第一章 突然の求婚者③



 太子の御在所である奥の間は、しんと清涼せいりょう香気こうきがただよっていた。

 蓮花と桃花のかしりがされた玻璃はりかべがめぐらされ、金の燭台しょくだいには二十ばかりの受け皿にかおりのする明かりがともっている。水晶すいしょう翡翠ひすいいつけた白絹と綾絹あやぎぬの重ねとばりをくぐり、結蓮ゆいれんはその場にひざをついた。

ほう結蓮、ただいままかりこしましてございます。太子殿下でんかにおかれましては──」

 よい、とすずやかな声がさえぎった。

「口上は不要だ。顔をあげて、客人に挨拶あいさつしてやるがいい」

 そっけない口調は以前と変わっていない。結蓮は言われるまま視線をあげた。

 一段高いところにある御座ぎょざ。正面だけ御簾みすがあげられたそこが太子のましどころだ。

 煌国こうこく太子、臨琮成りんそうせい。大椅子いす肘掛ひじかけにもたれてこちらを見ている彼のひとみは、椅子に象眼ぞうがんされた宝玉と同じかがやき──あおい色をしている。龍神りゅうじんに選ばれたあかしである碧眼へきがんの持ちぬしは、蒼い星の加護かごを受ける者という意味をこめて蒼星太子という号で呼ばれるのが慣例だ。

(殿下……)

 年々立派になっていく主君を結蓮は内心うっとりして見つめた。はなやかな美貌びぼう皇后こうごうにはあまり似ていないが、えとした月を思わせる端整たんせい面立おもだちは彼を実際の年齢ねんれいより大人おとなびて見せている。

(よかった。お元気そう……)

 彼と会うのは約一月ぶりだった。花嫁はなよめ衣装をひるがえしてけつけた、例の婚礼こんれいの夜以来だ。結局あの時の怪異かいいさわぎはすぐにしずまり、連れ戻された結蓮は屋敷やしき軟禁なんきんされて今日まで出仕しゅっしすることができなかった。

