず短かすぎず、品の良い清潔感がある。鳶色の瞳は優しげで、ミレーユが知る誰よりも穏やかなまなざしをしていた。年の頃はおそらく二十歳前後だろうが、静かで落ちついた雰囲気をまとっている。
「……あの?」
ふしぎそうな顔で見つめ返され、つい見惚れてしまっていたミレーユははっと我に返った。
「ええ、そう、オールセンはうちです。どちらさまですか?」
赤面しながらいそいで答えると、彼は目元をなごませて微笑んだ。
「あなたがミレーユさんですね。たしかにフレッドとそっくりだな」
声には親しみがあふれている。ミレーユが目を丸くすると、彼は礼儀正しく名乗りをあげた。
「申し遅れました。ベルンハルト家の使いの者で、リヒャルト・ラドフォードといいます」
ベルンハルトといえばフレッドの養子先だ。使者だという彼の名前もアルテマリス風だし間違いないとは思うが、その家の使いが訪ねてくるなど初めてのことである。
ミレーユはさらに驚きながらも不安になった。フレッドに何かよからぬことがあったのかと思ったのだ。
しかし彼が次に発した言葉は予想外のものだった。
「あなたをお迎えにまいりました。ミレーユさん」
「……あたし?」
「大変申しわけありませんが、至急アルテマリスへ来ていただきたいのです。馬車を待たせてありますから、どうぞ」
爽やかにうながされミレーユは面食らった。
フレッドの養子先の使者がなぜ自分を迎えにくるのか。わけがわからず、思わず後退る。
「あの、ちょっと待って。奥におじいちゃんがいますから、呼んで──」
「いいえ」
思いもかけないすばやさで腕をつかまれた。ぎょっとして見上げると、リヒャルトというその青年はおだやかな口調で、しかしきっぱりと言った。
「ダニエルさんにはもうお話は通っていますから、ご心配なく」
「……」
ミレーユは彼を見上げたまま、ごくりとつばをのんだ。
(話って……一体なんのこと……?)
ベルンハルトの使者が、祖父に何の話をしたというのだろうか。そして自分をどこに連れて行くつもりなのか。
──そもそも彼は、本当にベルンハルトの使者なのか?
「おじいちゃん!」
急に怖くなってミレーユは叫んだ。
店と直結した作業場にいる祖父にも、当然このやりとりは聞こえているはずだ。それなのにちらりとも気配すらみせない。奥は奇妙に静まり返っている。
「おじいちゃんってば! ねえ──」
しかし叫びは途中でとぎれた。いきなり腕を引き寄せられたのだ。
ひっと息をのみ、ミレーユは恐怖にひきつって身を竦める。それを見たリヒャルトはためらいを顔にうかべたが、やがて思い切ったように片手を自分の胸元に突っ込んだ。
「……しょうがない。絶対に連れて来いと厳命が下っているので」
言うが早いか、ミレーユの肩をがっしりつかんで逃げられないよう後ろの壁におしつけ、取り出した小瓶の蓋を指ではじいて開ける。
「非礼の責めは、後でいくらでも受けますから」
そのあざやかな動きにとっさに反応できず、ミレーユはぎょっとして間近に迫った彼の顔を見上げた。鳶色の瞳がやけに真剣に見つめ返してきて、心臓が飛び跳ねる。
「ちょっ……なにすん……」
「口、開けて」
「くち?」
思わず訊き返してしまうと、リヒャルトはかすかに吐息まじりの笑みをこぼした。
「かわいい唇ですね」
「……は……?」
うぶな小娘の平常心を吹っ飛ばすには充分なせりふだった。みるみる真っ赤になって硬直するミレーユの口に、リヒャルトはいとも簡単に小瓶をおしあてて中身を流し込んだ。
「─────ッ!!」
流れ込んできた甘酸っぱい液体を反射的に飲み込んでしまい、ミレーユは悲鳴をあげて飛び上がった。
「いやああぁっ!! なにこれっ、毒!? なに飲ませたのよおおぅ!」
「大丈夫。ただの眠り薬です」
「眠り薬!?」
「抜群の即効性が謳い文句の、アルテマリスの魔女お手製のものです。副作用はないので安心してください」
「な……」
いきなり薬を盛っておいて、その爽やかさはいったい何なのだ。
ミレーユは呆然とリヒャルトを見上げる。ふと、その優しげな微笑が霞んだような気がした。
(──え? ちょっと。うそ……!)
ぐらりと大きく視界が揺れる。立っていられないほどの眩暈におそわれ、たまらずふらつく。
(即効性にもほどがあるでしょーっっ!?)
そう心の中で絶叫したのを最後に、ミレーユの意識はことんと闇の中に落ちた。