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出仕復帰から一日。
「──おはようございます」
いつものように一礼して結蓮が演習場へ入ると、先に来ていた同僚の武官たちの会話が一瞬ぴたりと止まった。
やがてさざなみのようにひそひそと会話が再開される。三度目の婚礼も破談になり久しぶりに出仕してきた女武官のことだ、山ほど噂話が飛んでいるのだろう。
「あの人も柚梨軍の武官ですか? 随分と毛色が違いますけど……」
新入りの若い武官が釘付けになっているのに気づき、先輩武官らが苦笑する。
「惚れかけてるんならやめておけよ。ああ見えて柚梨軍じゃ五本の指に入ると言われる腕前だ。おまえの手には負えないぜ」
「そうそう。禁軍五将のうち、西将軍と南将軍に立ち合いで勝ったこともあるんだぞ。生まれ育ちは深窓の令嬢だが、今じゃ姫将軍ってあだ名までついてるくらいだ」
「そんなに強いんですか。全然そうは見えませんね……」
なおも見とれている新入り武官に、先輩武官らは面白そうに顔を寄せて続ける。
「何しろ、三度も結婚が破談になってるだろ。実は男だから婿に逃げられたんじゃないかっていう噂もあるんだぜ」
「えっ!?」
「真夏でもきっちりと帷子や武具をつけて、絶対に脱ごうとしないしな。それについては、肌に呪いの経文が刻まれてるのを見られたくないからって説もある」
「他にも不気味な噂が絶えないんだ。あの美貌に魅せられて言い寄っていた者たちは、豊家の屋敷に入ったまま一人も帰ってこなかったとか。夜な夜な鬼火に囲まれて奇妙な宴を開いているらしいとか……」
「厳しく当たったり嫌がらせをしたりすると必ず不幸が降りかかるらしいぞ。これは噂じゃなく事実だ。現についこの前も、打ち負かそうと闇討ちしたやつらが後で河に浮かんでたらしい。あの娘は祟るんだ。かかわらないほうが賢明だぜ」
「わ……わかりました。自分、豊舎人には絶対に近づきません!」
口々に噂を吹き込まれ、新入り武官はみるみる青ざめた。
一方、そんな不名誉な噂話を囁かれているのも構わず、結蓮は演習場の隅へ行くと武器の確認に取りかかった。遠巻きにされるのは以前からのことだから別に気にならない。
(出仕するのは一月ぶりくらいだけど、やっぱり変わらないのね)
自分がどんなふうに噂されているのかは知っている。これが太子に関わることならば黙ってはいないが、自分のことならどうでもいいというのが正直なところだった。
禁軍の一、太子近衛である柚梨軍。十四歳で武官登用試験に合格して以降、ここが結蓮の所属先だ。
煌の軍には女性も登用されている。建国の逸話にある、太祖を助けてよく仕えたという強弓使いの女将軍の故事によるものだ。しかし名門の姫が武官になるという例はなかなか珍しいため、結蓮は常に噂話の的だった。おかげでそれを聞き流す技も年々磨きがかかっている。
だから今日も、初めのうちは飛び交う会話も耳に入ってこなかったのだが──。
「そういえば、聞いたか? 皇后様の快癒祈願が近いらしいな」
「ああ、それで。僧侶があんなに集められてるのか」
「それだけじゃない。在野の呪禁師にも募集があったそうだぞ」
近くにいた一団の会話を聞きつけ、結蓮は思わず手を止めた。
(快癒祈願……?)
皇后は今、ある場所で療養している。不慮の事件で傷を負い、長らく生死の境をさまよっていたのだ。結蓮も琮成も口にこそ出さなかったが、回復はいつになるのかとずっと気にかけていた。婚礼のため出仕を控えていたここしばらくの間にそんな話があったとは。
(……でも、そうか。もう五年も経つのね)
そんなに長い月日が過ぎたのが信じられない。後宮に招かれ、綺麗な襦裙を着せられて、珍しい菓子を食べながら母の思い出話を聞いた楽しい日々。つい昨日のことのように思い出せる。
『本当に、美しい娘だったのよ──』
母のことを語るとき、皇后はいつも愛しげな、どこか憧れるような眼差しをしていた。
『我ながら、本当にあたくしと血のつながった妹なのかしらと何度思ったかわからないわ。ひょっとしたら人の世に迷い込んだ仙女様なのかもしれないと、真剣に考えたものですよ……』
