太子の御在所である奥の間は、しんと清涼な香気がただよっていた。
蓮花と桃花の透かし彫りがされた玻璃の壁がめぐらされ、金の燭台には二十ばかりの受け皿に香りのする明かりが灯っている。水晶と翡翠を縫いつけた白絹と綾絹の重ね帳をくぐり、結蓮はその場に膝をついた。
「豊結蓮、ただいままかりこしましてございます。太子殿下におかれましては──」
よい、と涼やかな声が遮った。
「口上は不要だ。顔をあげて、客人に挨拶してやるがいい」
そっけない口調は以前と変わっていない。結蓮は言われるまま視線をあげた。
一段高いところにある御座。正面だけ御簾があげられたそこが太子の御ましどころだ。
煌国太子、臨琮成。大椅子の肘掛けにもたれてこちらを見ている彼の瞳は、椅子に象眼された宝玉と同じ輝き──蒼い色をしている。龍神に選ばれた証である碧眼の持ち主は、蒼い星の加護を受ける者という意味をこめて蒼星太子という号で呼ばれるのが慣例だ。
(殿下……)
年々立派になっていく主君を結蓮は内心うっとりして見つめた。華やかな美貌の皇后にはあまり似ていないが、冴え冴えとした月を思わせる端整な面立ちは彼を実際の年齢より大人びて見せている。
(よかった。お元気そう……)
彼と会うのは約一月ぶりだった。花嫁衣装をひるがえして駆けつけた、例の婚礼の夜以来だ。結局あの時の怪異騒ぎはすぐに鎮まり、連れ戻された結蓮は屋敷に軟禁されて今日まで出仕することができなかった。
その屋敷軟禁令を出した張本人は今、同じ部屋にいる。
右手の席に座った白髪の老人に向き直り、結蓮は静かに一礼した。
「お久しぶりでございます。お祖父様」
声が緊張するのを隠せない。祖父に会うのもまた、あの婚礼の夜以来だった。
煌国一といっても過言ではない大商家の当主──豊諭迅がゆっくりと目を向ける。
「……おまえには屋敷で謹慎を命じていたはずだが。ここで何をしている?」
「太子殿下のお召しにより、ご所望の品をお届けにまいりました」
冷え冷えとした声に胸を貫かれたような心地になったが、結蓮は姿勢を崩さず答えた。
「所望の品。わざわざおまえにか。どのようなものか興味をそそられるな」
「豊老公、とぼけるのはやめたらどうだ。結蓮が来ることを聞きつけてここへ来たのだろう」
琮成が眉を寄せて口をはさむ。諭迅は表情を変えずに御座へ向き直った。
「なんのことでしょうかな、殿下」
「よく言う。妃たちまで追い出しておきながら」
そういえば、と結蓮は思う。先ほどは随分と都合よく妃たちが登場したと思ったら、太子のもとから追い出されてきたところだったのか。
「ではお聞かせ願いましょうか。どちらの菓子屋の品をご所望であられたのか」
「そら見ろ、知っているではないか。──結蓮、品を」
結蓮は「はっ」とかしこまって膝で一歩前へ出た。しかしすぐに動きを止め、太刀に手をかける。
「殿下、おそれながら抜刀のご許可をいただきたく存じます」
早口での奏上に、琮成が眉をひそめる。だが何も聞きかえすことなく一言返した。
「許す」
瞬間、すばやく太刀を抜き、結蓮は壇上の琮成に向かって床を蹴った。
勢いよく太刀を振り下ろす。琮成の座る椅子の真後ろ、帳のかかった壁に切っ先が突き刺さった。背後で諭迅と秦少傅が息を吞む。
「──一体何事だ?」
突然の立ち回りにも表情すら変えず振り向いた琮成に、結蓮は一つ息をついて答えた。
「蠍です。仕留めましたのでご安心を」
美しい帳の布に毒々しい色の蠍が太刀で縫い止められている。かすかに動いたところを見ると直前まで生きていたのは間違いない。
「なるほど。妖術の効かない結界内にも毒虫なら入れるというわけか」
ふんと鼻を鳴らし、琮成が目線を転じる。
「私は無事だ。少傅、今日この殿舎に出入りした者と荷をすべて調べてこい」
「御意にございます」
蒼白な顔をした秦少傅が急いで部屋を出て行った。結蓮は太刀を収め、その場に膝をついて検分する。
「おそらくは西方の砂漠にいる蠍と思われます。種の中でも毒性の弱いものです」
「よく知っているな」
「殿下に何かあってからでは遅いと思い、『毒虫大全』を取り寄せて読んだことがあるのです」
「相変わらずおかしな書物ばかり読んでいるのか。──しかし、私にそんなものをけしかけて得をする者がいるとは思えないが。とすると、豊老公に対する伝言か?」
琮成がちらりと諭迅を見る。結蓮はぐっと拳を握りしめた。
太子琮成の生母、豊皇后はとある宮夫人の侍女として後宮へあがったところを皇帝に見初められ、男子を二人産んだ。そのうちの次男が碧眼の持ち主だったため彼女は皇后に立てられた。煌朝では碧眼の太子を産んだ者が皇后にのぼるのが慣例である。
国で唯一の存在を産んだ皇后の威光は尋常なものではない。実家である豊家は一族こぞって高官に取り立てられ、今も朝廷で活躍している。加えて、豊家というのはもともと国でも有数の大商家だ。富も権力も最高のものを手に入れてこの世の春を謳歌する一族は、人々の妬みをどうしても買ってしまう。それで時々、表立って反抗できない者がこうして卑怯な嫌がらせをしてくることがあった。
