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太古の昔、混沌の海に一頭の大亀がいた。それは幾億の年月を経てやがて朽ち、広大な大地となった。世界唯一の大陸、星霜大陸である。
いつからか世界は、天界、人界、冥界の三つに分かれていた。
天の玉皇、地の玉帝の双子同一神が神仙を束ね、大陸四方の海を東西南北の四海龍王が治める『天界』。死者が赴く国でありながら地上と同じ官僚政治の機構を整え、その頂点に閻王をいただく『冥界』。そして双方の狭間にある『人界』だ。三つの世界は、時折交差しながら存在している。
人界には、古代より六つの大国があった。
天帝が遣わした六人の天女に守護された国々は、朝を変えつつ脈々と現代に継がれている。天帝の象徴である蓮花になぞらえて六蓮天女と呼ばれる彼女らに守られた現在の六国は、朧、煌、汀、采、璉、坦。周辺の小国と区別して、これを六雄と呼ぶ。
六雄の一、煌は、六百年の昔、太祖が暴虐な前朝の皇帝を倒して建てた国である。言い伝えによれば、太祖は龍の血を引く碧眼の娘で、龍神の篤い加護を得ていたという。以来、煌朝では碧眼の持ち主だけが玉座にのぼることを許された。つまりは碧眼を持つ者だけが皇太子に、そして皇帝になれるのである。
それを破る者があると、煌はたちまちに龍神の加護を失うといわれるが、定かではない。
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煌国の都、桃霞。
その名のごとく、春になれば都中いたるところに植えられた桃の花が咲き乱れ、霞がかって見えるという、花を愛した初代皇帝が命名した美しい城市である。
その季節が間もなく都に訪れようとしている、あるのどかな午後。結蓮は宮城の東にある東宮府へと向かっていた。
大事に抱えた包みを見下ろし、聡明な主君を想って感服のため息をつく。
(三翠同にある菓子屋の新作って、これでよかったのかしら。市井の人々の流行までご存じだなんて、さすがは太子殿下だわ)
久々の登城理由が主君から「何某の菓子を買ってまいれ」と命令が出たためというのもまた誇らしい。
カチャ、カチャ、と歩くたびに鎧の奏でる音がする。武官姿になるのも久しぶりだ。着飾らされて屋敷に閉じこめられていた時とは比べものにならない身軽さで、颯爽と石畳を歩く。
朝廷の各官府は石畳の路によって繫がっており、官府ごとに見事な庭園が備わっているのが煌国皇城の特徴だ。東宮府のある内朝に入る門まで来ると、結蓮は思わず足を止めた。
そこに広がる桃花園のまだ固い蕾を見て、自然と唇がほころぶ。
(よかった……。なんとか花の季節の前に復帰できたみたい)
桃霞生まれの者にとって、この季節は特別なものだった。
花が満開になる頃、都では各地で祭りが行われる。月を友に夜の桃花を楽しむもよし、のどかな陽射しの下で大勢の酒盛りを開くもよし。過ぎゆく春を思い思いに愛でる、桃霞の人々にとっては欠かせない行事だ。登城の折、にぎやかな都がいつも以上に浮かれているように思えたのはそのせいに違いない。
(……でも今年も、屋敷の桃花を見るだけで終わってしまいそうね)
なんとなく残念な思いを抱きつつ、再び歩き出す。門をくぐればすぐそこは東宮府だ。
東宮府とはその名のごとく東宮、つまり太子のための官府である。太師、太傅、太保の東宮三師を長に置き、舎人と呼ばれる近衛や官吏、そして粒ぞろいの女官たちをそろえた、『もう一つの小さな朝廷』といってもいいかもしれない。
さらに奥の東宮御殿を目指して回廊を歩いていくと、前方から官吏の一団がやってくるのに出くわした。会議帰りの高官だと気づき、結蓮はさっと端へ寄る。
「──これはこれは、豊舎人ではないか。久しく顔を見ていなかったが」
声をかけてきたのは恰幅のいい初老の男。蔡東宮太傅だ。東宮府の最高官の一人である彼が気安く一武官と言葉をかわすのは珍しいが、その声音は友好的なものではなかった。
「はっ。しばらくお暇をいただいておりました」
「ほーぉ。そうかそうか。そのまま永遠に休んでおればよかったのにの~」
蔡太傅の笑顔は引きつっている。ぴくぴくと額の青筋が動いていたが、面を伏せている結蓮は気づかない。
「はっ。ありがたいお気遣いですが、そういうわけにはまいりません。長く休んでしまいました分も含め、今日より精一杯務めてまいる所存です」