つやを含み、水滴をはじくほどにみずみずしく、肩に背中に流れる黒髪。
目を伏せれば、長く豊かな睫毛の影が、えもいわれぬ憂愁の色を頰に落とす。
目をあげれば、まるで女神が藤の花波をかきわけて現れたかのように艶麗であった。
凜としていながら笑みをもたたえているかのような瞳は、光によって色味が変わって見え、その不可思議な魅力にとりつかれる者は後を絶たなかったという。
触れればとけてしまいそうだと錯覚を覚えるほどに、はかない白雪のような頰。
おかしがたい完璧さで、冷たく拒絶するかのような鼻梁の線。
うるわしい果実のごとき、甘美な色と微笑を乗せた唇──。
『そうしていくら言葉を尽くして褒め称えても、その賛辞の一つ一つが、あの子の美しさの前では色褪せてしまったの』
絶世の佳人などという表現では生やさしい。人とは思えぬ、凄絶ともいえる美貌の持ち主。
それが結蓮の母という人だったらしい。だが結蓮には母の記憶があまり残っていなかった。
『まさかあんなに早くにいなくなってしまうなんて。父上もとてもお悲しみだったわ──』
祖父には三人の夫人がいた。同時にいたわけではなく、妻が早世したために一人ずつ娶ったそうで、現夫人は三人目だ。皇后は一人目の妻の子、結蓮の母は二人目の妻の子だった。
男の兄弟が多い中で二人はたいそう仲がよかったらしい。母に群がる求婚者らを片っ端から撃退してやったものだと、伯母はいつも誇らしげに語っていた。
けれどもそれも伯母が後宮にあがるまでのこと。その後、未婚のまま結蓮を産んだ母は数年もたたないうちに姿を消した。伯母は一人残された結蓮を後宮にたびたび呼んでは母の代わりに慈しんでくれた。
『そなたはあの子に生き写しですよ。そのうちに鬱陶しい求婚者が山のようにやってくることでしょう。ああ、いまいましい。あたくしの権力で蹴散らす準備をしておかなければ!』
まだ小さかった結蓮は、本気の目をして息巻く伯母の様子からしてそれが大変なことなのだと思いいたり、一度訊いてみたことがある。
『求婚者をお断りする方法は、ないのですか? 難しいのですか?』
『いいえ、簡単ですよ。相手が用意できないほどの高価な物品や支度金を要求してやればよいのです』
伯母は晴れやかな顔でそう言った。
『でも、皇后さま。それだと、相手の方がかわいそうです』
『あらあら、可愛い子。可哀相も何も、そなたの母上が考案して行使しまくった手ですよ?
〝わたくしと結婚したければ何某のお宝を持ってきなさい〟、とね。たいていの男はそこで諦めるかボロを出します。そなたも面倒な男に言い寄られたら遠慮なくそうやって撃退なさい』
『けれど、相手の方がほんとうにそのお宝をもっていらしたら……?』
『案ずることはありませんよ、結蓮。そんなことはありえません。我が豊家よりも財のある氏族など、大煌広しといえど存在していないのですもの。おーほほほほほ……』
華麗な高笑いが脳裏によみがえり、結蓮は思わずくすりと笑う。
美貌と才気を兼ね備え、国母である誇りと自信に満ちていつも堂々としていた伯母。結蓮に女人としての生き方を教えてくれて、一族の誹謗から守ってくれた。大好きだったのに、今もまだ目覚めない──。
「──豊結蓮はいるか!」
突如名を呼ばれ、物思いに沈んでいた結蓮ははっとして顔をあげた。
見れば、演習場に入ってきたのは柚梨軍の副将軍だ。傍には孔東宮少保もいる。
「はっ! 豊結蓮、ここにおります!」
きびきびと駆け寄った結蓮に、副将軍がいかめしい顔つきで言い放った。
「大将軍閣下からの命令を伝える。──貴様は今日から封陰省に出向だ」
「……出向!?」
繰り返すなり結蓮は絶句した。予想外にもほどがある言葉だったのだ。
周りにいた同僚たちも驚いた様子で、「何かへまでもやらかしたのか」と囁きあっている。武試に合格し皇帝臨御の選抜を経て柚梨軍に入った武官に、出向命令が出るなど例のないことだ。それが豊家の者であればなおさらだろう。
(しかも、封陰省ですって……!?)
