翠玉の御使い様
お元気でいらっしゃいますか。桃霞はまもなく花の盛りの季節です。
庭の桃のつぼみを眺めていると、ふとあなた様のことが思い出されます。
いつの日かご一緒にお花見に行けたらと夢見るのも、今年で何度目になるでしょう。
御使い様。あなた様は、今、どこにいらっしゃるのでしょうね。
お弟子にしてくださるというお約束を胸に、結蓮は日々、鍛錬に励んでいます。
御使い様。結蓮はもう大人になりました。
どうか、早く、早く迎えに来てくださいね。
◆
月まで凍てつくような真冬の夜。
都のとある屋敷で、名門同士の婚礼が執り行われていた。
花婿は、家門の当主である朝廷官吏。
花嫁は、皇后の異母妹にあたる国一番の富豪の娘。
家同士で決められた結婚である。二人が顔を合わせるのは今宵が初めてのことだった。
「──なぜそんなものを持っているのだね? 物騒な」
遅れて寝室に入った花婿が、それに気づいて眉をひそめる。
赤い布と花で飾られた寝台に腰掛けた花嫁は、一振りの太刀を胸に抱いていたのだ。
房飾り付きの錦の織物を頭からかぶった彼女は、そっと身じろいで太刀を抱きしめる。
「……どうかお許しを。母の形見なのです。傍に置かせていただけませんか」
若い娘とは思えない、ひどく静かな声だった。
早くに母親を亡くした、か弱い富豪の末娘。わざわざ機嫌を損ねて権門との縁をふいにはしたくない。そんな思惑から、花婿は寛大なところを見せておくことにした。
「いいだろう。ただし、寝床の中では鞘を抜いてくれるなよ? 剣豪の貴女相手ではさすがに私も太刀打ちできぬからな」
戯れ言のように言いながら、花嫁がかぶる綾絹を剝ぎ取る。都でも評判の美女である彼女を好奇の目でのぞきこんだが──。
「……っ、これは……!」
伏せていた彼女の目がゆっくりと視線をあげた時、花婿は全身に震えが走るのを感じた。
花嫁は確かに美しかった。白絹のごとく清らかですべらかな肌も、凜とこちらを見つめる黒い瞳も、紅をさした小さな唇も、なんら申し分はない。
だがなぜだろう。賞賛すべき美貌なのに──〝恐ろしい〟と一瞬思ってしまったのは。
「いや──驚いた。なんという佳人だ。この世のものとは思えない……!」
「……」
花嫁が無言で目を伏せる。そんな褒め言葉は聞き飽きているのか、それとも恥じらっているのだろうか。そのはかなげな様子に、花婿は軽く唾を吞み、彼女の肩に手をかけた。
「では……契りの杯をかわそうか。我が妻よ──」
彼女は富豪の令嬢ながら武官として朝廷に出仕しているという変わり者だが、彼女の一族とのつながりが欲しかった花婿にとってはそれは些末なことだった。何より、これほどの稀なる美貌の妻を得ることができるのだ。多少のことには目をつぶらねば罰があたるだろう──。
と、その時。
「豊舎人に申し上げますーっ!」
突然、扉のすぐ外で誰かが叫び、花婿はぎょっとして手を止めた。
今宵は新婚初夜、誰も邪魔をしないよう言いつけているし、第一見張りの者がいたはずだ。
だが誰何するより先に、きびきびとした声はさらに続く。
「東宮春明殿にて太子殿下琮成様、怪異に遭われたとの由! 豊舎人には万難を排してのご登城をお命じです!」
その瞬間、らんっ、と花嫁の目に光が走った。
それまでろくに口もきかず借りてきた猫のように大人しかった彼女は、別人のごとき機敏な動きで立ち上がると、躊躇いもなくするりと帯を解いた。
「な──結蓮嬢!?」
仰天する花婿に構わず、彼女は豪奢な錦の花嫁衣装を脱ぎ捨てる。太刀を中帯に差し、重い簪の束を引き抜いて顔をあげた。さらりと長い黒髪が舞う。
「……太子殿下に狼藉を働くとは、なんと不届き千万な妖怪……!」
低くつぶやきながら腰の太刀に手をかける彼女は、もはやどこをどう見ても可憐な花嫁ではない。凜とした鋭い眼差しは堂々たる戦士のものだ。
「豊結蓮、ただちに登城つかまつります! ──御免!」
「ぬおっ!」
戸口へと突進した花嫁は、開けるのももどかしかったらしく派手に扉を破壊して飛び出して行く。
残されたのは木片となり果てた扉の残骸と、跳ね飛ばされて転がった哀れな花婿。
「……だ……誰か、誰かいないか! 花嫁が──」
床に打ち伏したまま、花婿はわなわなと震えながら声を限りに叫んだ。
「花嫁が、また逃げたぞ────っ!!」