「やらなくてよいわーっ! そなたが働くとろくなことにならぬ!」
とうとう我慢できなくなったのか蔡太傅が癇癪を起こした。
「任務に出かけるたびに何かしら破壊しおって! 修理費がいくら溜まっているか知っておるのか!? そなたの給金の五十年分だぞ! しかもそのすべてが東宮府に請求されておる! そなたは東宮府の庫を空にする願掛けでもしておるのかっ!」
「はっ!」
「はっ、ではない! このままいけば冗談ではなく東宮府は破産なのだぞ!」
がみがみと説教を繰り出す蔡太傅を、隣にいた瘦軀の官吏が「まあまあ」となだめた。
「お務め熱心でよいではありませぬか。それに豊舎人も破壊したきり素知らぬ顔をしているわけではありますまい。修繕費は豊家のほうから出ているはず。──違うかね? 豊舎人」
ちらりと視線を向けられ、結蓮は拱手して頭をさげる。
「私の個人財産から捻出しております。范東宮太保」
「そうであろうな。権門豊家にしてみれば、これしきの修繕費など雀の涙ほどでもなかろう。あと五百年分ほど暴れてみてはどうかね」
范太保が薄く笑みを浮かべる。切れ者と評判の彼も時には冗談を言うらしい。
人柄も外見も正反対のこの二人が実質的な東宮府の最高官だった。どちらも朝廷の権力者である豊家に良い印象は抱いていないようだが、太子に対する職務は忠実だ。ちなみにもう一つの席である東宮太師は現在病気療養中である。
「さっすっがっ范太保~! 豊舎人の事情までご存じとは、慧眼でございますなぁ! しかもその冗談の面白いこと! しびれますなぁ、まったく!」
横からわかりやすく揉み手をしながら首を突っ込んできたのは孔東宮少保だ。その名のとおり范太保の副官であり東宮府の次官でもある彼は、仕事中よりも太保にごまをすっている時のほうがいきいきしているともっぱらの評判である。あだ名はもちろん『腰巾着』だ。
「のう、皆もそう思うだろう? その上、叱られる豊舎人を庇っておやりになるとは、范太保のお優しい人柄がにじみ出ているではないかっ」
「まったくです。そのとおりです!」
傍にいた体格のいい下官が汗を拭き拭きうなずく。他の下官たちも愛想笑いで同意しているのを見やり、蔡太傅が苦々しい顔をした。
「しかし最初に立て替えるのは東宮府なのだぞ。それが立て続けに請求された日には、わしの心の臓も止まりかけるわっ! まったく、おとなしくあのまま嫁に行っておればよかったものを──」
「あーら、皆様。また今日も結蓮様いじめですの?」
華やかな声が割って入った。
次の瞬間、その場にいた全員が振り向いて礼をとる。
「……ご機嫌麗しゅう存じます。耀妃様、景妃様、麗妃様」
代表して口上をのべた蔡太傅に、東宮御殿のほうから出てきた女性たちが一様に微笑んだ。結い上げた見事な黒髪にはそれぞれ花を象った宝玉の簪を挿し、幾重にもなるひれをまとった姿は天女のように美しい。
「お顔をおあげくださいな。せっかくお話しするのですもの、そのほうが楽しいでしょう?」
「そうよ。特に結蓮様。お顔を拝見したいわ」
「お会いするのお久しぶりですものねえ」
勝ち気な美貌と気さくな性格を併せもつ耀妃、愛らしい顔立ちで快活な雰囲気のある景妃、ほんわかとした優しい笑みがまぶしい麗妃。目にもあざやかな衣装に身を包んだ彼女たちは、全員が太子妃である。
とはいっても、太子は彼女らと本当の夫婦にはなっていない──らしい。耀妃は学問、景妃は香道、麗妃は囲碁をそれぞれ得意としており、その実力は学者たちも舌を巻くと言われる。息子の後宮に多彩な才能を求めた皇后が彼女たちを集めたのだが、負けず嫌いな当の太子は、妃らとの勝負に勝つまでは夫婦にはならないと言い張っていた。
若くして後宮に入った妃たちとは結蓮も長いつきあいになる。今日も彼女たちは裳裾をひるがえす勢いで群がってきた。
「ちょっと結蓮様! 三度目の縁談が破談になったと聞いたけれど、本当ですの?」
「お相手は確か、梅州候の一族の令息でしたかしら? でもわたくしね、破談になってよかったと思っているの。だって、その相手ときたら官職にもついていないドラ息子だっていうじゃない。そんな男に結蓮様を任せられないわ」
「景妃様、それは二度目のお相手でしょう。三度目の方は兵部省のお役人です。三十も歳が離れておられる上、あちらは四度目のご結婚だとか。わたくし、正直申し上げて、結蓮様が嫁がれることに納得がいっておりませんでしたわ」