「なんという不届き千万な輩……!」
怒りのあまり結蓮は傍にあった何かを握りしめた。すぐにバリンと音をたてて砕け散る。
「おい……それ私の杯……」
「断じて許せぬ!」
さらに握りしめた欠片が押しつぶされ、さらさらと砂粒状になって手からこぼれていく。それでも怒りが収まらずにいる結蓮に、琮成がため息をついた。
「怪力なやつめ。それ以上暑苦しくするなら放り出すぞ」
はた、と結蓮は我に返る。太子と同じ御座の中にいると気づいて仰天して飛び退った。
「ご無礼つかまつりましたっ!」
椅子に座りなおした琮成は少し呆れているようだった。
「いいかげん、私のことになると必要以上にむきになるのはやめろ」
「申し訳ございません……。畏れ多くも殿下を敬愛したてまつりすぎていて」
「それをよせと言っている」
むすりとした顔で言いつつも、琮成はまんざらでもなさそうだ。しかし平伏した結蓮がそれを見ることはなかった。──同族の誼と幼なじみという思い出があっても、今の二人の間には主従の壁が歴然とたちはだかっている。
「春明殿の警備を厚くするよう、蔡太傅に進言いたします。太子殿下は煌国唯一の御方、害を加えようとする者がいるとは思えませぬが、このようなことが続けば示しがつきませぬ」
重々しく宣言した諭迅の顔には深い皺が刻まれている。一臣下としても豊家の当主としても太子の祖父という立場からしても、彼が怒るのは当然のことだろう。
結蓮は同意をこめて深くうなずき、ふと思い出して琮成を見た。
「太傅といえば、こちらへ参る時に偶然お会いしました。あの時に知っていれば申し上げたのですが」
「そういえば随分来るのが遅かったな。また説教でもされていたのか。今度は何を言われた」
「任務における修繕費の件です。東宮府が破産の危機だと言われましたが、やめるわけにはまいりませんし……」
琮成の命令で結蓮が行っている任務。それは妖怪退治だった。
悪鬼妖怪が跋扈する世の中、苦しむ民からの奏上に琮成が心を痛めているのを知る結蓮は、国中に出向いては太刀一本で退治して回っていた。龍神の末裔である太子は市井の人々にとって一種の信仰の対象となっている。その信仰心を壊してはいけないという一心からだ。
しかしその任務に大反対している祖父は、いっそう厳しい顔つきになった。
「太子殿下。金輪際、結蓮に任務をお与えになりませぬよう、重ねてお願いいたしまする。この結蓮はわしが決めた相手に嫁入りすることが決まっております。任務とやらで傷がついては困るのでございます」
何か言いたげに結蓮を見ていた琮成が、じろりと諭迅に目を向ける。
「だが結蓮は嫁入りなどしたくないようだぞ。豊老公」
「だからといって、婚礼当日に宮城で騒ぎを起こされるのは感心いたしませぬな。殿下」
「……なんのことだ」
琮成が眉を寄せる。眼光が鋭くなったが、諭迅のほうもそれは同じだった。
「結蓮の婚礼の夜にかぎって、殿下は宮城で怪異に遭われておられまする。おかげで結蓮は花嫁の立場も忘れ、初夜を放棄して殿下のもとに駆けつける始末。そのようなことがこれまでに三度も起こっておるのですが……この老いぼれの思い違いでしょうかな」
「お祖父様っ、殿下に対してそのような仰りようは──」
「黙らぬか。先日の縁談が破談になった一件、よもや忘れてはおらぬだろう。またしてもわしの顔に泥を塗ってくれおって、この不孝者が。おまえには豊家の娘という自覚がないのか」
低く響く声で制され、結蓮の胸がずきりと痛んだ。思わず口をつぐんでしまう。
「太子舎人の職を辞めろとは言わぬ。ただし、わしの決めた相手と結婚するのが第一の条件だ。おまえが舎人拝命の折にもそう言ったな?」
「……はい」
「わかっているならよい。次の相手を探してきた。今日はそれを告げにきたのだ」
はっとして結蓮は顔をあげた。破談になったのはほんの一月前のことだというのに、もう次の結婚話を持ってきたなんて。
「豊老公」
「殿下。結蓮をご案じくださるのは、まことに有り難きことです。しかしこれは豊家の問題にございます。お気持ちだけちょうだいしておきますので、どうかお許しを」
鋭く口を挟んだ琮成に、慇懃に礼をして諭迅が立ち上がる。わざわざこの場で四度目の縁談の話を切り出したのは琮成に対する牽制の意味もあったようだ。
通り過ぎざま、諭迅は視線もくれずに続けた。
「結蓮。おまえに祖父はおらぬ。何度言えばわかるのだ」
冷ややかな声で咎められ、結蓮は自分がはしゃぎすぎたことを悟った。
権門豊氏の娘で、皇后の妹で、太子の同年の叔母。──それは表の顔だ。
本当の結蓮は、諭迅の孫で、皇后の姪で、太子の従妹。そして、未婚の母を持つゆえの一族のつまはじき者──。
「申し訳ありません。……お父様」
華麗なる一族におけるほぼ唯一といっていい汚点、醜聞になりうる自身の存在を、朝廷にいる間はけして忘れてはいけないのだ。
琮成が案じるように目を向けたが、うつむいた結蓮が気づくことはなかった。