龍神の末裔である皇帝を守護するため設立された官府であり、所属するのは呪禁師と呼ばれる術師ばかりである。およそ武官の結蓮が務められるような場所ではないはずだ。
「お言葉ですが。封陰省に出向いて、小官は何をすればよいのでしょうか。門番や警備くらいしかお役にたてそうにありませんが」
丁寧な態度はくずさず、けれども腹立ちを抑えきれずに結蓮は力強く副将軍を見据えた。普段はこんなふうに食ってかかることはしないが、さすがにこれは我慢ならなかった。
「それは向こうで聞くことだ。私は聞いていない」
「これは左遷でしょうか。小官に落ち度があれば、まずそれをお聞かせいただきたく存じます。でなければ殿下のお傍を離れることに納得がいきません!」
「口を慎みなさい、豊舎人。これは上意でございますぞ~」
ねばつくような言い回しで孔少保が咎めた。彼が広げて見せた命令書の印に気づき、結蓮は驚いて口をつぐむ。
上官である柚梨軍長官に命令をくだせるのはただ一人。禁軍を統括する者、つまり皇帝──。
(陛下のご命令……!? でも、何か不興を買うようなことをした覚えは……)
そもそも、皇后の姪とはいっても皇帝とは接点がない。尊顔を拝したこともほんの数度だけだというのに。
「わかったのなら今すぐに向かえ。あちらも待ちかねているだろう」
副将軍の命令に、それ以上異議を唱えるわけにはいかなかった。
◆
翠の甍が波のようにうねり連なった皇城の東に、封陰省はあった。
離れにある書庫が新しい配属先だと聞き、教えられたように結蓮は奥のほうへと向かう。
近づくにつれてその古びた建物が目に入り、どんよりとした気分になった。
これも朝廷の官吏として立派な職務なのだから精一杯務めよう。ここへ来るまでの道すがらそうやって自身に言い聞かせてきたが、やはり気は進まない。
(殿下にもし万一のことがあったら、駆けつけるにも時間がかかってしまうかもしれない。そこは上官どのにご相談して、舎人の職務を優先させていただかなくては)
なんとか自分に折り合いをつけ、気を取り直して扉を開ける。
書庫とはいっても一つの部署であるので、書架が詰まっているだけの部屋というわけではない。手前には広く空間があり、冊子や書類が積み上げられた大きな卓子が置かれていた。
「御免! 柚梨軍から出向でまいりました。どなたかいらっしゃいませんか」
人の姿がなかったため、大声で呼びかける。しかしどこからも応答はない。
もう一度声を張り上げようとして、大卓に紙切れが置かれていることに気付いた。
達筆な字で【御用の方は隣の部屋へどうぞ】と書かれている。
指示通り扉を開けてみると、そこは小さな部屋だった。燭台はすべて明かりが落ちており薄暗い。
見れば、こちらの卓子にも紙切れが置いてあり、今度は【御用の方は起こしてください】と書かれている。
そこで初めて結蓮は、奥に寝台のようなものがあることに気付いた。紗幕の向こうに人が寝ているらしいことにも。
(ひょっとして、ここは封陰官の休憩所?)
皇帝を守る封陰省は朝も夜もなく任務についているはずだから、仮眠をとるような場所があるのも不自然ではない。
紗幕をあげて見てみると、寝ているのは若い男だった。着崩れてはいるが封陰官の官服を身につけている。
「もし、すみません。起きていただけますか」
男はすやすやと寝息をたてて眠っている。結蓮はしばし待ってみたが、彼が一向に起きる気配がないため、今度は肩をつかんで強くゆさぶった。うーん、とうなるような声があがる。
「…………誰?」
がくがくと首が揺れるほどの勢いにさすがに目が覚めたらしい。瞼をあげた彼はぼんやりした眼差しで結蓮を見た。
「はっ。申し遅れました。私は──」
「六蓮天女?」
寝ぼけたような声で彼はつぶやく。大陸の守護を司る天女の夢を見ていたとは、なんとも縁起の良いことだ。
「いえ、違います。六蓮天女ではありません」
生真面目に訂正する結蓮を、彼は凝視していたが、突然がばっと飛び起きた。
驚く結蓮の手をつかみ、胸に抱え込むようにしながら感動したように一言。
「美人だ……」
「──は?」
「その黒紫水晶みたいな瞳……。綺麗だ……」
ぐいと顔を近づけてきた彼は、ひたすら感心したように結蓮を見つめている。
寝ぼけているのかと面食らいながらも、結蓮はきりっと表情を引き締めて本題に入った。
「お休みのところ失礼します。出向でまいりました、柚梨軍北軍所属、豊結蓮と申します」
はっ、と男が息を吞んだ。
先ほどまでとは違った眼差しで結蓮を凝視すると──次の瞬間、なんといきなり抱きついてきた。
「!?」
「会いたかったよ! 久しぶ──」
「狼藉者ッ!!」
瞬時に体勢を立て直し、結蓮は男を投げ飛ばす。
ぎゃっと悲鳴をあげて床に転がった彼を冷ややかに見下ろした。
「神聖な朝廷内で婦女子に乱暴を働こうとは……!」
「へっ。ち、ちが……ていうか乱暴してんのそっちじゃ」
「朝官ともあろう者が、恥を知るがいい!」
「だから、ちが……ぎゃああああ」
関節技を決められた男の断末魔のごとき絶叫が響き渡る。やがて、がくり、と彼は頭を落とした。
思いがけず不埒者を成敗することになり、結蓮はふうと息をついて縄を取り出したが──。
「──きゃーっっ! ちょっと、何事なのーっ」
野太い悲鳴が聞こえ、そちらを見れば、小部屋の戸口に三十がらみの男が立ちすくんでいた。官服からして封陰官らしい。結蓮は急いで立ち上がった。
「出向でまいりました、豊結蓮と申します。偶然にも狼藉者と出会いましたのでこれから捕縛するところです。失礼ですが、次官どのでいらっしゃいますか?」
筋肉質のその封陰官は、やたら可愛らしい仕草で両頰に手を当てている。
「ああ豊舎人ね、話は聞いてるわ。……あの、言いにくいんだけど……」
「はい?」
「……あなたの足下で伸びてる狼藉者が、うちの次官なの……」
結蓮は目を瞠って男を見下ろした。