「まったくそのとおりですわね。こんなことを申し上げてはなんですけれど、結蓮様のお父君は婿選びに手を抜きすぎではございませんの? 豊家の力をもってすれば、もっとふさわしい婿がねはいくらでも見つかるでしょうに。ねえ、皆様もそう思われますでしょう?」
急に話を振られ、東宮官らはぎくりとした様子で目をそらす。彼らにしてみればなんとも答えにくい質問だから、無理もない。
「結蓮様も早く殿下の後宮にお入りなさいよ。そうすればもう手抜きな婿がねを押しつけられることもないわ。わたくしたちも楽しいし」
景妃の無邪気な提案に、東宮官らがぎょっとする。しかし他の二人の妃も同意のようだ。
「学問、香道、囲碁ときて、武の達人が妃に加われば、殿下の後宮は安泰ですわね」
「ぜひそうなさいませ。今すぐにでも!」
「いえ、私は……」
三人の美女ににじりよられ、結蓮は困った。彼女たちの会話を聞くのは楽しいが毎度最後にはこんな流れになるのだからたまらない。
「お妃様方! そのような戯れ言、大きな声で仰いますな。豊舎人は太子殿下とは叔母と甥の関係なのですぞ。後宮になぞ入れるわけがございませぬ!」
「ええ~。別にそんなの、気にしませんわ」
「殿下がご命令なさるなら、誰も文句なんて言わないわよねえ」
蔡太傅が目をむいてたしなめたが、それがどうしたと言わんばかりに妃たちは顔を見合わせている。彼女たちにとっては後宮の仲間に幼なじみの結蓮が加わるという事実が大事らしい。
と、そこへ遠慮がちな咳払いが響いた。
彼女たちのさらに後ろからやってきたのは三十がらみの若い官吏。太子の守り役である秦東宮少傅だ。柔和な顔に苦笑を浮かべている。
「お妃様方、そのへんになさいませ。豊舎人は伺候の途中でございますよ」
「まあ、そうでしたわ。ごめんあそばせ、結蓮様」
妃たちが眉をひそめて詫びを入れるのを、結蓮はかしこまったまま受け止めた。
「皆様の過分なお心遣い、いたみいります」
一度ならず三度も結婚が破談になったのだから、若い娘にとって不幸な話題には違いない。だが彼女らに悪意がないことはわかるし、むしろ心配されているのが伝わってきて逆に申し訳ない気分になる。
ようやく騒動の輪を抜け出せた結蓮は、あらためて本来の目的地である東宮御殿へと向かうことになった。
「迎えに来てくださってありがとうございました、秦少傅。助かりました」
「いえ、実は殿下のご命令なんですよ。豊舎人の登城をお待ちかねのようで」
秦少傅が爽やかに笑う。穏やかな物腰は先ほどの官吏たちとはまるで別の人種のようだ。
「ご所望の品はこちらでよかったのでしょうか?」
「はい、ありがとうございました。使い走りのようなことをさせてしまって申し訳ありませんでしたね」
「殿下のお役に立てるのならば、どんな任務であろうと本望です」
秦少傅が、くすっと笑みをこぼす。
「あなたのその太子殿下大事のご発言、このところ聞いていなかったので懐かしいですね」
少し口調をくだけさせた彼に、結蓮もいくらか緊張を解いてうなずいた。太子が幼少の頃から仕えている彼とも、昔からの知り合いだ。
東宮府の次官である東宮少傅は、本来なら三十そこそこの若さで就けるものではない。彼の生母がかつて皇后の養育係を務めていたという縁から任命されたのだが、当時は随分と陰で非難されたとも聞く。
だが結蓮は、彼は太子の守り役に適任だと思っていた。穏和な性格もそうだが、やはり太子の傍には素姓のはっきりした一族の者がいてくれたほうが安心できる。
「久しぶりの出仕なので、なかなか勘が戻らなくて困りました」
「大変でしたね。でもあなたには花嫁衣装より武官姿のほうがお似合いですよ。──あ、もちろん良い意味で、ですけど」
慌てたように付け加える彼に、結蓮は唇をほころばせる。
「ありがとうございます。私にとっては最高の賛辞です」
舎人の身分証である白と紅の玉牌を提示し、許可を得て門をくぐる。
水を落としてぼかしたような薄色の空は門の外と中とでは変わらないが、一歩足を踏み入れると明らかに空気が変わる。太子を守るための結界が施してあるのだ。かすかにぴりぴりと肌を刺すような緊張感が身体を包む。
桃花園の先には、あざやかな朱塗りの柱と吊り灯籠の回廊が続いている。欄間に描かれた壮麗な龍の紋様は翠と蒼。それに彩られた扁額には〈春明殿〉と力強い文字が躍っている。
「──お気を付けください。豊老公がお見えになっておいでです」
声を落として忠告してくれた秦少傅に、結蓮は一瞬間を置いてうなずいた。