 その屋敷軟禁令を出した張本人は今、同じ部屋にいる。

 右手の席に座った白髪はくはつの老人に向き直り、結蓮は静かに一礼した。

「お久しぶりでございます。お祖父じい様」

 声が緊張きんちょうするのをかくせない。祖父に会うのもまた、あの婚礼の夜以来だった。

 煌国一といっても過言ではない大商家の当主──豊諭迅ゆじんがゆっくりと目を向ける。

「……おまえには屋敷で謹慎きんしんめいじていたはずだが。ここで何をしている?」

「太子殿下のおしにより、ご所望の品をお届けにまいりました」

 冷え冷えとした声にむねつらぬかれたような心地ここちになったが、結蓮は姿勢をくずさず答えた。

「所望の品。わざわざおまえにか。どのようなものか興味をそそられるな」

「豊老公、とぼけるのはやめたらどうだ。結蓮が来ることを聞きつけてここへ来たのだろう」

 琮成が眉を寄せて口をはさむ。諭迅は表情を変えずに御座へ向き直った。

「なんのことでしょうかな、殿下」

「よく言う。きさきたちまで追い出しておきながら」

 そういえば、と結蓮は思う。先ほどは随分ずいぶん都合つごうよく妃たちが登場したと思ったら、太子のもとから追い出されてきたところだったのか。

「ではお聞かせ願いましょうか。どちらの菓子かし屋の品をご所望であられたのか」

「そら見ろ、知っているではないか。──結蓮、品を」

 結蓮は「はっ」とかしこまって膝で一歩前へ出た。しかしすぐに動きを止め、太刀たちに手をかける。

「殿下、おそれながら抜刀ばっとうのご許可をいただきたく存じます」

 早口での奏上そうじょうに、琮成がまゆをひそめる。だが何も聞きかえすことなく一言返した。

「許す」

 瞬間しゅんかん、すばやく太刀を抜き、結蓮は壇上だんじょうの琮成に向かってゆかった。

 勢いよく太刀を振り下ろす。琮成の座る椅子の真後ろ、とばりのかかった壁に切っ先がき刺さった。背後で諭迅としん少傅しょうふが息をむ。

「──一体何事だ?」

 突然の立ち回りにも表情すら変えず振り向いた琮成に、結蓮は一つ息をついて答えた。

さそりです。仕留めましたのでご安心を」

 美しい帳の布に毒々しい色の蠍が太刀でい止められている。かすかに動いたところを見ると直前まで生きていたのは間違いない。

「なるほど。妖術ようじゅつの効かない結界内にも毒虫なら入れるというわけか」

 ふんと鼻を鳴らし、琮成が目線を転じる。

「私は無事だ。少傅、今日この殿舎でんしゃに出入りした者と荷をすべて調べてこい」

御意ぎょいにございます」

 蒼白そうはくな顔をした秦少傅が急いで部屋を出て行った。結蓮は太刀を収め、その場に膝をついて検分する。

「おそらくは西方の砂漠さばくにいる蠍と思われます。種の中でも毒性の弱いものです」

「よく知っているな」

「殿下に何かあってからではおそいと思い、『毒虫大全』を取り寄せて読んだことがあるのです」

「相変わらずおかしな書物ばかり読んでいるのか。──しかし、私にそんなものをけしかけて得をする者がいるとは思えないが。とすると、豊老公に対する伝言か?」

 琮成がちらりと諭迅を見る。結蓮はぐっとこぶしにぎりしめた。

 太子琮成の生母、豊皇后はとある宮夫人の侍女じじょとして後宮へあがったところを皇帝こうてい見初いそめられ、男子を二人産んだ。そのうちの次男が碧眼の持ち主だったため彼女は皇后に立てられた。煌朝では碧眼の太子を産んだ者が皇后にのぼるのが慣例である。

 国で唯一ゆいいつの存在を産んだ皇后の威光いこう尋常じんじょうなものではない。実家である豊家は一族こぞって高官に取り立てられ、今も朝廷ちょうてい活躍かつやくしている。加えて、豊家というのはもともと国でも有数の大商家だ。富も権力も最高のものを手に入れてこの世の春を謳歌おうかする一族は、人々のねたみをどうしても買ってしまう。それで時々、表立って反抗はんこうできない者がこうして卑怯ひきょういやがらせをしてくることがあった。

「なんという不届き千万せんばんやから……!」

 いかりのあまり結蓮はそばにあった何かを握りしめた。すぐにバリンと音をたててくだけ散る。

「おい……それ私のさかずき……」

「断じて許せぬ!」

 さらに握りしめた欠片かけらが押しつぶされ、さらさらと砂粒すなつぶ状になって手からこぼれていく。それでも怒りが収まらずにいる結蓮に、琮成がため息をついた。

怪力かいりきなやつめ。それ以上暑苦しくするならほうり出すぞ」

 はた、と結蓮は我に返る。太子と同じ御座の中にいると気づいて仰天ぎょうてんして飛び退すさった。

「ご無礼つかまつりましたっ!」

 椅子に座りなおした琮成は少しあきれているようだった。

「いいかげん、私のことになると必要以上にむきになるのはやめろ」

「申し訳ございません……。おそれ多くも殿下を敬愛したてまつりすぎていて」

「それをよせと言っている」

 むすりとした顔で言いつつも、琮成はまんざらでもなさそうだ。しかし平伏へいふくした結蓮がそれを見ることはなかった。──同族のよしみおさななじみという思い出があっても、今の二人の間には主従の壁が歴然とたちはだかっている。

春明殿しゅんめいでん警備けいびを厚くするよう、さい太傅たいふに進言いたします。太子殿下は煌国唯一の御方おかた、害を加えようとする者がいるとは思えませぬが、このようなことが続けば示しがつきませぬ」

 重々しく宣言した諭迅の顔には深いしわが刻まれている。一臣下としても豊家の当主としても太子の祖父という立場からしても、彼が怒るのは当然のことだろう。

 結蓮は同意をこめて深くうなずき、ふと思い出して琮成を見た。

「太傅といえば、こちらへ参る時に偶然ぐうぜんお会いしました。あの時に知っていれば申し上げたのですが」

「そういえば随分来るのが遅かったな。また説教でもされていたのか。今度は何を言われた」

「任務における修繕費しゅうぜんひの件です。東宮府とうぐうふが破産の危機ききだと言われましたが、やめるわけにはまいりませんし……」

 琮成の命令で結蓮が行っている任務。それは妖怪ようかい退治だった。

 悪鬼妖怪あっきようかい跋扈ばっこする世の中、苦しむたみからの奏上そうじょうに琮成が心を痛めているのを知る結蓮は、国中に出向いては太刀一本で退治して回っていた。龍神の末裔まつえいである太子は市井しせいの人々にとって一種の信仰しんこう対象たいしょうとなっている。その信仰心をこわしてはいけないという一心からだ。

 しかしその任務に大反対している祖父は、いっそう厳しい顔つきになった。

「太子殿下。金輪際こんりんざい、結蓮に任務をおあたえになりませぬよう、重ねてお願いいたしまする。この結蓮はわしが決めた相手に嫁入よめいりすることが決まっております。任務とやらで傷がついては困るのでございます」

 何か言いたげに結蓮を見ていた琮成が、じろりと諭迅に目を向ける。

「だが結蓮は嫁入りなどしたくないようだぞ。豊老公」

「だからといって、婚礼こんれい当日に宮城でさわぎを起こされるのは感心いたしませぬな。殿下」

「……なんのことだ」

 琮成がまゆを寄せる。眼光がするどくなったが、諭迅のほうもそれは同じだった。

「結蓮の婚礼の夜にかぎって、殿下は宮城で怪異かいいわれておられまする。おかげで結蓮は花嫁の立場も忘れ、初夜を放棄ほうきして殿下のもとに駆けつける始末。そのようなことがこれまでに三度も起こっておるのですが……この老いぼれの思い違いでしょうかな」

「お祖父様っ、殿下に対してそのようなおっしゃりようは──」

だまらぬか。先日の縁談えんだんが破談になった一件、よもや忘れてはおらぬだろう。またしてもわしの顔にどろってくれおって、この不孝者が。おまえには豊家のむすめという自覚がないのか」

 低くひびく声で制され、結蓮の胸がずきりと痛んだ。思わず口をつぐんでしまう。

太子舎人しゃじんの職をめろとは言わぬ。ただし、わしの決めた相手と結婚するのが第一の条件だ。おまえが舎人拝命はいめいの折にもそう言ったな?」

「……はい」

「わかっているならよい。次の相手を探してきた。今日はそれを告げにきたのだ」

 はっとして結蓮は顔をあげた。破談になったのはほんの一月前のことだというのに、もう次の結婚話を持ってきたなんて。

「豊老公」

「殿下。結蓮をご案じくださるのは、まことにがたきことです。しかしこれは豊家の問題にございます。お気持ちだけちょうだいしておきますので、どうかお許しを」

 鋭く口をはさんだ琮成に、慇懃いんぎんに礼をして諭迅が立ち上がる。わざわざこの場で四度目の縁談の話を切り出したのは琮成に対する牽制けんせいの意味もあったようだ。

 通り過ぎざま、諭迅は視線もくれずに続けた。

「結蓮。おまえに祖父はおらぬ。何度言えばわかるのだ」

 冷ややかな声でとがめられ、結蓮は自分がはしゃぎすぎたことをさとった。

 権門豊氏の娘で、皇后の妹で、太子の同年の叔母おb。──それは表の顔だ。

 本当の結蓮は、諭迅の孫で、皇后のめいで、太子の従妹いとこ。そして、未婚みこんの母を持つゆえの一族のつまはじき者──。

「申し訳ありません。……お父様」

 華麗かれいなる一族におけるほぼ唯一といっていい汚点おてん醜聞しゅうぶんになりうる自身の存在を、朝廷ちょうていにいる間はけして忘れてはいけないのだ。

 琮成が案じるように目を向けたが、うつむいた結蓮が気づくことはなかった。

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